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2008年 05月 31日

A・ジッド 『ソヴィエト紀行』・『ソヴィエト紀行修正』


  「人々が希望していたのはこれではない。もっと徹底した言い方をすると、
  人々が希望しなかったことこそ、まさにこれなのだ。」(『ソヴィエト紀行』より)


d0007923_2156478.jpgアンドレ・ジッド(1869-1951)(右)は、1936年6月、病床のゴーリキーを見舞うためモスクワを訪れたが、モスクワ到着翌日にゴーリキーは死去し、面会はかなわなかった。ジッドは、赤の広場で行われたゴーリキーの葬儀で追悼演説を行い、その後、フランス人文学関係者たちと共にモスクワ、レニングラード、セバストポリを周って、文化施設、社会各層の事情を見聞した。8月にフランスに帰国後、まもなく発表されたのが『ソヴィエト紀行』である。同書は、数週間のうちに10万部以上を売り上げ、ジッド67歳にして初のベストセラー本となった。

反響が大きかったのは、それまで、ソヴィエト及び共産主義に対して大きな希望と期待を表明していたジッドが、一転してソ連の内実を批判する「裏切り」の本を書いたためである。ジッドは、ソ連はもとよりロマン・ロランをはじめとするフランス左翼陣営からの非難を浴びた。

ジッドがソ連を訪れたのは、キーロフ暗殺(1934)をきっかけに始まる大テロル前夜。ジノヴィエフ及びカーメネフのモスクワ裁判事件(1936年7月。反スターリン派であった二人はでっちあげの裁判の結果、銃殺された)が起きた頃だった。

ソ連に対する愛情を賞賛のみに限定せずに、十分調査行う、という立場で旅行を終えたジッドは、「経験したことのない苦悩」をもって『ソヴィエト紀行』を著した。そのなかで、一切の批判が許されないソ連の体制は、恐怖政治への道であり、「ヒトラーのドイツであってさえこれほど隷属的ではないだろう」と切り捨てた。

また、「批評が行われない社会では、文化は危険に瀕する」と指摘し、いかに天才的芸術家であろうと、「線内」から外れれば「形式主義」として糾弾される状況を危惧した。
加えて、スタハノフ運動(生産性向上運動)を引き合いに、大衆の無気力さ、呑気さを指摘。工夫も競争もない状態で物は不足し、「貧乏人を見ないために来たのに貧乏人が多すぎる」社会に幻滅した。

1937年、ジッドは『ソヴィエト紀行』への批判を受けて、『ソヴィエト紀行修正』を発表した。「修正」といっても訂正ではなく、前作で語りつくせなかったことを加えて、スターリン体制への批判をいっそう強めた内容である。

旅行中に受けた豪奢な接待が、ジッドに却って特権と差別を想起させた、という部分が印象に残った。かつて『コンゴ紀行』(1927)で、原住民を搾取するフランス植民地行政を告発したジッドであるから、厚遇を受けようが惑わされない。
ジッドは、『ソヴィエト紀行修正』で、ソ連では最も価値ある人々が密告により殺され、最も卑屈なものが迎えられており、プロレタリアは愚弄されている、フランス共産党は欺かれたと気づくべき、と言い切った。

両書とも『狭き門』等と違って書店では見かけない。私が読んだのは『ジイド全集 第10』(1958)で、根津憲三と堀口大学の訳。

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d0007923_21583797.jpgマクシム・ゴーリキー(1868-1936)は、レーニンと対立して国を離れていたが、スターリンの招きにより、33年帰国した。強制収容所の囚人を動員した白海・バルト海運河建設を礼賛する(そのように仕組まれたと言われる)など、スターリンの意に沿っていたが、次第にスターリンと不和を来し、NKVD(内務人民委員部;KGBの前身)の監視下に置かれた。34年、ゴーリキーの息子マックスが何者かに殺害された。ゴーリキーは、36年には、スターリン体制の告発を考えていたとされる。インフルエンザを悪化させて瀕死のゴーリキーが、ジッドにそのような告発を伝えることをスターリンは怖れた、という。ゴーリキーは、いったん快方に向かっていたが、(なぜか)容態が急変し、ジッドと会えぬまま死去した。

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共産主義に対する支持を表した当時の西側知識人は、バーナード・ショー、H・G・ウェルズ、ルイ・アラゴン、アンドレ・マルロー、ロマン・ロランら。
1930年代半ば、ナチスのラインラント進駐、スペイン内戦勃発など、ファシズムが台頭するなかで、ソ連への共感を持つ知識層が少なからずいた。
ロマン・ロラン(1915年ノーベル文学賞受賞)は、35年にモスクワを訪問した。スターリン体制を見る眼が曇っていたのは、ロラン夫人(ロシア人)がNKVDの秘密工作員であったため、とする説がある。

ジッドは、1947年、ノーベル文学賞を受賞した。その際、スウェーデン王立アカデミーは、「コンゴやソヴィエトへの紀行だけをみても、文学の世界のみに安住しなかった証左といえる」と称えた。

【参考】
『ロシアを知る事典』平凡社(2004)
亀山郁夫『大審問官スターリン』小学館(2006)
ノーベル財団のサイト
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by itsumohappy | 2008-05-31 22:11 | 文学・本 | Trackback | Comments(13)
2008年 05月 18日

最近の話題から

最近の報道からロシアに関する話題を紹介します。

●アブハジア問題を巡りロシア・グルジア関係が緊張
国内に事実上の独立地域(アブハジア及び南オセチア)を抱えるグルジアと同地域を支援するロシアとの対立が高まっている。
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2008年4月、アブハジア上空を飛んでいたグルジアの無人偵察機をロシアが撃墜したとされる事件後、ロシアは、アブハジア支援のため同地に派遣している平和維持部隊を、2000人から3000人に増強した。グルジアは、主権の侵害であるとロシアを非難した。

アブハジアは、5月13日までにグルジアの偵察機を7機撃墜したと発表。グルジアは、失ったのは1機のみと反論している。
ロシアが、空軍基地をアブハジアに置くという報道は、ロシア軍当局によって否定された。

ロシアとの「国境」には大コーカサス山脈が走るd0007923_14102461.jpg
ウクライナとグルジアの将来的なNATO加盟が、4月のNATO首脳会議で合意されたことが、ロシアを刺激していると伝えられている。

一方、親米路線のサーカシビリ・グルジア大統領は、アブハジアと南オセチアの自治権拡大を主張し、これら地域との戦争は望んでいないとしている。
90年代初めより続いたグルジアとアブハジアの紛争は、94年に停戦し、現在、兵力引き離しのための国連グルジア監視団が展開中である。
【4月17日・23日毎日、5月1日朝日新聞、5月13日ロシア・トゥデー、5月15日RIAノーボスチより】

●カルトメンバーの洞穴立てこもり事件が終結
モスクワの南東約550kmにあるペンザ州ニコルスコエ村で、「最後の審判」に備え、地下に穴を掘って立てこもっていたカルトのメンバーの最後の9名が、5月16日、穴から退去した。洞穴で、病死及び餓死した女性二人の遺体を当局が引き上げた直後だった。

カルトの施設の一部(2007年11月18日 
撮影DARIO THUBURN/AFP)
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当初、子供を含む男女35名が、2007年11月から立てこもっていた。彼らが「世界終結の時」と信じる今年の5月までの予定で、当局が強引に退去させるならば自爆するとしていた。マイナス15度にもなる冬を越したが、雪解け水が流れ込んだため、24名は既に穴を出ていた。

統合失調症歴のある自称預言者で、このカルトの教祖クズネツォフは、4月、穴のなかで自殺を図って病院に運ばれ、現在、暴力的な宗教団体を設立した罪で起訴されている。クズネツォフは、「真のロシア正教会」を率いてロシア全土及びベラルーシから信者を集めた。信者には、TVやラジオを禁止し、お金に触れることも許さなかったという。
【2008年5月16日ロシアトゥデー、APより】

●チェチェンの宗教指導者、「花嫁略奪」の根絶を訴える
チェチェンのムフティ(イスラム法にのっとり判断を下す資格のある指導者)、ミルザエフ師は、5月6日、コーカサス地方で数世紀にわたって行われている「花嫁略奪」の行為は、イスラム法やチェチェンの習慣に反するため根絶すべし、と表明した。

「花嫁略奪」は、女性を誘拐して花嫁にしてしまうコーカサスの「伝統」で、正確な統計はないが、人権団体によれば、同地で毎年数千人の女性が、その意思に反して結婚させられているという。チェチェンのほかダゲスタン、イングーシ、グルジア、アルメニアなどに残っている習慣で、オスマン・トルコが支配した時期に始まったという説がある。

持参金・結納金を双方の家族が払わなくてすむよう、あらかじめ計画の上で行われることは珍しくない。結婚を周囲に反対され、女性が自分をあえて「誘拐」させるケースもある。
【2008年5月6日RIAノーボスチ、2007年10月18日モスクワ・ニュースより】

●先住民族としての認定を求めるアイヌ団体
カムチャツカの団体「アイヌ」のアレクセイ・ナカムラ代表は、現在、アイヌを先住民族として認めるようロシア政府に求める運動を行っている。ロシア政府が、カムチャツカの先住民族として公式に認めている6民族にアイヌは含まれていない。

ナカムラ氏の一族は、かつて千島に住み、日本姓を名乗っていた。1945年のソ連の千島侵攻後に、サハリン、60年代にはカムチャツカに強制移住させられた。戦後、ソ連は、サハリンや千島に住んでいたアイヌ民族を日本人として扱っていたため、アイヌ民族として生きる権利は奪われた。

日本国内では、今、アイヌを先住民族として認め、その権利を尊重するための、超党派による国会決議が検討されている。
【2008年5月9日北海道新聞、2008年5月15日朝日新聞より】

●レンフィルム90周年
ロシアの名門映画制作所、ペテルブルクのレンフィルムが、5月4日、創立90周年を迎えた。レンフィルムの敷地は、もともとレストランなどを経営していた商人の庭園・劇場だった所。バレエ「くるみ割り人形」公演のため、チャイコフスキーがゲストとして訪れた劇場の部分は、現在レンフィルム第4ステージとなっている。1908年、私営フィルム・スタジオができたが革命に伴い、国有化された。

レンフィルムのロゴはピョートル大帝
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ここで、エイゼンシュテイン、マヤコフスキー、ザミャーチンらが映画制作に関わり、また、初の米ソ合作映画『青い鳥』(1976年)が作られ、話題を呼んだ。これまでに約1,500本の映画が制作されている。

現在、建物が老朽化した古い国営映画制作所を民間に売却することが、政府内で検討されており、レンフィルムもやり玉に上がったが、ペテルブルク市当局の要請で延期された。
ロシアで一番歴史あるゴーリキー・スタジオは年内に売却される予定である。
【レンフィルムのサイト、2008年4月30日RIAノーボスチ、5月7日モスクワニュースより】

●ポリトコフスカヤ記者暗殺の容疑者、現在も逃走中
d0007923_1302298.jpg2006年10月に射殺されたロシアのジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ記者を射殺した容疑で、ロシア検察当局により、34歳のチェチェン人、ルスタム・マクムドフが、国際刑事警察機構(インターポール)の捜索リストに載せられた。同容疑者の兄弟も、ポリトコフスカヤ記者暗殺事件に関わっているが既に逮捕されている。

ポリトコフスカヤ記者のいた『ノーヴァヤ・ガゼータ』紙は、当局の努力を評価する一方、射殺の依頼人も逮捕・訴追することを求めている。この事件を巡りこれまで9人が逮捕されたが、現在のところ暗殺を命じた中心人物は全く不明である。
容疑者たちは、いずれもチェチェンのギャング団との関係が取りざたされている。
【2008年5月14日ロシア・トゥデーより】

●プーシキンの子孫たちが来年モスクワに集合

プーシキンの肖像(キプレンスキー画/
トレチャコフ美術館)
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アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)の生誕210年にあたる来年、世界中のプーシキンの子孫たちが初めてモスクワに集まり、国際的な会合を開く予定。若い世代に、よりプーシキン時代の歴史文化に親しんでもらうことを主な目的としている。現在、250名以上の子孫がおり、その多くは英国に住んでいる。なかには、英王室とのつながりがある親族もいる。プーシキンに最も近い存命の子孫は、ブリュッセル在住の曾孫である。
【2008年5月7日 RIAノーボスチより】


●ナボコフ未完の小説、出版へ
小説『ロリータ』の作者、故ウラジーミル・ナボコフの遺作である、‘The Original of Laura’(未完)の出版を、ナボコフの息子ドミトリー・ナボコフ氏が決断した。ナボコフは、1977年に死去する直前、この原稿を廃棄するよう遺言していたが、遺言は執行されないまま、原稿はスイスの銀行に預けられていた。

原稿は、ナボコフ自筆のインデックス・カード約50枚から成る。ナボコフは、執筆の際、インデックスカードを活用していたが、最後の小説のため書かれたカードは、ばらばらのまま順番になっていなかった。
このカードの形のまま出版されることが予定されている。読者はいかようにも並べ替えて読むことができる。
【2008年4月28日RIAノーボスチより】

モントルー・パレス・ホテル前のナボコフの銅像。ナボコフは死去するまで
同ホテルに16年住んでいた(写真/Moscow Times)

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by itsumohappy | 2008-05-18 13:13 | ロシア | Trackback | Comments(2)