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『ロシア極東 秘境を歩く ―北千島・サハリン・オホーツク』

『ロシア極東 秘境を歩く ―北千島・サハリン・オホーツク』_d0007923_15554130.jpg相原秀起著(2016年) 著者は、北海道新聞記者。かつての日本領で戦争の痕跡などを訪ね歩く記録である。

北千島(ウルップ以北、シュムシュ島までの島々)は、大小の湖沼群、無数の高山植物に恵まれ、日本領だったら国立公園間違いなしという「この世の天国」らしい。300mくらいで森林限界という寒冷地だ。

シュムシュ島方面にはカムチャッカ半島からヘリかフェリーで行く。国境地帯のため国境警備隊の許可が必要である。終戦後の1945年8月17日深夜、シュムシュ島にソ連軍が上陸し、翌18日、四嶺山での日本軍との激戦で、両軍の戦死者は3千名を超えた。22日、停戦文書に調印後、ソ連は、南千島占領作戦に転換し、28日に択捉島に上陸した。今でもシュムシュ島には戦闘機の残骸やトーチカ、飛行場の跡などが残っている。

著者は、シュムシュ島での戦闘のあとを見るべく、兄弟分の通訳ジェーニャの協力のもと、上陸を目指すがなかなか許可が下りない。その場その場で知り合った現地の人々の人脈を手繰りながら何とか上陸に成功。予定通りに物事が進まず、現場に行ってみて解決策を考えるのがロシア取材の面白さだそうだ。

続いて著者はパラムシル島も訪問。中・北千島のうちで住民が住んでいる島である。見捨てられた感のある島で、現地の人から、日本政府は、北千島もロシア政府に返還要求してくれないかと言われる。領土問題を背景に、開発事業へ国費が投入されている色丹、国後、択捉の行政府に複雑な感情を抱いているとある。

サハリンを訪れた際は、北緯50度線の国境の町、安別で日露国境の標石を探索している。
サハリンでは、1945年8月11日からの戦闘で、約1500人の日露の兵士、4000人以上の日本人住民が犠牲となった。

『ロシア極東 秘境を歩く ―北千島・サハリン・オホーツク』_d0007923_1555057.jpg

樺太日露国境の標石(「天測境界標第二號」<根室市歴史と自然の資料館所蔵>)。
日本側とロシア側を示す。かつてロシアの民間人が所有していたが、1997年、根室市の有志の依頼により根室市に寄贈された。


地名等詳細は伏せられているが、著者が、人づてに、当時の標石を隠し持っているロシア人に接触し、日本のしかるべき機関に寄贈してもらうよう、1997年のいきさつも引きながら説得し、了解を得たことが記されている。

オホーツクの章では、大黒屋光太夫の足跡の一部をたどる。光太夫は漂着したアリューシャンのアムチトカ島からオホーツク、ヤクーツクなどを経てペテルブルグまで移動し、1791年、エカテリーナ2世に帰国を願い出た。
オホーツクでは、1920年代に夏、日本人がサケマス工場に出稼ぎに来ていたという。
ヤクーツクは、冬はマイナス50度にもなる極寒の地。それでも地球温暖化の影響でマンモスが出土しやすくなっているようだ。ヤクーツクで出土する石器が北海道の物と酷似しているというのは興味深い。
# by itsumohappy | 2017-11-28 18:57 | 文学・本

シベリア抑留された「元日本兵」

2017年6月、戦後シベリアに抑留され、その後も日本に帰国せず、ソ連/ロシアにとどまった田中明男さん(89歳・右)が、サンクトペテルブルク近郊のポギ村で生存していることが報道された。
(写真は2017年6月5日毎日新聞)シベリア抑留された「元日本兵」_d0007923_16202672.jpg

北海道遠別村(現遠別町)出身とされる田中さんは、本人が語るところによれば、1944年、10代で陸軍に志願し、満州の関東軍で1年余りにわたって前線で戦った。大戦末期、日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したソ連軍に捕まり、ハバロフスクの収容所で約10年間、森林伐採の労働を強いられたという。

50年代から抑留された人々の日本への帰国が本格化したが、田中さんは、収容所幹部から、「帰国すれば裏切り者として迫害される」と言われ、ソ連に残った。その収容所では、約80
人の日本人が残留を決めたという。なお、外務省によれば日本に帰還しなかった抑留者は、約1,000人とされる。

収容所からの解放後、60
年代にソ連国籍を取得。ウラジオストクで船員となったのち、レニングラード州に移住し、集団農場の牛の飼育係や電気工として働き、優秀な労働者として何度も表彰された。

田中さんは、80
年代に、レニングラードの日本総領事館に帰国の相談をした結果、登別温泉で旅館経営をしていた父が死去したこと、妹が所在不明であることを告げられた。日本で受け入れ先がないことに不安を覚えたのか、帰国を断念した理由はよくわからない。

私生活について多くを語らなかったという田中さんは、現在、年金暮らしで一人住まい。近所の人が身の回りの世話をしている。日本語はほとんど忘れてしまった。日本に移住するつもりはないが、桜の咲く頃、もう一度日本を見たいと希望している。

2017
年6月5日・6日毎日新聞、20日日本経済新聞より】

この報道の後、田中さんの正式な軍歴が確認できないこと、所有する「労働手帳」の記載(サハリンでの居住歴)と自身の記憶が一致しないことなど、抑留に至る経緯が判然としないことが伝えられた。年齢的にも兵役に就けたのかという疑問も呈されたが、本人の記憶が混乱していることもあり正確なところは不明である。このため、一時帰国に向けた日本政府による公的な援助は得られず、「抑留研究会」ほか民間の寄付により来日することとなった。

90歳になった田中さんは、9月21日、成田に到着し、翌日、故郷の北海道遠別町を訪問した。27日までの滞在の間に、いとこら親族と交流し、多少の記憶を回復したという。この来日により田中さんの本人としての確認がなされた。「抑留研究会」は、田中さんが対ソ戦に参加したとすれば、「国民義勇隊」の一員としてであり、また、戦後、帰国のチャンスを失ったのは、何らかの理由でソ連当局に拘束されてサハリンに居住指定となり、情報が届かなかった可能性を指摘している。


2017年8月9日毎日新聞、9月16日朝日新聞、22日北海道新聞ほか より】



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# by itsumohappy | 2017-07-11 20:42 | その他

アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』

2015年にノーベル文学賞を受賞したベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作。ともに、体験者を取材して集めた証言から構成するスタイルである。ベラルーシでは、20年以上ルカシェンコ大統領による独裁体制が続いており、アレクシエーヴィチは、大統領から「祖国を中傷する裏切り者」などと非難され、国外での生活を余儀なくされた時期もある。

『戦争は女の顔をしていない』
アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』_d0007923_1714872.jpg
1978年から2004年までの間、500人以上の退役女性軍人に取材した成果である。政治的な圧力により、完成後2年間出版できなかった。

ソ連では、第二次世界大戦に15~30歳の100万を超える女性が従軍した。軍医、看護婦、 料理・洗濯係ばかりではなく、狙撃兵、機関銃射手、高射砲隊長、工兵、飛行士などもいた。しかしながら、女性兵士たちの活躍は世に知られず、もっぱら語られるのは「男の言葉」による戦争である。著者は、女たちの戦争の物語を数年にわたって調査した。


「幸せって何か」と訊かれるんですか?私はこう答えるの。殺された人ばっかりが横たわっている中に生きている人が見つかること… (アンナ・イワーノヴナ・ベリャイ/看護婦)

私たちが前線に出ていくとき、女の人、老人、子供たちが沿道に人垣を作っていました。「女の子が戦争に行く」とみんな泣いていました。(タマーラ・イラリオノヴナ・ダヴィドヴィチ/軍曹)


地上戦の悲惨な体験が数多く語られるが、この本で印象に残るのは、戦後の物語。勝利後、男たちは英雄になり理想の花婿になったが、女たちの勝利は取り上げられてしまった。

戦地にいたということで敬遠され、時にはあばずれ呼ばわりされるなど、戦場体験のない女性たちからあらゆる侮辱を受けた。前線にいたことを隠し、褒章も身に着けなかった。支援を受けるのに必要な戦傷の記録を捨てた。 …等々の証言はいたましい。

さらに著者は、4年間で2千万人という多大な犠牲は誰の責任だったのか指摘する。すでに戦前、もっとも優秀な司令官たち、軍のエリートは殺されていた。戦地で後退したら収容所入りか銃殺。捕虜経験を持つ者は人民の敵。富農の子が流刑地から帰ると、ドイツ軍に仕えて「親の仇うち」をするという味方同士の殺し合いもあった。
1937年のスターリンの大粛清がなければ1941年も始まらなかっただろう、と著者は記している。

伝えなければ。世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ。あたしたちの泣き叫ぶ声が。 …一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。(タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ/赤軍伍長)



『ボタン穴から見た戦争』
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原題『最後の生き証人』。1985年、ペレストロイカ政策を受けて雑誌『オクチャーブリ』誌に発表されたベラルーシの子供たち(2~14歳)101人の証言がもととなっている。
1941年、ドイツ軍の侵攻によりベラルーシでは、600余りの村々で村人が納屋に閉じ込められて焼き殺されるなどし、人口の4分の1が失われた。

おかあさん、みんなが宙に浮いているよ(ピョートル・カリノーフスキイ/12歳)
あたしたち、公園を食べたんです (アーニャ・グルービナ/12歳)


ドイツ軍による銃殺、焼殺その他あらゆる残虐行為の証言は読んでいて苦しい。ドイツの軍用犬は人間の血肉を覚えさせられていた。
両親をなくし、パルチザンに引き取られて、読み書きを教わりながら斥候や通信・食事係となる子ども。姓も言えないくらい幼い孤児。人間らしさを失ってはいけないと洗濯をし、祝日を祝う親。恐怖と飢餓のなかでもユダヤ人の子を匿う人もいた。


先に亡くなったのはあのすばらしいお母さんです。それからお父さんも亡くなりました。そこで実感したんです。私たちはあの時期の、あの地方の生き残りの最後だって自覚したんです。今、私たちは語らなければなりません。最後の生き証人です……。 (ワーリャ・ブリンスカヤ/12歳)

あるとき著者は、「大祖国戦争」の映画を、アイスを食べしゃべりながら見ている女の子に気づき、他人の痛みを共有するところのない態度に不安を覚えたそうだ。自分の本は、映画を見てアイスをなめていた女の子が読んでくれなければ、と語っている。
# by itsumohappy | 2016-09-28 19:11 | 文学・本

中村逸郎 『シベリア最深紀行』  

中村逸郎 『シベリア最深紀行』  _d0007923_1554177.jpg 
中村逸郎著(2016年)。副題「知られざる大地への七つの旅」。2011年から14年にかけて、政治学者の著者がシベリアの僻村を訪ねた記録である。

シベリアは、広義にはウラル山脈から太平洋岸までの東西7,000キロの範囲(西シベリア・東シベリア・極東ロシア)を指すが、著者によると、人々が「シベリアっ子」と自認する東端は、「シベリアの縮図」と言われるバイカル湖東のチター(チタ)市である。チターのあるザバイカーリエ地方の民族数は120以上。学校ではロシア語使用でも、生活の場では様々な言葉が行き交う。

16世紀、ストロガノフ家に雇われたコサック、イェルマークの部隊が征服したのが「アバラーク村」。ロシア人の先祖がシベリアを切り拓いた最初の地である。
17世紀初めにロシア人のシベリア入植が始まるまで、西シベリア一帯はタタール人(イスラム教徒)の占有地だった。タタール人ら先住民族は、先祖からの宗教、風習を堅持し、ロシア人と真っ向からの対立を避け、微妙な距離をとりながら生活してきた。

第二次大戦後、シベリアはロシアに統合された。ソ連が崩壊すると、「シベリアの天然資源がモスクワに収奪される」というような、ロシアによるシベリアの植民地化を懸念する議論が生じた。モスクワからの分離、自治拡大を求める声もある。 
しかし、著者は、シベリアはロシアと折り合い、交じり合ってきた、という観点から、ロシアのなかのシベリアという枠組みでシベリアを理解するには限界がある、と語る。

中村逸郎 『シベリア最深紀行』  _d0007923_15445978.jpg
著者が訪ねたシベリアの村を含むロシア地図(本書より)

広大なシベリアの地では、住民の把握もなかなか容易ではない。定住者以外はロシア国家の構成員と認められないが、トナカイを放牧しながら移動するツンドラの遊牧民はロシア人としてみなされるのか。また、人々の幸福度がロシア全土で最も高い「トゥヴァー共和国」で、シャマーン(「シャーマン」のロシア語アクセント表記。シャーマンは、シベリアが発祥の地とされる)の治療を受けた著者に何が起きたか。

取材地はごくごく一部の地域でも、自然と人間が一体となって暮らす「お金や物への欲望とは無縁の精神世界」の様相が大変興味深い。
なかでも、17世紀半ばにロシア正教から分裂した古儀式派のロシア人村(エルジェーイ集落)が印象に残る。ニコン総主教の改革(世界標準の祈祷方式に合わせることを訴えた)に反対した数百万の信者は、シベリア奥地に逃避した。今もその末裔がおり、国家から身を隠して生活しているのである。

道なき道を走破し、おそるおそる村を訪問した著者が出会ったのは、古儀式派でも司祭非容認派の人々。彼らは、宗教者の存在も認めず、神と自然への慈しみのなかで自律的に暮らしている。世俗社会との接触を断ち、法律、徴兵、戸籍、貨幣経済も受けつけない。

国有地であっても、人々が自力で開墾して(勝手に)住んでいるのを国は把握しきれない。ロシア国内でも、国家も法律も意識しない暮らしがある。「シベリアよりもよいところはない」と人々は語る。

「シベリアのなかのロシア」という視点で見た、「ロシアに染められることのない、多彩なシベリア」の一端を知る本である。

中村逸郎 『シベリア最深紀行』  _d0007923_15462723.jpg森林で育つミネラルの豊富な食料だけで生きているので身体が磁力を帯びてくる、のだそうだ。(岩波書店の本書紹介サイトより)
# by itsumohappy | 2016-07-31 16:00 | 文学・本

ケストラー『真昼の暗黒』

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アーサー・ケストラー(1905-1983)(右)作。
スターリンによる大粛清の犠牲となったオールド・ボリシェヴィキ(古参の共産党員。オールド・ガード)の悲劇を描くもので、「モスクワ裁判」の犠牲者に捧げられている。この作品は同裁判の3回目(38年のブハーリンの粛清裁判)を題材にしている。

ブダペスト生まれのケストラーは、大学中退後、パレスチナでのシオニズム運動参加を経てフリーのジャーナリストとなった。31年、ドイツ共産党に入党し、コミンテルンの指示でソ連各地を視察。37年、内乱下のスペインで逮捕され、死刑判決を受けるが英国政府に助けられた。モスクワ裁判を機に脱党。『真昼の暗黒』は、40年、反ナチスのかどでフランスで獄中にいる間に、友人による英訳がロンドンに送られて出版された。もとのドイツ語原稿は失われたとされる。
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40年間党に仕えた主人公ルバショフは、「反革命活動に対する自白」を強要され、「犠牲になった者たちの悲しみの声に耳を傾けたこと、彼らを犠牲にする必要性を証明する議論に耳を貸さなかったこと」で罪を認める。スターリン(小説では「ナンバー・ワン」と表記)の独裁体制を固めるための陰謀の犠牲になった人々が、処刑室にひきずられていく様子を、収監者が部屋から部屋へ「壁通信」で伝えていくシーンが怖ろしい。

恐怖政治を暴き、ソ連型社会主義の消滅をいち早く分析した作品として世界的に注目を浴びた。「ナンバー・ワン」の体制とヒトラーの体制はどちらも全体主義国家として同一のものであるとの指摘に、フランス共産党は怒り、フランス語版をすべて買い上げて焼き捨てようとしたという。



【モスクワ裁判】
1936-38年にかけて、革命時代のボリシェヴィキの最高幹部らが「反革命分子」として裁かれた公開裁判。3回行われた。大粛清を正当化し、国内の引き締めをねらったものとされる。犠牲となったジノヴィエフ、カーメネフ(第1回)、ラデック(第2回)、ブハーリン(第3回)らはゴルバチョフ時代のペレストロイカで名誉回復された。


【方形アルファベット】
ケストラー『真昼の暗黒』_d0007923_16252723.jpg5×5の正方形にアルファベット25文字を入れたもの。壁通信の際に使う。この本によれば、「H」を表すには、「2回・3回」と壁を叩く。2回でF-Jの第2列、次の3回でその列3番目のHとなる。 

# by itsumohappy | 2016-07-11 19:20 | 文学・本