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2013年 12月 27日

クロポトキン 『ある革命家の思い出』

d0007923_21271392.jpg公爵家出身の革命家・地理学者ピョートル・クロポトキン(1842-1921)の回想記(1899年)。もとは1898年から約1年間、雑誌「アトランティック・マンスリー」に連載されたものである。幼年期から、革命思想に目覚めアナーキズム運動に携わる20~30代頃までを中心に記されている。特に、冒頭の子ども時代の部分が、当時の上流階級の生活が伺えるもので興味深い。

幼少時のクロポトキンは、モスクワ貴族の習慣に倣い、ナポレオンの軍隊の生き残りであるフランス人の家庭教師から教育を受けた。早くに母親と死別しており、召使たちに気遣われながら成長。1858年、近衛連隊の将校として皇帝に仕えるべく「近習学校」に入学した。近習となって、宮廷で大舞踏会や大接見式などを見るうちに、宮廷生活の見世物的な側面に疑問を抱き、皇帝アレクサンドル二世が些事に夢中になりすぎて重要な問題を考慮しないことにも気付く。当時のロシア社会は、中途半端な農奴解放令(1861年。農奴は身分的には解放されたが、土地取得税が課せられたため、「自由でもあり自由でもないあいまいな宣言」となった)の影響で農民が都市に流入し、不安定な状況となっていた。

d0007923_21274186.jpgクロポトキンは、近衛連隊で一生を閲兵と宮廷の舞踏会に捧げるのはやめようと決意。シベリア・アムール地方のカザーク騎兵連隊への勤務を願い出て周囲を驚かせた。1862年、ミハイル大公の口添えでシベリアに異動し、軍務のほかアムール川流域や満州を探査するなどして5年を過ごした。その間、「最善、最悪、最上層、最下層のあらゆる種類の人間」と接触し、人生と人間の性質を学んだ。

このシベリア生活で、「国家的な規律に対する信念をなくし、アナーキストとなる下地ができた」とある。ポーランド人流刑者の反乱(1866年)がきっかけとなったようだ。ポーランド人流刑者は、バイカル湖周辺の断崖を切り開く道路作りに従事していた。ロシア人の政治犯が運命に服従し抵抗しなかった一方、ポーランド人は成功の見込みのない反乱を公然と起こした。
クロポトキンは自らの将校としての地位が虚偽であると感じ、1867年、軍籍を離れてペテルブルク大学に入学した。

本の後半は、一般大衆に社会革命の理想を広げる運動に努めた1870~1880年前後が主体である。その頃、欧州各地では勤労者の権利向上を求める労働者の組織が次々と誕生していた。
クロポトキンは、「周囲にあるものが貧困とかび臭いパンのための戦いであるとき自分だけが高い喜びを経験できない」、「人々のために、民衆のそばに立って知識を広め、民衆と運命を共にしたい」など恵まれた者ならではの純粋な感情を記している。もともと革命思想はこのようなごく単純な理想から始まったものなのだろう。クロポトキンは、国際労働者協会のひとつに参加し、民衆教化のためのパンフレットづくりや書籍の頒布などを行った。

1870年代、ロシアでは、自由のための闘争が先鋭的な性格を帯びていった。1874年、クロポトキンは逮捕され、政治犯としてペトロパヴロフスク要塞に収監された。その後、病気のために移された医療刑務所から脱獄し、フィンランドなどを経てイギリスに亡命した。
皇帝の専制が倒された二月革命(1917年)を機にロシアに帰国するが、無政府主義、反権威主義の立場から、後のボリシェビキ革命政権には係わらなかった。

アレクサンドル二世を「政治家としての勇気に欠け、凶暴性を隠した生まれつきの専制君主」「ロシアの事態を改善することなく一切を投げ出そうとしている」と自身の目で見て分析したクロポトキンにとって、専制の主体が変化したかのようなボリシェビキ革命は受け入れられなかったということだろう。

『ある革命家の思い出』は亡命中の著作のため、ロシア革命に関する考察はない。
1921年、モスクワで死去し、ノヴォデヴィッチ修道院に葬られた。
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# by itsumohappy | 2013-12-27 21:37 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2013年 11月 08日

ドストエフスキー 『罪と罰』

d0007923_22402927.jpg米川正夫、江川卓、工藤精一郎、小沼文彦、中村白葉ら著名なロシア文学者たちが訳してきた『罪と罰』の亀山郁夫氏による最新訳(2008-2009年)。
私は昔、米川訳を読んだが内容はほとんど忘れてしまっていた。字の大きさ・行間など見た目のとっつきやすさは新訳本ならでは。長大な古典文学は読むのにエネルギーが要るので、家にあるような3段組のレイアウトではもう読む気にならない。亀山氏の翻訳の良し悪しはわからないが、少なくとも一応すらすらとページが進むという点では読みやすいと言える。ただ、「バイト」など、訳語としてどうか?と感じるものがいくつかあった。

1865年夏のペテルブルクが舞台。解説によると、ペテルブルクは、1853-57年の毎年の逮捕者が4万人という犯罪都市で、農奴解放令(1861年)後は、土地を与えられない農民も流入して貧困など深刻な社会問題が生じていた。 
貧しさのゆえ学業を続けられなくなった主人公、ラスコーリニコフは、忌まわしい暮らしから逃れるため金貸し老婆の殺害を企て、「超自然的な力で引き立てられていく、服の端を機械の歯車にはさまれ引き込まれていく」ように計画を実行する。その殺人を正当化する論理がこの小説が突き付けるテーマである。

それを説明するくだりが各所に出てくるが、「ラスコーリニコフの論文」から要約すれば、
「人間は凡人と非凡人のグループに分けられる。凡人は従順に生き、法を踏み越える権利を持たない。非凡人は非凡人ゆえに、全人類にとって救済になると思えば、勝手に法を踏み越えあらゆる犯罪を犯す権利を持つ」というもの。古来、人類の恩人、立法者の大部分は多くの血を流させてきた、ナポレオンのような英雄や天才らもしかり。特別な存在であれば輝かしい事業のために殺人が許される、という論だ。

さらに小説は、罪の自覚を持たない主人公は救われるのか、救いは必要なのかと問う。そして「神の存在」の有無に言及する。
「黄の鑑札」(公娼に対して身分証明書と引換えに発行される証明書)で生きるソーニャに「神様がお許しになるはずがない」と責められたラスコーリニコフは、「ひょっとして神様なんてまるで存在していないかもしれない、神様は何をしてくれるんだい?」と応える。

『罪と罰』は「悪」「金」「神」という、ドストエフスキーの代表的エッセンスが込められている。小説では、最後に主人公の更生をにおわせているが果たして本当にそれが可能かは不明であるとも読める。
誰にでも勧められる良い小説というより危険で困った小説である。

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『罪と罰』は1865年、ドストエフスキーがドイツ保養地ヴィースバーデンに滞在中、ルーレット賭博に熱中して困窮状態に陥り、追い詰められてホテルで書き起こした作品である。同年にモスクワで起きた宝石商殺害事件などをヒントにしているという。作家は、10年間にわたるシベリアでの懲役を終了後、モスクワやペテルブルクで生活していたが、妻や兄の相次ぐ死、雑誌「世紀」の倒産などで巨額の借金を抱え、ドイツに高飛びしていた。
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# by itsumohappy | 2013-11-08 22:34 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)
2012年 10月 12日

グロスマン 『人生と運命』

「自分の人間である権利のための、善良で高潔な人間である権利のための闘いを続けなければならない。・・・もし恐ろしい時代に、どうにもならない時がやってきても、人は死を恐れてはならない。人間であり続けたいと望むのであれば、恐れてはならない。」 
(『人生と運命』 第三部369頁)


d0007923_1775839.jpgワシーリー・グロスマン(1905-1964)は、ウクライナ・ベルディーチェフ生まれのユダヤ人ジャーナリスト・作家。
代表作『人生と運命』は、1960年代、スースロフ(ソ連共産党のイデオロギー担当書記)が300年後でないと出版されまいとコメントした問題作である。2012年2月、初めて邦訳が出版された。全3巻、1,400頁の大作で、登場人物リストでも数頁にわたる。

もともと化学者の著者は、『文学新聞』に執筆した短編がゴーリキーに認められ、文学活動に専念するよう助言された。1941年6月の独ソ戦勃発に際し、ソ連の軍新聞『赤い星』の従軍記者となり、記事を定期的に掲載した。44年、トレブリンカ絶滅収容所(ポーランド)を取材し、ホロコーストの実態に関する世界初の報道を行った。なお、著者の母は、故郷に侵攻したドイツ軍によるユダヤ人殲滅作戦で死亡している。次第に著者は、全体主義国家における暴力と人間性の破壊という点で、スターリニズムとナチズムの本質は同じであるとの見解に至り、50年代後半から『人生と運命』の執筆を始めた。

『人生と運命』は、スターリングラード戦中の1942~43年の様相を扱ったもので、ユダヤ系物理学者ヴィクトルをはじめとするシャーポシニコフ一家を中心に展開される。スターリングラード戦での独ソの攻防、スターリニズムの犠牲となり粛清される人々、ナチス占領地域におけるユダヤ人虐殺といった、20世紀ソヴィエト・ロシアの悲劇の集大成のような作品である。201の各小節において舞台が、戦場、ラーゲリ、ユダヤ人絶滅収容所などとめまぐるしく転換し、次々と新たな人物が登場するので、慣れないうちは混乱する。
ヴィクトルが粛清の恐怖と闘いつつ、人間としての良心をどのように貫くか悩んだあげく出した結論が、冒頭の引用部分である。
 
著者は、1960年に完成した『人生と運命』をソヴィエト作家同盟機関誌『ズナーミヤ』に持ち込んだが、翌年、KGBの家宅捜索により、草稿を含む原稿のみならずタイプライターのインクリボンまで没収された。作品を反ソ的とみた『ズナーミヤ』編集長がKGBに通報したとされている。64年、著者は、外国ででもよいから本書の出版を遺言で望み、病死した。生前、複数の友人に託されていた原稿が、マイクロフィルムで持ち出され、80年にスイスで出版された。本国で出版されたのはペレストロイカ初期の88年である。
  
翻訳した齋藤紘一氏は、通産省の審議官も務めた元官僚。米川哲夫氏にロシア語を学んだそうだ。『人生と運命』の存在を知ったのは数年前で、邦訳がないのを不思議に思い、取り組み始めた。各小節にある、膨大で精緻な注釈にも圧倒される。
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# by itsumohappy | 2012-10-12 17:11 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2012年 09月 07日

レーピン展

d0007923_23221690.jpg国立トレチャコフ美術館所蔵のレーピン展の感想などです(2012年10月8日まで文化村ザ・ミュージアムで開催。以降、浜松、姫路などを巡回)。

イリヤ・レーピン(1844―1930)は、ウクライナ・チュグーエフ出身。1863年、サンクトペテルブルクに出て、美術アカデミーで学んだ。アカデミー時代は、エルミタージュのコレクションを模写し、レンブラント、ベラスケス、ハルスらに傾倒した。在学中より、市井の人々の生活を描くことに関心が強かった。

レーピンの名声は、『ヴォルガの船曳き』(ロシア美術館所蔵、1873年)で高まった。今回の展示会には、『船曳き』の下絵が出ている。『船曳き』は、1869年、レーピンがサンクトペテルブルクのネヴァ川を散策中に見た光景がもとになっているそうで、画家は、その後、ヴォルガ川で船曳きを観察し、何度か描き直して完成させた。

1873年、美術アカデミーの留学生としてパリへ渡ったレーピンは、マネや印象派の影響を受けた。今回出展されている代表作『日向で-ナジェージダ・レーピナの肖像』(下)など、光あふれる日差しの下で描かれた作品は、明るく穏やかで、いかにも印象派の感じである。  
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1877年から1882年のモスクワ滞在時代には、実業家トレチャコフと知り合い、トルストイ、ムソルグスキーらとも交友を深めた。一度見たら忘れられないムソルグスキーの肖像画(上)が展示されている。この絵が描かれてから約10日後にムソルグスキーは死去したらしい。アルコール中毒で病んだ姿ではあるが、圧倒的な存在感に満ちた作品だ。
 
レーピンは、「人生というドラマ、自然の印象、歴史の精神などが私たちの主題」と、師であるクラムスコイに書き送っている。クラムスコイは、1863年、美術アカデミーのコンクールで自由な画題を求める請願を仲間と共に行ったが却下されたため、アカデミーを退学して移動美術展覧会協会(移動派)を結成した画家。1878年にレーピンは、移動派の会員となった。

1882年、サンクトペテルブルクに移住後、肖像画を主体に旺盛な制作を続けた。肖像画のモデルは王族、貴族、軍人、農民、巡礼者、インテリゲンツィア、芸術家、評論家、女優、家族などさまざまである。男性も女性もその内面が堂々たるタッチで描かれていて、人気画家であったことが納得できる。

19世紀後半のロシアは、ナロードニキらによる反帝政活動など不穏な空気が漂っていた。レーピンは、1866年、アレクサンドル2世を暗殺したカラコーゾフの公開処刑をスケッチしている。展示会には、政治犯がシベリアあたりに橇で護送される絵があった。1917年の2月革命を支持し、臨時政府首相のケレンスキーの肖像画も描いた。
レーピンが、革命後の社会の様相をどのように見ていたか、この展示会からはわからない。大戦前の1930年に死去しているので、よい時期に世を去ったと言えるかもしれない。教鞭をとった美術アカデミーでは師事を希望する者が引きもきらなかったそうだ。あらゆる階層から幅広い支持を得続けた、幸せな画家人生だったのではと感じた。

ロシアに行く機会があれば、 『ヴォルガの船曳き』(ロシア美術館所蔵)(下)は見たいものだ。
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# by itsumohappy | 2012-09-07 23:39 | 展示会 | Trackback | Comments(0)
2012年 08月 27日

パンクバンドへの実刑判決

2012年8月17日、モスクワの地方裁判所は、今年2月21日に救世主キリスト聖堂内でプーチン政権批判のゲリラ演奏を行ったパンクバンド「プッシー・ライオット」メンバー3人に、教会を冒涜するなどフーリガン(暴徒)行為の罪により禁錮2年(求刑は3年)の実刑判決を下した。27日、弁護人は判決を不服として控訴した。3人は、3月から拘束中であり、2013年1月までの収監が決定している。
8月20日現在、ロシア内務省は、現場で逃走したバンドの他のメンバー2名を逮捕すべく手配中である。

メンバーは、覆面姿で聖堂の祭壇に乱入し、「マリア様、プーチン氏を追い払えたまえ」と「パンク祈祷」を行い、その模様を招待されていたジャーナリストがネット配信した。

d0007923_015796.jpgプッシー・ライオットは、ロシア全土から集まった2、30人の若い女性グループで、バンドというよりもパフォーミング集団に近いもののようだ。以前から、赤の広場他公共の場で怪しげなパフォーマンスを行い、お行儀のわるい「ばかもの」的存在で知られていたらしい。
2月に聖堂でゲリラ演奏を行った動機として、メンバーの一人は、ロシア正教会のキリル総主教が、大統領選(3月4日)でプーチン氏への投票を呼びかけ、反プーチン集会に行かないよう語ったためで、演奏は「市民の政治活動」と主張した。
総主教は、プーチン氏のこれまでの統治を「神の奇跡」と称え、同氏への支持を明確にしている。

総主教は、ゲリラ演奏事件を「神への許されざる冒涜」と激しく非難し、正教会関係者は、宗教への侮辱に関する法律の厳格化を求めた。一方、公判中より、国内外から、「容疑に対して拘束期間が長すぎる」との批判があった。人権擁護団体モスクワ・ヘルシンキグループは、「罰則ではなく良心に訴えるべき」と懸念を表明。また、作家のアクーニン氏ら100名の著名文化人らが、メンバーの釈放を求める請願を行った。
欧米からも「政治弾圧」の声が上がった。マドンナ、ポール・マッカートニー、スティングら有名人がロシア公演などでメンバーの解放を求めたり、支援活動を始めたりしている。

ロシアでは、5月7日のプーチン大統領就任後も政権への抗議運動がおさまらないため、6月9日、集会での違法行為への罰金の最高額を引き上げる「デモ規制強化法案」が施行された。これにより、個人への罰金の最高額が5000ルーブル(1ルーブル≒2.4円)から30万ルーブル、組織への最高額が100万ルーブルとなった。それでも6月12日、プーチン氏再選以来最大の5万人規模の反政府集会が行われ、参加者は、大統領の退陣や集会の自由を求めてデモ行進した。
また、7月13日、下院は、外国から資金援助を受けるNGOを「外国のエージェント」(スパイを指す表現)として登録を義務付け、活動を監視する内容の法案を可決した。違反団体の代表には300万ルーブルの罰金が科せられる。

d0007923_0153659.jpg民主化要求、表現の自由に対する締め付けが強化されているなか、プッシー・ライオットのメンバーへの実刑判決は、教会との密接な関係という痛いところを突かれて「逆上」したプーチン政権の、反政府勢力に対する見せしめとみられているが、最高刑である7年ではなかったことを喜ぶべきと皮肉る声もある。8月2日、プーチン大統領が、オリンピック観戦のため訪問中のロンドンで、メンバーについて「厳しく罰せられるべきとは思わない」と発言したため、「厳しすぎない判決」になったとのことである。

判決について8月17日、米国務省のヌーランド報道官は、「判決は不釣合いであり、ロシアにおける表現の自由にマイナスの影響を与えることを懸念する」との声明を発表した。また、EUのアシュトン外交安全保障上級代表も「裁判の公正さに疑問を呼ぶ判決で、深く失望している」とコメントした。


【2012年6月7日日本経済新聞、10日朝日新聞、7月12日産経新聞、14日毎日新聞、22日東京新聞、8月5日産経新聞、18日RIAノーボスチ、ロシアの声、日本経済新聞、22日・29日東京新聞他より】
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# by itsumohappy | 2012-08-27 00:18 | ロシア | Trackback | Comments(2)
2012年 02月 29日

プーチン氏、中間層の政治参加を約束

ロシアの有力な世論調査機関はいずれも、来るロシア大統領選で(3月4日)、プーチン首相は第1回の投票で過半数を獲得して大統領復帰を果たすという予測を発表している。「全露世論調査センター」によれば、プーチン氏の得票率52%に続くのは、最大野党・共産党のジュガーノフ党首と極右・自民党のジリノフスキー党首の各8%。中間層の受け皿と目されていた反政府系リベラル派政党、ヤブロコのヤブリンスキー氏は、候補者登録の書類不備を理由に、そもそも出馬を認められなかった。

昨年来「反プーチン」デモが続き、2月4日の反政府集会では3万6千人(主催者発表では12万人)が集まったとされるが、2月23日、プーチン氏を支持するデモ行進や集会には10万人以上が参加した。「国を壊そうとしている勢力に反撃する」ことも集会の目的であったという。プーチン氏も、ロシアには「独自の民主主義制度の発展が必要」と訴えている。

その一方で、プーチン氏は、2月6日、「コメルサント」紙に、市長らの公選制やネット上の民意を政治に反映させる仕組の導入など、中間層を意識した民主化や地方分権の推進を訴える論文を発表した。
抑圧的な政治体制や変わらぬ汚職の蔓延に批判の目を向ける、特定の支持政党を持たない中間層(平均月収1,000~1,500ドル)は、現在人口の約2割とみられ、政治に及ぼす影響は無視できない。

プーチン体制では、民営企業の国営化など経済の国家管理が進められ、原油高により、2000~2008年に年率約7%の経済成長が達成された。経済力をつけた中間層は、政治的な権利の拡大や公正な社会の実現を求めている。
近年、硬直化した社会体制に見切りをつけ、国外脱出するロシア人が増えている。ここ数年で125万人に達し、最近の傾向として中間層が多いのが特徴であると分析されている。

プーチン氏は、選挙公約で、今後10年間に23兆ルーブル(約61億円)を投入し、大陸間弾道ミサイル400基導入など軍と関連産業近代化に向けた施策を優先課題のひとつとして掲げ、保守層へのアピールを図った。

大統領選で、下院選挙(2011年12月4日)時のような不正疑惑が再び起きる可能性はある。政権運営のスタート時における「透明性」の確保を内外に示せるかが注目される。

【2012年2月7日・23日共同通信、7日東京新聞、21日日本経済新聞、23日読売新聞、27日毎日新聞他より】
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# by itsumohappy | 2012-02-29 23:19 | ロシア | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 31日

ボリショイ・バレエ 「スパルタクス」

ボリショイ・バレエ「スパルタクス」の感想です。(1月31日/東京文化会館)

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【出演】
スパルタクス:イワン・ワシーリエフ
フリーギア:スヴェトラーナ・ルンキナ
クラッスス:アレクサンドル・ヴォルチコフ
エギナ:エカテリーナ・シプーリナ
ボリショイ劇場管弦楽団/指揮 パーヴェル・ソローキン
音楽:アラム・ハチャトゥリアン

6年間の修復を終え、新装なったばかりのボリショイ劇場が引越し公演(1月27日~2月12日)。地震と放射能を心配していたと思うが、よくぞ来日した。都内の初日は、「スパルタクス」。古代ローマの剣奴の反乱(紀元前73-71年)を題材に、ユーリ・グリゴローヴィチが振付したバレエで、1968年初演された。

この演目のパリ公演(2008年)をたまたま録画で見ていたが(スパルタクスを客演したカルロス・アコスタが印象的だった)、実際観られる機会が少なそうなこともあって、先週チケットを購入。平日夜でも劇場の9割近くが埋まっていた。ワシーリエフがミハイロフスキー劇場に移籍したけれども、予定通りのキャスティングで行われた。

この作品は、ダイナミックな音楽にのって力強さでおしまくる勇壮な「男性バレエ」で、衣装も派手ではない。言うなれば、バレエという感じのしないバレエ。炸裂する管弦楽はやはり生の舞台ならでは。
主演のワシーリエフはわりと小柄で、どんなスパルタクスかと思いきや、ゴム鞠のごとくかなりの気合で最初から最後まで飛び跳ね、かつ、スピーディなー切れのよさを披露して喝采を浴びていた。
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撮影:Damir Yusupov

シプーリナのエギナも濃いキャラクターのせいか心に残る演技だった。対して、ルンキナのはかなさはややわりを食う感じになった(そういう役柄なので仕方がない)。
半ばでヴォルチコフの着地が失敗し、その後、やや足を引きずったのでどうなることか心配だったが、後半は無事に踊りきった。あと、兵隊さんの数がもう少し多いとより迫力が増しただろう。
前回来日時よりずっと円高のはずだが、チケットの価格帯は変わらない印象である。もう少し何とかならないものだろうか。

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改装されたボリショイ劇場のメインロビー
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# by itsumohappy | 2012-01-31 23:45 | 演劇 | Trackback | Comments(0)
2011年 12月 30日

公正な選挙を求める中間層、大規模デモで政権に抗議

12月4日のロシア下院選挙において、票の水増し等の不正行為が行われたことに抗議し、10日・24日にモスクワで大規模デモが行われた。主催者発表で、10日はソ連崩壊後最大規模とされる10万人、24日はそれをさらに上回る12万人が参加した。公正な選挙を求める集会は、全国50都市以上で行われた。政府は大都市で治安部隊を投入し、のべ千人以上を拘束した。

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(写真:RIAノーボスチ・2011年12月24日)

下院選では、政権与党である統一ロシアは全国得票率49%(前回選挙では63%)、獲得議席(定数450)は77議席減の238議席にとどまった。過半数は維持したものの、憲法を単独で改正できる3分の2を占めるに至らなかった。与党への批判票が野党に流れ、与党得票率はモスクワで46%、サンクトベテルブルクで32%となった。その一方、チェチェンなどでは90%超となるなど、一部地域で強引な集票活動が行われたことで、与党「勝利」につながったと伝えられている。

プーチン首相は、9月24日、政権与党である統一ロシアの党大会で、2012年3月の次期大統領選に立候補を表明している。メドベージェフ大統領とのたすきがけ人事、すなわち大統領への返り咲きは言わば既定路線とされていたが、国民不在、権力者同士の決定に、リベラルな中間層が反発し、与党に背をむけた。

2008年12月の憲法改正により、大統領任期は4年から6年に延長されており、最長12年間大統領職を務めることが可能である。プーチン氏が唱える「主権民主主義」(管理された民主主義)は、2007年の選挙頃までは受け入れられたかもしれないが、インターネット人口が国民の3分の1を超えた現在、汚職の改善や天然資源に依存しない経済への改革を求める中産階級の意識を、政権は認識していないと分析する声がある。

12月15日、プーチン首相は国民との対話で、野党が求める選挙のやり直しや票の再集計には応じないとし、2012年3月の大統領選では、全投票所にライブカメラを設置して投票を監視することを検討すると表明した。
下院選で、与党への反対票により躍進した野党には、大統領選でプーチン氏に対抗できる有力な候補者はおらず、決選投票となってもプーチン氏当選の可能性は大きいとされる。

【2011年9月24日朝日新聞、12月5日・8日日経、11日毎日、15日読売、28日産経新聞より】
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# by itsumohappy | 2011-12-30 23:54 | ロシア | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 30日

北方領土をめぐる最近の話題

●日露首脳会談の開催
d0007923_0274851.jpg2011年11月12日、APEC首脳会議が行われたホノルルで、野田総理とメドベージェフ大統領が会談を行った。外務省の発表によれば、両首脳は領土問題解決の必要性を再確認し、議論を継続させることで一致。野田総理から、交渉は日露両国間の諸合意に基づき行う必要があることを指摘した、とのことだ。ここで、「諸合意に基づき行う必要性で両国は一致」にもなっていないことが気になる。9月21日、国連総会開催時に行われた日露外相会談の概要を見ると、玄葉外相とラヴロフ外相は、「日露間では立場の違いがある中で、法と正義を重視して、静かな環境で議論を継続していくこと」で一致したとある。

北方領土交渉を「静かな環境」で、という表現をよく見かけるが、意味するところがもうひとつ不明である。昨年11月1日、メドベージェフ大統領は、国後島を訪問。ソ連時代を含めロシア国家元首として初めての北方領土訪問であり、ロシアの実効支配をまざまざと見せつけた。領土問題の議論を重ねた上で、解決に向けた次のステップに進む具体的道筋など依然全く見えない状況である。問題解決に向けた交渉は徐々に後退しているようにも感じられる。

●国後島、地熱発電で全電力供給へ
北方領土のインフラ整備を行う「2007~15年 クリル諸島社会経済発展計画」の一環で、国後島で地熱発電所のタービンが更新・増設され、島全体の電力が地熱で賄われる予定である。計画が達成されれば、日本側が供与したディーゼル発電施設が不要になる可能性もあるとのことだ。

2011年1月31日、国後島を視察したバザルギン地域発展相は、2025年までのクリル発展計画を用意することを打ち出した。特に「クリル諸島連邦目的別プログラム」として、港湾施設、空港整備のほか、漁業発展のため、現在2つの水産加工場に加えて8つの新たな工場を建設する予定である。総額180億ルーブル(約540億円)が計上されると伝えられている。

●北方四島交流等事業用の新船舶就航へ
ビザなし交流など北方四島への交流事業に使用していた船舶が老朽化したため、2007年12月、バリアフリー設備も導入した船(約1200トン)を造る方針が決定された。2011年5月、新船舶の名は公募で「えとぴりか」となり、同年11月11日、命名進水式が広島県江田島市で行われた。「えとぴりか」は、来年5月からの就航が予定されている。
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【2011年2月1日朝日新聞、11月3日北海道新聞、9月23日「ロシアの声」、外務省HP、内閣府HP等より】
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# by itsumohappy | 2011-11-30 23:49 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2011年 10月 30日

『チェルノブイリの祈り-未来の物語』 『チェルノブイリ診療記』

福島第一原発事故をきっかけに、かつて出版されたチェルノブイリ事故関連の書籍が相次いで新装・再出版されている。そのうちの2冊の感想です。

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1986年4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原発で試験運転中の4号炉が爆発・炎上した。事故から36時間経過した時点で、発電所から3キロ圏内のプリチャピチ市民に避難命令が出された。28日、スウェーデン政府の問い合わせを機にソ連政府は事故を公表。5月5日~6日、原子炉火災が鎮火し、放射性物質の大量放出が止まった。飛散した放射性物質は、520京ベクレル。広島に投下された原子爆弾の200~500倍といわれる。ちなみに福島第一原発事故により今も放出されている量は37京~63京ベクレルである。
5月6日、30キロ圏内の住民に避難命令が出され、約13万人が避難した。

ソ連全域から、軍人や消防士ら作業員約60万人が、事故の詳細も知らされずに動員された。大量の放射能を浴びた作業員は、血液循環疾患をはじめとする様々な健康障害を発し、ベラルーシの専門家によれば、事故から5年間で約3万人、2011年現在まで約10万人が死亡したとされる(国連は、2005年、被爆による死者は約4千人と推定している)。

事故から25年経った現在も、許可が無ければ30キロ圏内に立ち入ることができない。強制移住させられた人々は、精神的苦痛に悩まされ続け、なかには、移住先の生活になじめずに政府の命令を無視して自宅に戻る者もいる。それらの「サマショール」(わがままな人)と呼ばれる人々は現在200人以上という。
2011年4月20日、爆発した原子炉を覆う新シェルターと放射性廃棄物保管施設の建設のため、EUなど約30の支援国や国際機関が、約650億円相当の資金拠出を表明した。
チェルノブイリの浄化プロジェクトが完了するのは2065年の予定である。

【2011年4月14日・20日日経、6月9日読売、11日日経新聞より】
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『チェルノブイリの祈り-未来の物語』

d0007923_14591510.jpgスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著(1998年)。著者は、ベラルーシのジャーナリスト。同国で最初にドキュメンタリーを手がけた著名な作家アレーシ・アダモーヴィチに師事した。チェルノブイリ事故当時、首都ミンスクに住んでいた。この本は、著者が3年にわたって、原発の従業員、科学者、医者、兵士、移住者、サマショール、地元政治家らにインタビューし、96年より雑誌に発表したものの集大成である。

ベラルーシ人にとってチェルノブイリは第3次世界大戦。著者は、この戦争がどう展開し、国が人間にいかに恥知らずな振る舞いをしたか、その記憶を残し、かつ、事実の中から新しい世界観、視点を引き出すために10年の歳月をかけたと語っている。

以下、主な証言の要約である。
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<殉職した消防士の妻>
プリピャチ市では、事故は「妨害工作」と言われた。夫は、「1600レントゲン」浴びて、放射性物体、人間原子炉と化した。最後は、骨と体が離れてしまい、体はぐらぐら、肺や肝臓のかけらが口から出て、自分の内臓で窒息状態。同僚の消防士もみな2週間後死去した。これから、お金の工面をはじめ、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか、どの旗のもとに再起すればいいのかわからない。

<事故処理にあたった兵士>
34万人の兵士が生きたロボットとして投入された。原子炉の上で、バケツで黒鉛を引きずった者は「1万レントゲン」浴びた。「勇気とヒロイズムを発揮する」ため多くの命が失われた。アフガンで戦死すればよかった。そこでは死はありふれたことで、理解できることだった。

<映像ジャーナリスト>
チェルノブイリの記録映画はない。撮らせてもらえなかった。悲劇を撮影することは禁じられ、撮影されたのはヒロイズムばかり。カメラマンはカメラを叩き壊された。チェルノブイリのことを正直に語るのは勇気が必要なのだ。

<住民たち>
原子炉が光っているのを見た。美しかった。ベランダに出て見物し、遠くから車や自転車で駆けつける人もいた。地上のにおいじゃないにおいがした。その後、人々は義務だと思ってメーデーの行進をしに出かけていった。情報は一切無く、政府は沈黙し、身を守るすべがなかった。 
疎開した被災者はのけ者にされた。学校では「ホタル」と言われ、隣に座ると死ぬと避けられた。

<ベラルーシの核エネルギー研究所元所長>
ミンスクにヨウ素剤が用意されていたが、倉庫に眠ったまま。誰も彼もが命令を待つだけで自分では何もしようとしなかった。上の怒りを買うことが原子力よりも怖かった。国家が最優先され、人命の価値はゼロに等しい。しかし、指導者連中は、ヨウ素剤を飲んでいた。彼らのために、郊外に専用の管理された農場で野菜や家畜が育てられた。
一刻も早く住民を移住させねばならないとモスクワに訴え出たら反ソ分子として刑事事件が起こされた。チェルノブイリ、これは犯罪史だ。

<同研究所技師>
食料品がむきだしのまま売られ、さらに、汚染されたものとわかっていても混ぜて売られた。もはや食料ではなく放射性廃棄物と知っていながら沈黙した理由は、共産党員だったから。わが国民は最高であると言う信念があり、命令には服従が当然だった。

<党地区委員会元第一書記>
体制の高い理想を信じていた。政治的利益が最優先され、パニックを許すなと命令されていた。住民を通りに出してはならないと言ったらメーデーをつぶしたいのかと言われ政治事件となる。市場への供出割り当て分を達成するため 、セシウム入りの牛乳を工場に運んだ。疎開、移住させられたあとも、ノルマ達成の農作業のために住民が連れてこられた。
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ひとつひとつの証言がそれぞれに衝撃的で一様ではない。しかしながら、根本的な構図は、福島の原発事故が引き起こした様相と似通っている。世界観の激変。情報の隠匿。打ち捨てられ、略奪にあった家々や残されたペット。チェルノブイリの汚染地域では、ペットを含め動物は次々と射殺されたということが違っているが。
以前の世界はなくなって苦悩だけが残った。人々は、何のために苦しんでいるのか。


『チェルノブイリ診療記』

d0007923_1502516.jpg菅谷昭著(2011年7月)。1998年に発行されたものの新版。副題「福島原発事故への黙示」。
著者は、信州大医学部での職を辞し、甲状腺外科の専門医として、1996年から2001年までベラルーシでNGOと協力しながら医療活動に従事した。チェルノブイリ事故で最も汚染されたベラルーシ・ゴメリ州(1㎡あたり1480キロベクレル(40キュリー)以上)などにおける甲状腺障害の増加を、住民に対する諸検査と合わせて科学的に検証し、甲状腺がんなどの治療にあたった記録である。

ベラルーシの小児甲状腺がんの患者数は、事故前の10年間は7名であったが、事故後の10年間では424名。当初、事故は伏せられていたため、人々は5月1日のメーデーのパレード練習をしたり森で遊びキノコを採って食べたりしていた。この地域の人々が事故を知らされたのは5月2日以降。その間に住民の内部被ばくが進んでしまった。

ベラルーシ一帯は内陸地のため、海藻に含まれるヨードの摂取が不足気味になる。甲状腺は無機ヨードを原料として甲状腺ホルモンを作る器官で、体は、不足しているヨードを例えそれが放射性ヨードであっても取り込んでしまい、放射線の内部照射でがんが誘発される。放射性ヨードの半減期は8日であり、事故直後から十分な無機ヨードを投与されていれば、小児性甲状腺障害は軽減されていた。菅谷氏によると、いまだに汚染地域では異常分娩や子どもの免疫能力の低下問題があるそうだ。

氏は、日本では廃棄されるような古い機材・機器を使うベラルーシの病院で、10年以上も遅れた手術形式を目にして戸惑う。職域分担が厳密に区分けされ、人繰りがつかなければその日の手術が当日急に中止になるといった、ソ連式の融通のきかない官僚的、不合理なシステムに憤る。診療実績(=手術件数)で病院に経費が配分されるため、ベルトコンベヤー式に患者が次々に短時間で手術が行われる。その結果、すぐ再発を招き、度重なる手術で合併症のリスクも負うことになる子どもたちのエピソードが痛ましい。経済状態の悪化が医療現場にもしわ寄せされており、スタッフの生活は苦しく、カジノでアルバイトするほうが稼ぎになる医者もいた。氏は、切れないメスを使えるように切れないナイフで食事して練習した。

「旧態依然の非民主的体制」にぶつかりながらも、氏は「ベラルーシの医療を何とかしよう」といった意気込みで突っ走るようなことはせず、「あせりは禁物」と同僚たちとの信頼関係を築きながら、自ら持つ技術(首のしわに沿ってメスを入れる傷跡が残らない甲状腺摘出手術)が認められるように努めた。手術を手がけた患者は750人。しかし、この本には、氏がベラルーシに伝えた手術に関する記述はない。

現在、松本市長を務める氏は、政府の福島第一原発事故対応について、放射性物質の拡散状況を公表しなかったことなど、初動の経過からは全く危機感を感じることができず、国民の立場でものを考えているとは思えなかったと記し、「大切なのは、事実を伝えること」と訴える。福島の事故が収束しないなか、氏が予感した「第2のチェルノブイリ」説は決して非現実的ではないと感じられる。
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# by itsumohappy | 2011-10-30 15:12 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)