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『聖地ソロフキの悲劇―ラーゲリの知られざる歴史をたどる』

『聖地ソロフキの悲劇―ラーゲリの知られざる歴史をたどる』_d0007923_21392238.jpg内田義雄著。01年6月発行(日本放送出版協会)。著者は、元NHKの記者で現在はフリージャーナリスト。この本は、ソ連で最初にラーゲリ(強制収容所)が作られたソロフキ(ソロヴェツキー)群島の悲劇的な歴史をたどるノンフィクションである。

北緯65度、北極海に通じる白海中央にあるソロフキ群島は、夏の3,4ヶ月を除くと氷に閉ざされる。世俗から隔絶された、ロシア正教の修行の地として、15世紀に修道院が作られ、17世紀半ばには修道士が約350人に達した。漁業、農業、牧畜が行われ、温室でスイカやメロンが栽培されるなど自給自足の経済が確立されていた。ソロフキは、正教徒にとって一生に一度巡礼に行きたい聖地とされていた。

ロシア革命後、1922年にソ連が成立すると、革命政権の宗教弾圧政策により国内の修道院施設は接収され、聖職者の逮捕・処刑が相次いだ。21~23年の間に約8,000人の聖職者が銃殺されたという。

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ソロフキでは、23年、強制収容所が開設され、聖地から「ソロフキ特命ラーゲリ」と化した。国内各地に強制収容所が建設されたことに伴い39年に閉鎖されるまで、ソロフキには、学者、作家、聖職者などの知識人、政権と対立した革命家、富農らが送り込まれ、彼らは森林伐採、鉄道建設、レンガ造り等に従事させられた。

革命政権のラーゲリ理論とは、もとは、囚人を再教育して思想矯正するというものであったが、コストがかかるため、囚人を労働力として使い経済効果を高めるものへと変化し、やがて強制労働システムは、国の組織に不可欠な構成要素となっていった。

世界遺産・ソロフキの修道院
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強制労働から生き延びる知恵として「トゥフタ」(見せ掛けだけの仕事)という言葉が紹介されている。ソロフキでの大規模な事業としてソルジェニーツィン『収容所群島』でも言及されている、白海・バルト海運河建設では、227kmの運河を20ヶ月で完成させるのに浅く掘って仕上げられた。そのため、運河として役に立たず、現在でも使われる価値がほとんどないそうだ。

セキルナヤの丘に立つ昇天節教会。処刑場であった
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ソロフキから奇跡的に脱走できた囚人たちの告発により、強制労働の一端が世界に知られていない訳ではなかったが、スターリンは、B・ショーなど西側知識人の一部やゴーリキーなど著名人を利用し、このような社会システムを「礼賛」することを図った。
ソロフキでは、24~39年の間に記録にあるだけで8.3万人が送り込まれ、4.3万人が死んだとされるが、正確な犠牲者数は不明である。 


365階段。体に丸太や板を括り付けて上から投げ落とし処刑した場所。
裸にして蛾や蚊に刺されるがままという拷問もよく行われた。
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80年代後半、ペレストロイカ/グラスノスチ政策の下で、消息不明の肉親探しが始まり、91年ソ連崩壊の後は、KGBに対し、処刑者リストの公開を求める人々の要求が殺到した。ソロフキでは、収容所閉鎖直前の37~38年、約1,800人の囚人が大量虐殺されたが、処刑場所が次々特定されていったのは90年代に入ってからであった。しかし、現在でも、強制労働問題に関する徹底的な追及は行われていない。

「今日ソロフキで見えることは、明日全ロシアで見える」とかつて言われたそうだ。「自由にものを考える人たちはいつでも敵となりうるので抹殺」という人間を信頼しない体制の恐ろしさを十二分に伝える本である。


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『北極圏のアウシュヴィッツ 』(亀山哲郎撮影・ブッキング社2007年)という写真集に、ソロフキの壮麗な修道院の数々、美しい自然の景色と強制労働の生々しい痕跡が紹介されている。
by itsumohappy | 2009-07-30 22:00 | 文学・本
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