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2008年 04月 30日

北方領土返還交渉の経緯

4月25日、福田首相は、プーチン大統領の招待を受け訪ロした。翌日の日ロ首脳会談において、東シベリア油田の日ロ共同開発、北方領土問題交渉の継続などが確認された。首脳会談後、5月7日に就任するメドベージェフ次期大統領との会談も行われた。

会談が行われたモスクワ郊外の大統領公邸
d0007923_17442397.jpg北方領土(歯舞・色丹・国後・択捉)の問題は、今、どれだけ関心が持たれているだろう。これについて、当ブログで何度か書いているので(ロシアとの領土問題 日ソ国交回復50周年国後島・択捉島上陸記)、多少重なりますが、新政権との交渉が始まる節目の時期ということで、経緯等についてごくごく簡単にふれます。
  
【現在の日本の主張】
ロシアは、日本固有の領土である北方領土を不法占拠している。
四島は対日平和条約(1951年。サンフランシスコ平和条約)で日本が放棄した千島列島には含まれない。
四島の日本への帰属を確認後、平和条約を結ぶ。

【現在のロシアの主張】
四島の領有は第2次世界大戦の結果であり、国際法上の根拠がある。
日ソ共同宣言(1956年)の法的効力は認める。

これまで、プーチン大統領は、「「日ソ共同宣言」に基づき決着させる用意がある」とも「四島はひとつも返さない」とも発言しているが、この度の首脳会談で表明した、「平和条約の締結を目指すため、北方領土問題の交渉は継続する」旨の方針は変えていない。大統領は、かつて、四島領有の法的根拠として、ヤルタ協定、ポツダム宣言に言及したことがある。

    現在の国後島(07年5月)。古釜布の町と爺爺岳
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    地熱発電の工事。ロシア政府によるインフラ整備の一環。後ろは羅臼岳
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【千島の定義は不明】
そもそも対日平和条約で、日本が放棄した「千島列島」の範囲及び日本が放棄した後の「千島列島」の帰属先が規定されなかったことが問題を複雑にした。
これについては、米国の策略が背景にあるとする説が多い。即ち、冷戦の始まりのなかで、日ソ間に紛争の種をあえて残し、両者の接近を防ごうとした、というもの。なお、米国は、ソ連が対日平和条約への調印をボイコットすることを予想していた。
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      (図:外務省「われらの北方領土」より作成)

【返還交渉の推移】
●敗戦後~日ソ国交回復交渉前まで(1945~1954頃)
独立回復前の日本では、領土交渉どころではなかった。
ただし、吉田首相の対日平和条約受諾演説にあるような「ソ連による択捉などの占領は不当」という主張はあった。
当時は、対日平和条約における千島の範囲に関する日本政府の見解はまだ確立されていない。「千島とは「北千島」と「南千島」(国後・択捉を指す)」という内容の政府の国会答弁がある。

●日ソ国交回復交渉(1955~1956)
国連加盟とシベリア抑留者帰還を実現させるため、ソ連との国交正常化交渉が開始された。
日本政府の領土交渉方針は、当初「歯舞・色丹」の返還要求だったのが、途中から「国後・択捉」をも含めた要求へと変化。結局、領土問題の解決は棚上げされた。日ソ共同宣言で、歯舞・色丹は、平和条約締結後、日本に引き渡すことが規定された。

●ソ連崩壊前まで(~1991)
日米安保条約調印をきっかけに領土交渉は後退し始めた。やがて、ソ連は、「領土問題は解決ずみ」「領土問題は存在しない」とした。日本政府の方針は「政経不可分」。領土交渉の進展なくして経済関係を深めることはできない、という立場をとった。

●現在まで
ロシアとの交渉のなかで、各種政治文書(外務省のサイト参照)が作られた。
日本政府は、領土返還に向けて様々な具体的提案を行ったとされるが(注:領土交渉の詳細に関する外交文書は公開されていない)、結局のところ、

◎ソ連は領土問題の存在を認めた。
◎日ソ共同宣言が交渉の出発点として合意された。

というのが、実質的な成果。つまり、今に至るまでロシアは、日ソ共同宣言の内容を超える譲歩はしていない。日本政府は、対ロ政策を「拡大均衡」「重層的アプローチ」等々の方針に転換してきた。要は、以前と違って、領土交渉を進展させるために経済関係も重視しましょう、ということ。現在は「日露行動計画」(2003)に沿った外交を展開している。シベリアやサハリンのパイプラインの話はこの計画にある。

【今後の交渉】
日本政府は、北方領土問題の解決をサミットで取り上げたり、国際司法裁判所に持ち込んだりすることなく、ロシアとの直接交渉により行うとしている。日ロともに方針を変えなければ何十年かけても領土交渉は前進しない。ロシアが譲歩するまで百年単位で交渉を続けよという論調もあるが・・・。
今となっては、平和条約がなくとも四島がなくとも致命的に困らない(たぶん)ことが、領土問題解決を長引かせているゆえんか。

        択捉島
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        旧「紗那郵便局」。択捉島に残る日本時代の建物
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<その他>
【「北方領土」という言葉】

国会図書館の「国会会議録検索システム」(戦後最初の国会(1947)から検索可能)で「北方領土」を検索すると、外務省条約局長の「・・・講和会議では、日本政府の希望するような北方領土の定義は下されませんでした。」という答弁(1956)が最も古い。
「四島は、千島に含まれない日本固有の領土」という見解については、池田首相の国会答弁(1961)で初出する。なお、混乱を来たす「南千島」という用語は公文書で使用しないことが省庁に通達された(1964)。

【返還運動の始まり】
四島の返還をはじめて訴えたのは、当時の北海道根室市長がマッカーサー司令官に行った陳情(1945)という。

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(参考)
・2006年2月1日読売、2008年4月27日朝日、北海道、産経新聞
・長谷川毅『暗闘』(2006年 中央公論新社)
・和田春樹『北方領土問題 歴史と未来』(1999年 朝日新聞社)
・原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点―アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」―』(2005年 溪水社)
ほか
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by itsumohappy | 2008-04-30 00:54 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2008年 04月 20日

ラジンスキー 『アレクサンドルⅡ世暗殺』

d0007923_2222052.jpgエドワード・ラジンスキー(1936-)は、ソ連時代は劇作家として活躍し、今は「歴史ドキュメンタリー小説」で有名な作家だそうだ。『アレクサンドルⅡ世暗殺』は、これまでラジンスキーが「ロシアの悲劇」シリーズとして、ラスプーチンやスターリンらロシア史を転換させた人物を扱った一連の作品群における最終作に位置づけられている。

著者は、アレクサンドル二世(1818-1881)の時代に生まれたロシア式テロリズムは、20世紀のテロリズムの先駆けであると主張している。最近ロシアでは、この皇帝の時代に対する関心が高まっているらしい。

アレクサンドル2世の曽祖父母(ピョートル3世、エカテリーナ2世)の時代には、世の中が「下から上まで全てが奴隷」である状態が確立され、民衆は常に恐怖心にとらわれていた。本書の前半では、そのような沈黙と忍耐を強いる社会が形成された過程が概説されている。

本書の後半は、テロの発祥から始まる。皇帝の専制に対する反動は、デカブリストの乱などを経て、1860年代後半になると学生紛争の形をとって現れた。農奴解放(1861)等近代化政策の一方で、秘密警察による思想統制に見られるような専制政治の温存はやがて、「皇帝は労働者の手にかかって死ななければならない」という過激派を生むことになった。

1870年代、公平な社会の実現を目指すナロードニキによる民衆への教化運動は、農民の支持を得られず、理想主義的な運動に代わってテロリズムが登場。発明されたばかりのダイナマイトを使用して、列車や宮殿を爆破するなど何度も皇帝に対するテロ事件が起きた。結局7度目の攻撃でアレクサンドル2世は暗殺された。

本書には、ドストエフスキーに関するエピソードも多い。
「純真無垢な若者たち」が、皇帝暗殺の計画にとらわれてテロを生み出し、時には地下組織の中で互いを監視しあうという、陰惨な社会のはじまりを見聞していたドストエフスキーは、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』を著した。ドストエフスキーの隣室では、テログループ「人民の意志」のメンバーが住み、皇帝の馬車を爆破するべく建物の地下を掘っていた。ドストエフスキーはその物音を聞いていただろう、とラジンスキーは推測している。

アレクサンドル二世が暗殺されても、専制体制の維持に変わりはなく、憲法制定への道は閉ざされたままだった。ラジンスキーは、「歴史の根本的な教訓は、人々は歴史から何の教訓も学ばないことだ」という警句を引き合いに、のちに悲劇的な最期を迎えるロマノフ王朝は、歴史の曲がり角で何度も間違った道を歩んだ、と記している。

私には本書がはじめて読むラジンスキー作品だった。この作者の「歴史ドキュメンタリー小説」は、史実と周辺のエピソードを組み合わせ、時に謎解き・推理も行うという、歴史書とは若干異なるスタイルである。様々な話題が交錯する上、上下2巻でボリュームもかなりあるため、流れがわかりにくい。近代ロシア史をざっとおさらいしてから読むといいかもしれない。

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サンクト・ペテルブルグの「血の上の教会」。アレクサンドル2世を弔うため建設された。左下のグリボエードフ運河(エカテリーナ運河)にかかる橋付近が皇帝暗殺の現場。
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by itsumohappy | 2008-04-20 22:35 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)
2008年 04月 09日

スタインベック&キャパ 『ロシア紀行』

d0007923_21384222.jpgジョン・スタインベック(文)とロバート・キャパ(写真)によるロシア旅行記録。二人の、1947年8月から2ヶ月間にわたるウクライナやグルジアへの旅行記は、ヘラルド・トリビューン紙(スタインベックは同紙にこの企画を持ちかけた)に48年1月から連載された。『ロシア紀行』はその連載をまとめたものである。訳者の解説によると、出版当時、米国では、「見たものを見たとおりに報告しているだけの内容」でどちらかと言えば失敗作、との評価が優勢だったそうだ。

読んだ感想を先に述べれば、特別な大事件も何も起きないけれども、田舎でも都会でも見たままの印象が、率直に語られているからこそ却って興味深かった。スタインベックが、両国の作家の社会的地位や役割の比較分析をしている箇所も面白い。ソ連では作家は人間の魂の建築家(スターリンの言)で、体制を賞賛するものであるが、アメリカで作家が「軽業師のちょっと下かアザラシのちょっと上くらい」の地位なのは、社会の不正を攻撃する存在ゆえなどと述べている。

二人が旅行した時代は、チャーチルの「鉄のカーテン演説」(1946年3月)後の冷戦がまさに始まった頃。キャパがソ連への入国申請を繰り返しても許可が下りなかった一方で、スタインベックはロシア語訳でもベストセラーになった『怒りのぶどう』で親ソ的であると見られたため、ビザがすんなり下りた。スタインベックは、「カメラマンはソ連にもいる」としてキャパの入国を渋るソ連当局を、「ソ連にキャパはいませんから」と説得し、二人の訪ソが実現した。

旅行の目的に関しては、「ソ連について幾千もの言葉が全て実際に行ったことのない人たちに書かれている」ので「写真で裏づけをした、てらいのない純然たる報道の仕事」をするため「アメリカの場合と変わりはないはずの」民衆の私生活を取材するのだと記している。

本書によると、当時のソ連では産業や人口に関する数字の漏洩は軍事情報の漏洩に等しく、知ることのできるのは「対前年比」だけ。また、西側メディアの正規の特派員は、モスクワ地区を出られず、一般人家庭の訪問も許されず、記事は検閲されている状況だった。

スタインベックらは、旅行にあたり公的な資格を得ることは避け、「全ソ連対外文化交流協会」のアレンジで写真撮影の許可を得て、キエフ、スターリングラード、トビリシ(トビリシ郊外にスターリンの生地がある)等を訪問した。そうは言っても「カメラに対する恐怖」で撮影が許されないこともままあり、「ここで2枚の写真を撮るだけで何千と言う言葉でも言い尽くせないものを見せることができるのに」とキャパが嘆き悲しむ部分がある。

戦争の傷跡が深く残るウクライナ(ニューヨークからカンザスまでの広さに相当する地域がことごとく破壊され、当時の米国人口の15%に当たる600万人の民間人が犠牲となった、とある)の農村で、人々が、平和な生活を取り戻すため、将来に希望を持って必死で働く姿が心に残る。

二人は行く先々で歓待を受けているが、いちいちモスクワに戻らなければ地方に行くことができないため、移動にまつわるトラブルにもあれこれ見舞われている。トラブルを起こす「グレムリン」(飛行機のエンジンなどに故障を起こさせる見えない魔物)が大活躍する描写がユーモラス。

スタインベックの、ロシア庶民を見る眼があたたかい。一方で、街中にあるスターリンの巨大な肖像画やクレムリン宮殿の宝物には、権力者の悪趣味を感じとって、辛らつな感想を述べている。

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d0007923_21421635.jpg私が読んだのは、スタインベック全集14(大阪教育図書)。品切れで、図書館ならあるかもしれない。邦訳単行本は1940,50年代のものしかないもよう。

キャパが撮影したフィルムは4,000本近くで、本に掲載された写真は69枚。ソ連出国時、ドイツ人捕虜や病人の写真など一部は取り上げられたが、一般民衆の写真は無事だった。一方、スタインベックのメモは検閲されるどころか聞かれもしなかったとある。

ペーパーバック(右)はあるが、写真の質があまりよくないらしい。
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by itsumohappy | 2008-04-09 22:02 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)