●日露首脳会談の開催
2011年11月12日、APEC首脳会議が行われたホノルルで、野田総理とメドベージェフ大統領が会談を行った。外務省の発表によれば、両首脳は領土問題解決の必要性を再確認し、議論を継続させることで一致。野田総理から、交渉は日露両国間の諸合意に基づき行う必要があることを指摘した、とのことだ。ここで、「諸合意に基づき行う必要性で両国は一致」にもなっていないことが気になる。9月21日、国連総会開催時に行われた日露外相会談の概要を見ると、玄葉外相とラヴロフ外相は、「日露間では立場の違いがある中で、法と正義を重視して、静かな環境で議論を継続していくこと」で一致したとある。 北方領土交渉を「静かな環境」で、という表現をよく見かけるが、意味するところがもうひとつ不明である。昨年11月1日、メドベージェフ大統領は、国後島を訪問。ソ連時代を含めロシア国家元首として初めての北方領土訪問であり、ロシアの実効支配をまざまざと見せつけた。領土問題の議論を重ねた上で、解決に向けた次のステップに進む具体的道筋など依然全く見えない状況である。問題解決に向けた交渉は徐々に後退しているようにも感じられる。 ●国後島、地熱発電で全電力供給へ 北方領土のインフラ整備を行う「2007~15年 クリル諸島社会経済発展計画」の一環で、国後島で地熱発電所のタービンが更新・増設され、島全体の電力が地熱で賄われる予定である。計画が達成されれば、日本側が供与したディーゼル発電施設が不要になる可能性もあるとのことだ。 2011年1月31日、国後島を視察したバザルギン地域発展相は、2025年までのクリル発展計画を用意することを打ち出した。特に「クリル諸島連邦目的別プログラム」として、港湾施設、空港整備のほか、漁業発展のため、現在2つの水産加工場に加えて8つの新たな工場を建設する予定である。総額180億ルーブル(約540億円)が計上されると伝えられている。 ●北方四島交流等事業用の新船舶就航へ ビザなし交流など北方四島への交流事業に使用していた船舶が老朽化したため、2007年12月、バリアフリー設備も導入した船(約1200トン)を造る方針が決定された。2011年5月、新船舶の名は公募で「えとぴりか」となり、同年11月11日、命名進水式が広島県江田島市で行われた。「えとぴりか」は、来年5月からの就航が予定されている。 【2011年2月1日朝日新聞、11月3日北海道新聞、9月23日「ロシアの声」、外務省HP、内閣府HP等より】 #
by itsumohappy
| 2011-11-30 23:49
| 歴史・領土問題
福島第一原発事故をきっかけに、かつて出版されたチェルノブイリ事故関連の書籍が相次いで新装・再出版されている。そのうちの2冊の感想です。
************ 1986年4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原発で試験運転中の4号炉が爆発・炎上した。事故から36時間経過した時点で、発電所から3キロ圏内のプリチャピチ市民に避難命令が出された。28日、スウェーデン政府の問い合わせを機にソ連政府は事故を公表。5月5日~6日、原子炉火災が鎮火し、放射性物質の大量放出が止まった。飛散した放射性物質は、520京ベクレル。広島に投下された原子爆弾の200~500倍といわれる。ちなみに福島第一原発事故により今も放出されている量は37京~63京ベクレルである。 5月6日、30キロ圏内の住民に避難命令が出され、約13万人が避難した。 ソ連全域から、軍人や消防士ら作業員約60万人が、事故の詳細も知らされずに動員された。大量の放射能を浴びた作業員は、血液循環疾患をはじめとする様々な健康障害を発し、ベラルーシの専門家によれば、事故から5年間で約3万人、2011年現在まで約10万人が死亡したとされる(国連は、2005年、被爆による死者は約4千人と推定している)。 事故から25年経った現在も、許可が無ければ30キロ圏内に立ち入ることができない。強制移住させられた人々は、精神的苦痛に悩まされ続け、なかには、移住先の生活になじめずに政府の命令を無視して自宅に戻る者もいる。それらの「サマショール」(わがままな人)と呼ばれる人々は現在200人以上という。 2011年4月20日、爆発した原子炉を覆う新シェルターと放射性廃棄物保管施設の建設のため、EUなど約30の支援国や国際機関が、約650億円相当の資金拠出を表明した。 チェルノブイリの浄化プロジェクトが完了するのは2065年の予定である。 【2011年4月14日・20日日経、6月9日読売、11日日経新聞より】 ************ 『チェルノブイリの祈り-未来の物語』 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著(1998年)。著者は、ベラルーシのジャーナリスト。同国で最初にドキュメンタリーを手がけた著名な作家アレーシ・アダモーヴィチに師事した。チェルノブイリ事故当時、首都ミンスクに住んでいた。この本は、著者が3年にわたって、原発の従業員、科学者、医者、兵士、移住者、サマショール、地元政治家らにインタビューし、96年より雑誌に発表したものの集大成である。 ベラルーシ人にとってチェルノブイリは第3次世界大戦。著者は、この戦争がどう展開し、国が人間にいかに恥知らずな振る舞いをしたか、その記憶を残し、かつ、事実の中から新しい世界観、視点を引き出すために10年の歳月をかけたと語っている。 以下、主な証言の要約である。 ************ <殉職した消防士の妻> プリピャチ市では、事故は「妨害工作」と言われた。夫は、「1600レントゲン」浴びて、放射性物体、人間原子炉と化した。最後は、骨と体が離れてしまい、体はぐらぐら、肺や肝臓のかけらが口から出て、自分の内臓で窒息状態。同僚の消防士もみな2週間後死去した。これから、お金の工面をはじめ、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか、どの旗のもとに再起すればいいのかわからない。 <事故処理にあたった兵士> 34万人の兵士が生きたロボットとして投入された。原子炉の上で、バケツで黒鉛を引きずった者は「1万レントゲン」浴びた。「勇気とヒロイズムを発揮する」ため多くの命が失われた。アフガンで戦死すればよかった。そこでは死はありふれたことで、理解できることだった。 <映像ジャーナリスト> チェルノブイリの記録映画はない。撮らせてもらえなかった。悲劇を撮影することは禁じられ、撮影されたのはヒロイズムばかり。カメラマンはカメラを叩き壊された。チェルノブイリのことを正直に語るのは勇気が必要なのだ。 <住民たち> 原子炉が光っているのを見た。美しかった。ベランダに出て見物し、遠くから車や自転車で駆けつける人もいた。地上のにおいじゃないにおいがした。その後、人々は義務だと思ってメーデーの行進をしに出かけていった。情報は一切無く、政府は沈黙し、身を守るすべがなかった。 疎開した被災者はのけ者にされた。学校では「ホタル」と言われ、隣に座ると死ぬと避けられた。 <ベラルーシの核エネルギー研究所元所長> ミンスクにヨウ素剤が用意されていたが、倉庫に眠ったまま。誰も彼もが命令を待つだけで自分では何もしようとしなかった。上の怒りを買うことが原子力よりも怖かった。国家が最優先され、人命の価値はゼロに等しい。しかし、指導者連中は、ヨウ素剤を飲んでいた。彼らのために、郊外に専用の管理された農場で野菜や家畜が育てられた。 一刻も早く住民を移住させねばならないとモスクワに訴え出たら反ソ分子として刑事事件が起こされた。チェルノブイリ、これは犯罪史だ。 <同研究所技師> 食料品がむきだしのまま売られ、さらに、汚染されたものとわかっていても混ぜて売られた。もはや食料ではなく放射性廃棄物と知っていながら沈黙した理由は、共産党員だったから。わが国民は最高であると言う信念があり、命令には服従が当然だった。 <党地区委員会元第一書記> 体制の高い理想を信じていた。政治的利益が最優先され、パニックを許すなと命令されていた。住民を通りに出してはならないと言ったらメーデーをつぶしたいのかと言われ政治事件となる。市場への供出割り当て分を達成するため 、セシウム入りの牛乳を工場に運んだ。疎開、移住させられたあとも、ノルマ達成の農作業のために住民が連れてこられた。 ************ ひとつひとつの証言がそれぞれに衝撃的で一様ではない。しかしながら、根本的な構図は、福島の原発事故が引き起こした様相と似通っている。世界観の激変。情報の隠匿。打ち捨てられ、略奪にあった家々や残されたペット。チェルノブイリの汚染地域では、ペットを含め動物は次々と射殺されたということが違っているが。 以前の世界はなくなって苦悩だけが残った。人々は、何のために苦しんでいるのか。 『チェルノブイリ診療記』 菅谷昭著(2011年7月)。1998年に発行されたものの新版。副題「福島原発事故への黙示」。 著者は、信州大医学部での職を辞し、甲状腺外科の専門医として、1996年から2001年までベラルーシでNGOと協力しながら医療活動に従事した。チェルノブイリ事故で最も汚染されたベラルーシ・ゴメリ州(1㎡あたり1480キロベクレル(40キュリー)以上)などにおける甲状腺障害の増加を、住民に対する諸検査と合わせて科学的に検証し、甲状腺がんなどの治療にあたった記録である。 ベラルーシの小児甲状腺がんの患者数は、事故前の10年間は7名であったが、事故後の10年間では424名。当初、事故は伏せられていたため、人々は5月1日のメーデーのパレード練習をしたり森で遊びキノコを採って食べたりしていた。この地域の人々が事故を知らされたのは5月2日以降。その間に住民の内部被ばくが進んでしまった。 ベラルーシ一帯は内陸地のため、海藻に含まれるヨードの摂取が不足気味になる。甲状腺は無機ヨードを原料として甲状腺ホルモンを作る器官で、体は、不足しているヨードを例えそれが放射性ヨードであっても取り込んでしまい、放射線の内部照射でがんが誘発される。放射性ヨードの半減期は8日であり、事故直後から十分な無機ヨードを投与されていれば、小児性甲状腺障害は軽減されていた。菅谷氏によると、いまだに汚染地域では異常分娩や子どもの免疫能力の低下問題があるそうだ。 氏は、日本では廃棄されるような古い機材・機器を使うベラルーシの病院で、10年以上も遅れた手術形式を目にして戸惑う。職域分担が厳密に区分けされ、人繰りがつかなければその日の手術が当日急に中止になるといった、ソ連式の融通のきかない官僚的、不合理なシステムに憤る。診療実績(=手術件数)で病院に経費が配分されるため、ベルトコンベヤー式に患者が次々に短時間で手術が行われる。その結果、すぐ再発を招き、度重なる手術で合併症のリスクも負うことになる子どもたちのエピソードが痛ましい。経済状態の悪化が医療現場にもしわ寄せされており、スタッフの生活は苦しく、カジノでアルバイトするほうが稼ぎになる医者もいた。氏は、切れないメスを使えるように切れないナイフで食事して練習した。 「旧態依然の非民主的体制」にぶつかりながらも、氏は「ベラルーシの医療を何とかしよう」といった意気込みで突っ走るようなことはせず、「あせりは禁物」と同僚たちとの信頼関係を築きながら、自ら持つ技術(首のしわに沿ってメスを入れる傷跡が残らない甲状腺摘出手術)が認められるように努めた。手術を手がけた患者は750人。しかし、この本には、氏がベラルーシに伝えた手術に関する記述はない。 現在、松本市長を務める氏は、政府の福島第一原発事故対応について、放射性物質の拡散状況を公表しなかったことなど、初動の経過からは全く危機感を感じることができず、国民の立場でものを考えているとは思えなかったと記し、「大切なのは、事実を伝えること」と訴える。福島の事故が収束しないなか、氏が予感した「第2のチェルノブイリ」説は決して非現実的ではないと感じられる。 #
by itsumohappy
| 2011-10-30 15:12
| 文学・本
アンジェイ・ワイダ(1926~ )監督作品(2007年)。1943年、独ソ戦のさなかにドイツ軍が、スモレンスクの森で約4千名の射殺されたポーランド人将校が埋められているのを発見した事件をテーマにしている。ワイダ監督の父も犠牲者の一人。監督は、1957年、カンヌ映画祭でフランスを訪れた際に読んだ、西側で出版されたカティン事件に関する文献で真相を知り、以来、事件の映画化を構想していた。
1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が勃発。17日にはソ連がポーランドに侵攻した。独ソ不可侵条約の秘密議定書(モロトフ・リッベントロップ協定。39年8月)で、独ソは、ポーランドとバルト三国を分割占領することを取り決めていた。映画は、突然のソ連侵攻により、東西からの敵に挟み撃ちされた避難民が右往左往するシーンから始まる。ソ連軍の捕虜となりやがて虐殺されることになるポーランド将校と残された家族たちの運命を、複数の主要人物のストーリーが交錯する形で描いている。 戦後、ソ連の体制に組み込まれた「新生ポーランド」では、カティンの事件はナチスの仕業であるとして、真相の究明は封印された。この映画では、「カティン後」の描写が印象的である。事件を巡って、家族でも新体制に与して生きる者とソ連に背を向ける者とに分かれる。抵抗する者は反ソ活動で逮捕される。演出は淡々と抑えているが、事件のリサーチを重ねて再現したという将校処刑のシーンはおぞましい。また、映画ではさほど説明がないので、多少歴史的な事項をふまえないとわかりにくい部分があるかもしれない。ポーランド人将校の妻子の逃避行を手助けする、家族を失くしたソ連軍人がやや唐突に登場するが、その軍人もまたスターリニズムの犠牲者である、と示唆する場面など。 大戦中、英米はドイツとの戦闘を優先し、カティンの件で、連合国の一員であるソ連を糾弾することをあえて行わなかった。 ポーランド国内で公然とカティン事件の解明を求める声が上がったのは1980年代後半になってからである。88年、ソ連のグラスノスチ政策に伴い、ソ連・ポーランド両国合同の歴史委員会が発足して事件の見直しが進められた。1990年、ゴルバチョフは、事件はソ連の犯行であると公式に認めた。 ソ連により銃殺されたポーランド人将校らは、カティンの犠牲者も含めて約2万2千人と言われる。 2010年4月7日、プーチン首相は、ポーランドのトゥスク首相らポーランド首脳を初めてカティンに招いてカティン事件の追悼式典を開き、ワイダ監督もこれに出席した。この式典に招待されなかった、親米派とされるカチンスキ大統領らが、別に開いたポーランド主催のカティン追悼式典に出席のためスモレンスクに向かう途中、政府高官約90人とともに飛行機事故の犠牲となった出来事(4月10日)は記憶に新しい。 【参考】 2010年9月12日・8月11日・5月7日・4月8日、1988年3月29日朝日新聞ほか #
by itsumohappy
| 2010-09-30 23:32
| 映画
ポンピドー国立芸術文化センター(パリ)所蔵のシャガール(1887ー1985)とゴンチャローワ、ラリオーノフ、カンディンスキーらの作品展の感想です(東京藝術大学大学美術館:開催中~10.11;福岡市美術館:10.23~2011.1.10)。 シャガールの芸術と20世紀はじめに始まったロシア・アヴァンギャルドとの関わりに焦点をあてた企画で、シャガールが影響を受けた「ネオ・プリミティヴィスム」(ロシア・アヴァンギャルド運動初期の動きのひとつとされる)の絵画が合わせて展示されている。 右: 『ロシアとロバとその他のものに』(1911) ナターリア・ゴンチャローワ『収穫物を運ぶ女たち』(1911) ネオ・プリミティヴィスムは鮮やかな色彩と簡潔な描写が特徴。 1887年、帝政ロシア・ヴィテブスク(現ベラルーシ)のユダヤ人町に生まれたシャガールは、1908年から2年間、ペテルブルクで、バレエ・リュスの舞台芸術を手がけていたレオン・バクストの美術教室に通ったのち、パリで引き続き絵を学んだ。ロシア革命後、ヴィテブスクに戻り、革命政府の支援をえて1919年、美術学校を開くが、教授として招いたマレーヴィチと対立し、学校を辞職。翌年、モスクワで舞台美術の仕事を始めた。その後、パリに移住し、37年にフランス国籍を取得するが、ナチスのパリ占領を機に41年米国に亡命した。 ドイツ国内にあったシャガール作品は37年、退廃芸術としてナチスにより撤去され、独ソ戦で故郷のヴィテブスクは焼き払われた。渡米してまもなくの44年にはベラ夫人が死去。そのようななかで、シャガールの画風は、キュビズムやフォービズムの影響を受けた抽象的なものから幻想的な表現を主体としたものに変化していった。画面の端には農村生活のモチーフが配され、記憶の民らしく常に思い出の中に生きていたかのようだ。 画家は、戦争や混乱の時代を亡命者として生き抜き、つらいことも多かった現実を直視する表現よりも、脱力したような人物が漂う、現実感のないふわふわの夢の世界を描いた。作品だけを見ていると、愛や夢ばかりでもうひとつパンチがないと感じてしまうが、やはりいろいろな要因が背景にある。故郷に残っている親族を思えば、亡命画家としては反ソ的なものも描けなかった。 『日曜日』(1952-54) 女性は再婚したヴァランディーナ夫人。 舞台美術の代表作としては、メトロポリタン・オペラ「魔笛」の衣装デザイン、舞台スケッチが展示されている。 また、会場ではビデオ『シャガール:ロシアとロバとその他のものに』(52分)が上映されており、画家本人の絵画に対する思いなど映像を通してより理解を深めることができる。このなかに出てくるユダヤ人村の様子は映画『屋根の上のヴァイオリン弾き』の光景そのものだった。 展示会の性格上、会場に置いてあるペーパーには作品リストに加えて、サイトに出ている年譜くらいはあったほうがよいと思った。どの展示会でも言えるが、立派な図録だけでなく、コンパクトで安価な小冊子程度のものも作成してほしい。 #
by itsumohappy
| 2010-08-31 23:30
| 展示会
スターリン時代の強制収容所生活を生き抜いた学者エヴゲーニヤ・ギンズブルグ(1904-1977;右)の回顧録。(中田甫訳;集英社/続編、続々編の3冊構成。現在は絶版のもよう)
カザンの大学で教鞭をとっていた著者は、共産党に「全生涯を捧げる決意」をしていたほど忠実な党員であったが、1934年12月のキーロフ暗殺をきっかけに始まった大粛清に巻き込まれ、37年、逮捕された。逮捕理由は、反党的として逮捕された同僚学者の著作や論文の「過ち」を指摘しなかったことだった。逮捕に納得せず、自らを地下テロ組織のメンバーとした「自白調書」へのサインを拒否した著者は、軍事裁判で禁固10年、公民権剥奪5年の判決を受けた。 家族(カザン市ソヴィエト議長の夫・アクショーノフと男児2人)と離れ離れになり、監獄で取調べを受ける日々からこの記録は始まる。収容された者同士が壁を叩く音やオペラのアリアで情報交換を行うなどの獄中生活の様子が詳しい。 教養があり信頼もされていた同僚が、取調官のいいなりのままに密告で他人の命を次々と犠牲にしたり、著者を断罪した取調官もその後逮捕・粛清されたり、といったエピソードが前半は続く。著者は、取調べで「自分だけのことについて真実を述べる。作りごとについては一切サインせず、誰の名も挙げない」という姿勢を貫いた。 判決後、中継監獄を経て、鉄道と船で極寒の地コリマ(「12ヶ月が冬で残りが夏」の地)に移送され、様々な労働に従事した。囚人を牢獄に閉じ込めておくより強制労働させるほうが「効率的」であるという国の方針転換による。 タイガでの作業は零下50度にならないと中止にならない。過酷な環境の中で、著者は何度も生存を脅かされる危機に陥ったが、頑健さと才気で乗り切った。ロシア・インテリゲンチャの精神、即ち、世紀はじめの賢者や詩人の遺産が自らを支えたと記している。 著者は刑期を満了するも、49年再逮捕され、東部シベリア地域に終身移住の判決を受けた。しかし、大陸から呼び寄せた次男(後の作家ワシーリー・アクショーノフ。長男は独ソ戦中にレニングラードで餓死)や囚人時代に知り合ったドイツ人医師との生活を願い、引き続きコリマに住むことを許された。追放処分が解かれたのは、スターリンの死後。18年ぶりに開放され、56年、名誉回復を受けた。 解放後は、回想記の作成に打ち込んだが公の出版はかなわず、国内にはサミズダート(私製版/地下出版)で流れ、やがて欧州、米国でも読まれるようになった。母国で完全な姿で出版されるという願いは、著者の存命中果たされなかったが、ペレストロイカ期の1990年、モスクワで公刊された。 平穏な時代であれば、一生表に出てくることはなかったかもしれない、個人の奥に潜む悪性に関して、著者は以下のように記している。 「・・・(他人を貶めた)人間はいかに良心の呵責にさいなまれるものか・・・苦しみの中で許しを請う人を見れば、「わが過ちなり」がそれぞれの人の心の中に鼓動しているのがわかる」 この本に描かれている生き地獄と、その究極の状況下にして初めてあらわれる、人間のさまざまな本性や生き様はあまりにすさまじく、言葉では説明し難いほどの衝撃を受ける。 #
by itsumohappy
| 2010-07-30 00:40
| 文学・本
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