ロシアが気になる

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2008年 06月 29日

A・アダーモビチ他 『封鎖・飢餓・人間』

二人の作家(アレーシ・アダーモビチ、ダニール・グラーニン)のインタビューによる、レニングラード攻防戦を生き抜いた市民の体験記録(新時代社、1986年)。

1941年6月22日、ドイツは、独ソ不可侵条約(1939年8月)を破ってブレスト要塞を電撃攻撃し、独ソ戦(大祖国戦争)が始まった。最初の3週間で100万人のソ連兵が犠牲となり、2ヵ月後にはヨーロッパ・ロシアの過半がドイツに占領された。ソ連の犠牲者総数は、4年間で3,000万人と言われる(日本の場合、大戦の犠牲者はおよそ300万人)。
 
ドイツ軍は、41年9月半ばにレニングラードへの陸上交通を、11月上旬には隣接するラドガ湖の海上交通を遮断し、レニングラードを完全包囲した。包囲期間は、44年1月までの約900日に及び、130~150万人の兵士と民間人が死んだ。この本の解説によれば、このうち約64万人が餓死。砲撃による死者は1万7000人で、15万個以上の砲弾と10万個以上の爆弾が市内に降りそそぎ、市の大半が破壊された。

聖イサク寺院に残されているドイツ軍砲撃の跡
d0007923_21324921.jpg41年は、大寒波にも見舞われ、10月から42年4月にかけて多くの餓死者が出た。著者は、「大量飢餓という殺人兵器について書き記さないことは、原爆の存在を忘れ去ることに等しい」という思いで、生き残った人々の証言をまとめた。現代ロシアでも包囲戦の記憶は薄れつつあり、関心を持たない者が増えた、とある。工場での勤労体験と異なり、包囲下での私生活は、「苦痛を伴うつらい思い出」であるため、語りたがらない人が多かったそうだ。 

配給された食糧は、おがくず混じりの水っぽいパンでそれ以外のものはほとんどなかった。最も少ない時で、労働者1日250g、事務職員125g。追いつめられた人々が食べたのは、犬・猫・カラス、薪、草、土、油粕、ベルト、服、毛皮のコート、靴、壁紙や本から削った糊等々。しかし、「過度の独創性は破滅のもと」で、からしのパンケーキ(さらしたからし粉を溶いて作った)で死ぬ人もいた。延命効果があったのは、針葉樹の葉からとったエキスだった。

飢えて無感情となった人々は、見た目に老若男女の区別もつかず、体に荷物を括りつけて「スローモーションのビデオ」のように動いた。死は静かに、そして突然訪れ、会話をしていた人が、次の瞬間にはこときれた。最初に死んだのは男性。女の子は比較的持ちこたえた。そのような極限状態のなかでは、人間性の「分極化現象」が起き、「すべての人間的感情や資質は、最大の試練にさらされた」。つまり、他人を犠牲にしても生き延びようとする人と最後まで他人を助け、分かちあう人とに分かれた。

市民が描いた絵(エルミタージュ宮殿付近:下巻110頁より)
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41年11月から、ラドガ湖横断の氷上道路(「生命の道」)ができ、食糧事情が多少改善したが、翌年春までの期間に多くの餓死者が出た。零下30度の中、衰弱し、転んで立ち上がれない人々はそのまま凍死するしかなかった。

最も印象的かつ意外だったのは、飢餓状態なら、できるだけ動かずにいるのがベストと思うがそれは全くの間違いである、と語る体験談。正常な人間の生活のリズムに似たものを作る、つまり、部屋の中を歩き、掃除をし、スプーンを使って食事する、といったことで生き延びた人が多かった、というのである。惰性な生活に落ち込むのは間違いで、「人間的存在」である者が生きた。

この本は、人々の体験の聞き書きに徹し、悲惨な生活に追い込まれた原因の分析にはあまり触れていない。ドイツ軍の侵攻で緊迫した状況下でも254万人が疎開せずに市に残った。「愛国心が破滅の原因となった」とあるが、それだけではないだろう。

44年1月、レニングラードはソ連軍により完全開放され、45年、同市はソ連で最初の「英雄都市」となった。
(参考:2008年6月22日ロシア・トゥデー、『ロシアを知る事典』平凡社(2004))

  サンクトペテルブルクの戦勝広場。ドイツ軍の前線だった場所
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by itsumohappy | 2008-06-29 18:17 | 文学・本 | Trackback | Comments(4)
2008年 06月 22日

ロシア・アヴァンギャルド展

「青春のロシア・アヴァンギャルド シャガールからマレーヴィチまで」(Bunkamuraザ・ミュージアム(渋谷・8月17日まで))の感想です。

d0007923_16561144.jpg日本初公開である、モスクワ市近代美術館所蔵の30作家・70作品の展示会。1999年に開館した同美術館のコレクションは、館の総裁で、ロシア美術アカデミーの総裁も務める彫刻家ツェレテリ氏が、海外から買い戻した収集品が主体となっている。

20世紀初頭、ロシア民衆芸術は、フォービズム、キュビズムに影響を受け、「ネオ・プリミティズム」が生まれた。農民などがモチーフの素朴な平面表現+抽象表現は、やがて「立体未来派」の作品に見受けられた。さらに、幾何学的抽象を追求するマレーヴィチが、「スプレマティズム」を発表した。展示会はこの流れに沿って構成されている。

紹介されていた主な作家は、シャガール、ラリオーノフ、ゴンチャーロワ、ブルリューク、アニスフェリド、マレーヴィチ、プーニら。
はじめのほうはピカソ、セザンヌ、ゴーギャンの影響を受けたと思われる絵画が多い。ロシア・アヴァンギャルドの中心人物、マレーヴィチの創る人物は面白い。再現性を否定し、理論・理念に基づく絵画である。
グルジアの放浪画家、ピロスマニの絵が多く展示されていた。20世紀プリミティブ芸術家の一人だそうだ。鑑賞するのははじめて。遠近のない、素朴でへたうま風の作品は、何となくルソーの絵のようだった。

解説によると、ロシア・アヴァンギャルド芸術は絵画のみならず、詩、演劇、映画、デザイン等幅広いジャンルで、時には連携しながら進められた革新運動だった。しかしながら1920年代以降、抽象絵画は「個人的」と批判された。1932年、スターリンは、全ての芸術団体の解散を命じ、「社会主義リアリズム」が唯一認められた「芸術」となった。
展示会の謳い文句、「青春の・・・」は、実際は「悲劇の・・・」のほうが似つかわしいような。
ロシア・アバンギャルドの画家の多くは亡命している。マレーヴィチは、普通の具象絵画に回帰(回帰するしかなかった)。最後のコーナーにあった自画像が「終焉」を物語っていた。

余り見たことのないロシア・アバンギャルドの作品。ロシアものはだいたい見学者が少なく、初日なのにじっくり観ることができた。次はどこかで、文学・演劇等も交えた総合的な紹介展示をしてくれないかしら。

展示会は、東京のあと大阪、岐阜、埼玉を巡回。Bunkamuraでは、次はミレイ、ワイエス展と続いた後、来年の4月、国立トレチャコフ美術館展を開催。「見知らぬ女」来日予定です!

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モスクワ市近代美術館

d0007923_16584448.jpg1959年に米国から帰国したフルシチョフは、現代美術館の建設を命じた。デミチェフ文化大臣に呼び出されたツェレテリ氏(当時ソヴィエト科学アカデミー歴史・民俗学研究所に所属)は、「現代美術にはシャガールやブルリュークなど国を去った芸術家達が必要である」と応え、計画は頓挫した。1997年、ツェレテリ氏がロシア美術アカデミー総裁に就任後、美術館建設構想が本格的に始動した。
(美術館のサイトより)
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by itsumohappy | 2008-06-22 17:02 | 展示会 | Trackback | Comments(10)
2008年 06月 18日

ドストエフスキー 『悪霊』 

ぼくらは、気が狂い、悪霊に憑かれて、岸から海へ飛びこみ、みんな溺れ死んでしまうのです。それがぼくらの行くべき道なんですよ。
      (『悪霊』よりステパン・ヴェルホヴェーンスキーのせりふ)



d0007923_22294456.jpgドストエフスキーの描く悪が多彩で、病んだ気分に最高であり、また最悪でもある小説。『悪霊』を読んで、気分爽快になれないことは予想できるのに、ふとある日、そういう長編を読んでみようと思うのはなぜだろう。前半、本筋なのか?という話が延々続き、第一部(全体の3分の1程度)が終わる頃にやっと主人公らしき者が本格的に登場するし、例によってロシア人の名前にも悩まされるし。傍流と思われるところで足踏みして油断していると、肝心なところで場面がいきなり急展開するし。なかなか読み通すのが大変である。

『悪霊』には、卑劣、陰惨、傲慢、凶暴といった様々な悪が登場する。平凡で純粋な、そして善良な人々は、「屑のような連中」にやすやすと騙され、つけ入れられ、混乱に陥れられる。最悪、なぶり殺されてしまう。悪を何故見抜けなかったか、カオスの本質が何であったか誰にもわからない。(現代でも似たようなことが起きている!)
スタヴローギンがこの小説の主人公とされているが、出番が比較的少なく、相当な悪党のわりに描き方があっさりしている。むしろピョートル・ヴェルホヴェーンスキーが悪霊のスタンスを明確に語る。以下、ピョートルの言葉より引用。

この世界に不足しているのはただ一つ-服従のみですよ。・・・家族だの愛だのはちょっぴりでも残っていれば、もうたちまち所有欲が生じますしね。ぼくらはそういう欲望を絶滅するんです。つまり飲酒、中傷、密告を盛んにして、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺してしまう。いっさいを一つの分母で通分する-つまり、完全な平等です。


この人物(秘密結社の首領)は、「われわれ支配者」のもとに全員が奴隷であり、高度な能力を持つものは処刑されるのだと語る。

『悪霊』が出版された1870年代は、ナロードニキ運動(インテリ学生活動家の農民に対する革命思想の啓蒙活動)の高揚期。しかしながら、同運動は成功せず、反政府活動は急進化した。1866年に、カラコーゾフによるアレクサンドル2世暗殺未遂事件が起きており、その後も皇帝暗殺の試みは繰り返された。皇帝専制に対する反動が増していく不穏な時代である。

ドストエフスキーの創造を、気味の悪い予言として現在は読むことができるが、出版当時は、「悪霊どもが溺れ死ぬ」設定であるため、危険な小説とはみなされなかったのだろうか。
仲間を「総括」する場面での、各メンバーのリアルな描写(まるでその場にいたかのような)、スタヴローギンの悪を看破する狂人、とことん無力な善人の突拍子もない行動等々が印象に残る、毒気の多い小説である。

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●『悪霊』
月間文芸誌『ロシア報知』に1871年~72年にかけて連載された(「スタヴローギンの告白」の章の掲載が見送られて中断した期間をはさむ)。この、ドストエフスキーが「悪霊が豚の群れに入った物語」と呼んだ小説は、ネチャーエフ事件に取材したもので、タイトルは、ルカによる福音書(第8章:32-36節;マタイ、マルコ福音書にも類似の話がある)からの引用(聖書では「あくれい」)。
ドストエフスキー作品は、スターリン時代、『貧しき人々』など一部を除き大半が発禁だった。スターリン批判(56年)後、70年代にかけて全集が発行された。

アンジェイ・ワイダ監督が映画化(1988年フランス)し、日本でも公開された。
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●ネチャーエフ事件 
1869年11月(露暦)。急進主義的革命家でペテルブルク大聴講生、ネチャーエフが結成した秘密結社「人民の裁き」の内ゲバ殺人事件。ネチャーエフは、結社のメンバーであるペトロフスキー農大生イワノフを、密告のおそれがあるとして同大構内で仲間とともに殺害した。レンガに括り付けられてモスクワ郊外の池に投げ込まれた死体が浮上し、事件が発覚した。
ネチャーエフは、無政府主義者バクーニンともつながりを持ち、地方でテロ活動を展開し、農民の反乱を起こす計画を持っていた。ペテロパブロフスク要塞で獄死した。


【参考】
2006年5月21日 北海道新聞
『ロシアを知る事典』平凡社(2004)
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by itsumohappy | 2008-06-18 22:46 | 文学・本 | Trackback | Comments(4)