国後島は、おおざっぱに言って沖縄県よりもひとまわり大きい島。現在、歯舞、色丹とともにサハリン州南クリル地区に(いちおう)属す。ロシア人住民は約6,600人、うち6,000人が行政府のある古釜布にいる。戦前は約7,300人の日本人が住んでいた。
青字の部分が今回訪れたところ。 好天に恵まれ、気温は十度前後だったろうが春の日差しで暖かく感じた。 上陸時の印象といえば… まず、見たことがない景色だなぁと。昔の小学校の校舎みたいな木造の建物(平屋か2階程度。外壁は青や緑に塗ってある)は風雪にさらされ、舗装されていない道路は、車が走ると土煙をもうもうとあげ、あまり歩いている人もなく、一見打ち捨てられた感じにみえた。地面のあちこちににょきにょき出ているふきのとうの光景は根室で見たのと同じ。 団員仲間に尋ねると、日本の田舎の港町に似ている、とか昭和30年代位まではこんなふうだった、とか言っていた。 車で「ムネオハウス」こと「日本人とロシア人の友好の家」まで送ってもらい、しばし休憩。島民の車は四駆やワゴンなど。トヨタ、日産などの日本の中古車が大活躍。 友好の家は、日本の人道支援で建設された「緊急避難所兼宿泊施設」で、交流で訪問した日本人の宿泊施設にもなる。玄関の右側が宿泊棟。 友好の家。玄関でパンと塩で出迎えてくれた。歓迎を表すロシアの習慣です。 建物は、プレハブのような簡素なもの。頑丈な建物を作るような支援はできないためだろう。2階の足音や声が響いてくる。それでもこの島を訪れた日本人にとってこの施設は正直ありがたい。日本の電気製品が使えるし、シャワールームは清潔だし、トイレの心配もない。(島のトイレ事情は厳しい。私は遭遇しないようにしたが、世紀末的状況もあるとかないとか…) ただ、この程度の建物に4億円!かかったなんてちょっと信じられない。 8人部屋に泊まった。2段ベッドは上下使うとけっこう揺れる。それでも海上ではなく地上に寝るっていいものだ。 建物脇の目立たない場所にあったパネル。「南クリル」の行政地図のような。“курильский”(クリリスキー)って強調している気がする。うーむ。 友好の家付近では、ロシア政府による「クリル発展計画」の一環である地熱発電の工事をしていた。現在、島の電力の7割は、日本の人道支援で作ったディーゼル発電によるものらしい。 なお、友好の家の1室に、今年の1月に違法操業の容疑でロシア側に拘束され、国後に連行された羅臼の漁船「第38瑞祥丸」船長がどうやらいたようである。船長らしい人を見かけた人もいたそうだ(我々の滞在中、ずっとこの建物にいたかは不明)。当局らしき目つきのよくないロシア人が不自然にいたのは気がついたが・・・。報道によれば5月24日現在、まだ裁判は決着しておらず、気の毒な船長はさらに帰還が遅れるようである。(5月24日北海道新聞) (追記:↑と書いたが、5月28日に日本に戻った。おそらく自分の船はあきらめたのだろう。) 郷土博物館入口 ここの博物館に置いてあった怪しいパンフレット。 これが、「巣タリン」「とルマン氏」とか和訳がひどくてほとんど冗談みたいな代物なのだが、要は、クリルはロシアの不可分の領土ということをヤルタ協定、一般命令第1号、国連憲章第107条を根拠に説明したもののようだ。 これを見る日本人は、来訪する交流団位だろうから、まさに我々のためにさりげなく置いておいてくれた? あたりにはありとあらゆるごみが散らばっていた。たまに下着(!)も落ちているそうだ。ここに来るまでの道路沿いの空き地にも廃車や廃材がごろごろ置かれていた。ビニールがあちこちの木や草にひっかかってたくさんはためいているさまは、ちょっと異様だった。 カフェで昼食。黒パンは必ず出る。新鮮な野菜や果物はサハリンから来るのだろうか。 午後、この日のメインプログラムであるロシア人住民との「対話集会」がクリル行政府講堂で行われた。 北海道東方沖地震後の復興プログラムの継続事業、国後からハバロフスク・ウラジオストク両市への航空便開設のための飛行場工事、地熱発電の配管工事、古釜布の港湾設備充実等々。生活レベル向上のための事業が進行中というのだが、これに対して島民から、どこまで達成するのか疑問、行政の言うように発展しないだろう、というような声も出た。 ロシア側は司会者などを除いて10名ほど出席。なかなか集会に出てくれる人を集めるのも大変らしい。日本側は、「領土返還」を前提にやって来ているし、出席して楽しいものではないだろうから。 対話を、日本側の原則(四島帰属確認後に平和条約を締結)をロシア人島民が共有している前提で進めていないので、話をかみ合わせるのが難しい。と言うかかみ合わない。 個々の島民には様々な意見があるかもしれない。ただ、ここで日本人が喜ぶような過激?な意見を仮に言いたくても言えないだろう。狭い国後社会、村八分になって居づらくなるとも限らない。実際、何かのきっかけで周りの住民とうまくいかなくなった人は他の島(色丹とか)に移住することもあるそうだから。 政府の領土交渉が進まない間にも、ロシア側の開発計画がそれなりに進むことは間違いないと思う。元島民の方々は、返還が遠くになるばかりだと嘆いた。 あと、ロシア人住民から、年金が少なく公共料金を払うとほとんど残らない、生活が厳しいという声があった。好景気にわくロシアのオイルマネーはいったいどこに流れているのだろう。 夕食は、Береэюкさん宅でご馳走になった。ご主人は、島の新聞На рубеже(「国境にて」)紙の編集者・フォトグラファー、奥さんは学校の先生をされている。お2人とももの静かなインテリである。壁に本やDVD、写真がたくさん並べてあるダイニングで歓談。といっても言葉がほぼ100%通じない状況で「会話」するのは大変なのである。それでも英語が少し通じたので、助かった。『巨匠とマルガリータ』を読んだ、と言ったら喜んでくれた。 写真には出ていないが、サーラ(сало/豚の脂の塩漬けみたいの)というのをはじめて食べた。これを食べてウォッカを飲むのだ!とご主人はがんがん40度のお酒をあおるのでありました。。 飼い犬Гудя。食卓を見上げる潤んだ目がたまらなかった。 Береэюк家のお子さんはモスクワで勉学中。島をいったん出た住民でまた島に戻ってくるのは半々だ、と奥さん。 サハリンから空輸されたというケーキを頂きながら、色丹島のビデオ鑑賞。 そうこうしているうちにムネオハウスへ帰還の時間となり、酔っ払い運転をものともしないご主人に送っていただいた。 (5月10日) (続く・・・) ************ 【参考】 北方領土の面積(北海道の資料)
by itsumohappy
| 2007-05-27 17:31
| 歴史・領土問題
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