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『エセーニン詩集』

『エセーニン詩集』_d0007923_23552939.jpg内村剛介氏の選・訳による、抒情詩人セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・エセーニン(1895-1925)の作品集。
(『世界の詩 53』弥生書房、1968年)

リャザンの農家生まれのエセーニン(右)は、教員養成学校卒業後、1912年、モスクワで働きながら詩作を開始し、15年、ペトログラードの詩壇にデビューした。1917年の10月革命を支持、社会革命党(左派エスエル)の詩人として活躍し、イマジニズム(映像主義)運動にかかわった。農村ロシアの自然を讃えた作品で有名。18年から4年間、ソロフキ、コーカサス、クリミアなどロシア各地を放浪した。

おまえ いったい 知らないのかい?
鋼鉄の騎馬-それがもう 生き馬を負かしちゃったんだってことを?
非力な野には おまえさん いくら走ったって もう あのむかしは還らない。


   (「ソロカウスト」(1920年)より;「鋼鉄の騎馬」は機関車を指す)


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21年、革命政権に招かれて訪ソした舞踏家イサドラ・ダンカン(1878-1927)と結婚し、23年にかけて共にヨーロッパ、アメリカを旅行した(その後ほどなくダンカンとは離別)。アメリカの印象を「人類最良の衝動が亡ぶ」と言い、都会の機械文明とは全く相容れなかった。(左:ダンカンとエセーニン)


見果てた夢、そいつはもうよび起こさないで。
成るようにして成らなかったこと、そいつもそっとしておいて。
喪くすのも、疲れきるのも早すぎた。
そういう目にあったってこと。


     (「母への手紙」(1924年)より)


すべてお受けする。
万時ありのままお受けする。
穴ぼこだらけの道だって 歩いてみせるつもりはある。
洗いざらいに たましいを 十月・五月に渡してもいい。
だがしかし リラだけは 愛するこのリラだけは 渡しはせぬ。


    (「ルーシ・ソヴェツカヤ」(1924年)より)


エセーニンは、国内の戦闘を導き社会の荒廃をもたらした革命に次第に幻滅し、放蕩とアルコール依存のすえ、25年、レニングラードのホテル・アングレテールの一室で「さようなら友よ」を書き遺し、縊死した。死因をめぐっては、かつて秘密警察による殺害説も取りざたされたことがある。

さようなら 友よ さようなら
わが友、君はわが胸にある
別離のさだめ-それがあるからには
行き遭う日とてまたあろうではないか


    (「さようなら友よ」(1925年)より;この詩は血で書かれていた)


訳者の内村氏は戦後、ソ連に抑留中、監獄でエセーニンの詩を読む機会を与えられないかわりに、ロシア人の囚人たちにより口移しに数限りなく教えられたそうだ。氏が56年に釈放になった際、パンと交換にまっさきに手に入れたのがエセーニンの詩集だった。

ロシア人にとってエセーニンが国民詩人といわれるゆえんは、作品の読み方が無数にあり、「エセーニンに接近する者の情念如何によって、エセーニンは無数の相貌を示す」ためであるという。本書で紹介されているのはごく一部の作品であるが、ゆっくり何度か読み直しながら進めていくと、詩人の魂の叫びがじわじわと伝わってくる。
細かい注釈はないが(あえてないのかもしれない)、付録に年表があり、詩の制作年と照らしあわせられるようになっている。

      エセーニンの墓(モスクワ:ヴァガンコヴォ墓地)
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【参考】
『ロシアを知る事典』(平凡社、2004年)、1998年7月6日読売新聞
# by itsumohappy | 2010-01-31 23:52 | 文学・本

ピロシキ作り

モスクワとサンクトペテルブルクに旅行した際、食事のときに出てきたパンは黒パンが主体で揚げパンの類は出てこなかった。出店で買ったピロシキは焼いたものだった。私の住む横浜付近では、ピロシキというと必ずといっていいほど中味がひき肉の揚げパン。これはちょっともたれる感じ。普通の焼きピロシキ(というのか)のほうが食べやすい。家で作ると熱々でおいしいです。

【作り方】
(パン生地)(約15個分)
強力粉:300g
ドライイースト:小さじ1
牛乳:200㏄
砂糖:大さじ2
塩:小さじ1/2
溶き卵:1個分&つやだし用に少々
バター:20g

(具)
キャベツの炒め物+ゆで卵
ひき肉と玉ねぎの炒め物
りんごの砂糖煮
塩・コショウ

1.牛乳、バターを室温に戻しておく。バター以外を混ぜ合わせ、ある程度混ざったらバターを入れてこねる
2.パン生地をまとめてラップに包み、温めておいたオーブンの中に1時間位入れて休ませる
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3.その間に具の準備。量は適当。ひき肉の場合、肉160g+中玉ねぎ1/4使いました。
強火で調理し、塩・コショウの味付けはややきつめがいいです。
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4.パン生地をピンポン玉に丸め、麺棒でのばし具を包む。中身によって形を変えるとわかりやすい
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5.天板に油を塗ったオーブンシートを敷き、ピロシキにぬれふきんをかぶせ、温かいオーブンの中にまた入れて約20分休ませる
6.溶き卵をピロシキの表面に塗り、200度で10分強焼く。

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具は、好きなもの何でもいいと思います。マッシュポテトやキノコの炒め物もよく使われるそうです。パン生地はあまりこねなかったので固めに仕上がりました。
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ひき肉をいためる時に小麦粉を入れるとまとまりやすいかも。
オーブンの調子がわるく、また2回に分けて使ったので2時間位かかってしまった(--) 
ピロシキはロシアではおにぎりのような存在らしいですが、おにぎりのほうがよほど素早くできますね。
# by itsumohappy | 2009-12-31 19:12 | その他

ドストエフスキー 『賭博者』

―自分が滅びた人間だということを、いったい私は理解しないのだろうか。
・・・たった一度だけでも性根を押し通しさえすれば、1時間のうちに運命を根本から引っくりかえすことが出来るのだ!


『賭博者』(1866年)は、シベリアでの刑期を満了後、作家活動を再開したドストエフスキーの、愛人とのヨーロッパ旅行中滞在先のドイツでルーレット賭博にはまった体験に基づく著作である。『罪と罰』の執筆の傍ら構想されたため、時間の節約上口述筆記で完成された。先払いの原稿料も使い果たした作家は、ホテルの宿泊料も踏み倒した。取立てから逃れるために外遊を繰り返し、賭博に熱中するという状態が1863年から1870年ごろまで続いた。

『賭博者』の舞台はドイツの架空の町、ルレッテンブルク(ルーレットの町)。25歳の家庭教師アレクセイと老伯爵婦人が熱に浮かされたように賭博にのめりこむ姿がリアルに描かれている。いかれた人々のお金をめぐる狂態は、ドストエフスキー作品お約束のモチーフである。自分で自分を滅ぼしていることを半ば自覚しながらそれでも賭博を止めることのできないギャンブラーの心理状態を知るのに格好の小説だと思う。

前半が多少もたつくが、老婦人が登場するあたりから一気に読ませる。主人公をめぐる怪しげなフランス人やイギリス人のような、隙あらばギャンブラーの懐を狙うような人々が当時の国際的なカジノにはうごめいていたのだろうか。賭博場での全然役に立たないにわか指南役たちや見物人らの描写も面白い。金額の表記がたくさん出てくるが、20万フラン勝ったとあっても、当時の貨幣価値が不明なのでぴんとこないところがもどかしい。

ドストエフスキーが滞在したドイツ・ヴィースバーデンのホテル、ナッサウアー・ホーフ
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ホテルに隣接するクアハウスと中にあるカジノ。『賭博者』の舞台のモデルとなったところ。
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ドストエフスキー 『賭博者』_d0007923_0273268.jpgプロコフィエフが『賭博者』をオペラ化している(1916年)。ソ連で初演されたのは1990年になってからであった。
# by itsumohappy | 2009-11-30 23:23 | 文学・本

レールモントフ 『現代の英雄』

レールモントフ  『現代の英雄』_d0007923_21193298.jpg19世紀の詩人・作家ミハイル・レールモントフ(右:1814~1841)の代表作(1840年)。カフカスを舞台に主人公ペチョーリンの生き様を描いたものである。プーシキン「オネーギン」と並び、19世紀ロシア文学に現れた貴族・知識人の一典型である「余計者」を主人公にした文学作品のひとつとされる。

19世紀半ばのロシアでは、デカブリストの乱、各地で起こった農民一揆、ポーランド独立運動などの不穏な動きが続き、ニコライ1世による反動的な政治が行われていた。「余計者」を特徴づける、政府や貴族社会に対する批判的な態度や知的優越感、精神の倦怠といった性格描写は、自由な表現活動を封じ込んだ当時の社会情勢の影響を受けたものである。

『現代の英雄』のペチョーリンは、他人の気持ちを弄ぶことに喜びを見出すような、およそ鼻持ちならない人物である。カフカスで関わりを持つチェルケス人女性や公爵令嬢らとのかけひきは、読んでいると心が寒くなる。主人公には共感できないが、ペチョーリン像を徐々に暴いていくストーリー構成は面白く、一気に読める。本の解説にあるように、主人公の救われない性格描写を通じて、一種の社会批判を行っているととれる。

レールモントフは、父は軍人、母は名門貴族出身で、貴族寄宿学校、モスクワ大学に学んだ。シェークスピア、バイロンらの影響を受け、詩作を始めるも教官とのトラブルから近衛士官候補生学校へ転校し、卒業後、近衛騎兵騎手となった。

崇拝していたプーシキンが決闘で死去した際に書いた詩(『詩人の死』)が評判となり、書き写されてロシア全土に広まったが、その詩に宮中の高官を誹謗した字句があったため、カフカスに転属させられた。しかし、レールモントフにとってかつて療養時に滞在したカフカスは「第二の故郷」であり、詩作の傍ら山地の風景をスケッチし、土地の伝説や民謡の研究も行った。現地での戦闘で武勲を立てたが評価されず、退役も認められず、やがて決闘沙汰に巻き込まれて死んだ。レールモントフは、わざと決闘相手を外して拳銃を撃っていたが、相手に狙い撃ちされた。この事件は謀殺と言われており、レールモントフの死の知らせを聞いたニコライ1世は、「犬には犬死が似合いだ」と嘯いたと伝えられている。

【参考:『ロシアを知る事典』 2004年平凡社】

   終焉の地、ピャチゴルスクにあるレールモントフ博物館
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# by itsumohappy | 2009-10-31 21:30 | 文学・本

『生き急ぐ-スターリン獄の日本人』 『内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく-私の二十世紀』

11年間のラーゲリ(強制収容所)経験を持つロシア文学者・評論家の内村剛介(1920~2009)の代表作のひとつと同氏へのインタビュー本の紹介です。

内村氏は、満州に住んでいた姉夫婦のもとに家庭の事情で単身赴き、14歳で満鉄育成学校に入学した自称「少年大陸浪人」。勉学の傍ら満鉄本社で見習社員をするうち、「未だ子どもの身なのに世の中の実情・カラクリが分かって」しまい、「このままでは人間が駄目になる」と決意、大連二中に転校後、30倍の難関を通って哈爾濱(ハルビン)学院に入学した。1943年、関東軍に徴用されて翻訳業務などに従事。敗戦後の45年9月、平壌で北朝鮮官憲にいったん拘束されるも釈放されたが、急病にかかった同僚事務官の治療のため、ともに収容所に戻って捕虜となった。その後、ソ連諜報機関に逮捕され、48年、25年の禁固刑を受けた。日ソ国交回復後、56年、最後の帰国者の一人として帰国。日商岩井に勤務しながら文筆活動を始め、のち北海道大学・上智大学の教授を務めた。

『生き急ぐ-スターリン獄の日本人』(2001年講談社(当初版:1967年三省堂))
『生き急ぐ-スターリン獄の日本人』 『内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく-私の二十世紀』_d0007923_0233489.jpg
君の罪は、―もし君に罪があるとすれば、いや、君には必ず罪があるが―歴史に対するものだ。社会主義がこれから受けるかも知れぬ打撃をちゃんと知っているくせに、社会主義の祖国に伝えようとしないことが君の罪だ。
     ***********************


獄中における内村氏こと「タドコロ・タイチ」とソ連取調官の攻防を描いた著作。タドコロは、「精神の武器」を隠し持ったまま日本に帰ろうとしていると責め立てられ、その「反ソ活動」の罪で、裁判も何もなく「組織的反ソ諜報活動」及び「国際ブルジョワジー幇助」により25年の禁固・5年の市民権剥奪(ソ連市民でもないのに)の刑を受ける。いわば「未来の歴史」に対する罪で収容所送りになるという無茶苦茶な話である。

取調官の異常な論理について、「ある思想が生まれて、人間そのものの鬼子として人間そのものを食い散らかしている」と表現している。通常なら気がふれてもおかしくない状況のなかでのタドコロの冷静な反論が読みどころである。

独房を日本人は恐れないそうだ。独房で発狂するのはほとんど決まってロシア人やドイツ人。彼らは人ごみの中にいたがる論争好き、とある。

『内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく-私の二十世紀』
(2008年恵雅堂出版:陶山幾朗編集・構成)

『生き急ぐ-スターリン獄の日本人』 『内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく-私の二十世紀』_d0007923_0235768.jpg
内村剛介を日本に帰したことは痛恨の極みである。あいつだけは帰すんじゃなかった、とソ連に臍をかませるために僕はシベリアで11年を生き抜いたつもりです。
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内村氏の生い立ち、満州そしてシベリアでの日々から帰国後に至るまでの約400ページにわたる仔細なインタビューを内容としている。収容所で盟友となった仏作家ジャック・ロッシとの交流や同じ収容所にいて帰国直前に急死した近衛文隆のエピソードなども語られている。

進駐してきたソ連軍の通訳として立ち会った内村氏に、司令官が発した第一声は、「労働者開放の崇高なる大号令」ではなく、「玉ねぎはあるか?」だった。
氏はかねてから、コミュニストの、自分たちだけが真理を握っているという一方的な自己主張に我慢ができなかったそうだ。監獄の中でレーニンやスターリンの著作を読み続けるうち、そのナロード(人民)不在の論理に、コミュニズムは必ず亡びると確信し、その間違いを徹底的に論証してやろうと決意した。25年の刑期のうちに俺が死ぬかソ連が無くなるか、そういう問題だ。この国は原理的に間違っている、くたばるのはお前のほうだ。・・という思いで11年を収容所で過ごしてきた。ただの捕虜ではない、大変な気骨の持ち主である。

失った青春の代わりに得たものは?との問いには、ロシア人という謎にじかに直面したという経験である、と答えている。ロシア人は人がいいが、それは自分に対しても無限に寛大であり、何をやってもいいという一種の無政府主義につながっていくことを意味する。ロシアとは「形無しの国」であると総括している。

満鉄育成学校時代、傲慢な満鉄エリートの姿を見て、氏は、自分は 「勇気ある人間」になりたいと思ったと語っている。ソ連からの帰国後は、自分にとって屈辱であるということが目の前で起こったときそういうものは見過ごすまいと決めたそうだ。実際、そのような信念に基づいた、傍目には過激とも見える行動の数々が語られている。
全体を通じて、勇気とは、善とは、ひいては人間とは何か、そして真理とは何かを考えさせられる本である。
# by itsumohappy | 2009-09-30 00:45 | 文学・本