ロシアが気になる

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2008年 03月 27日

最近の話題から

最近の報道からロシアに関する話題を紹介します。

●プーシキン美術館で「ターナー展」開催へ
モスクワのプーシキン美術館で、11月、イギリスのテート・ギャラリーが所蔵するウィリアム・ターナーの水彩、油彩画等約100点が展示される。ターナーの絵がロシアに出張するのは1975年以来である。

現在、2006年に起きたリトビネンコ氏中毒死事件に端を発した、英露関係の政治的緊張が取りざたされているが、プーシキン美術館の関係者は「テートとは何度も展示会を共催しており、関係が強い。ターナーの絵はやって来る」と語った。

出品予定のひとつ『ノラム城、日の出』。ターナー
の生前には一般に展示されることがなかった絵

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金額は明らかにされていないが、プーシキン美術館史上最高と言われる展示会経費を負担するのは、ロシアの大富豪ウスマノフ氏。今年の『フォーブス』の長者番付で91位(資産93億ドル)にランクされた人物で、イングランドのサッカーチーム「アーセナル」の共同オーナーとしても有名。07年9月、オークションに出品されたロストロポーヴィチ夫妻の美術品を7,200万ドル以上で一括購入後、政府に寄贈(献上?)して話題を呼んだ。ちなみに450点にのぼるそれらの美術品は、大統領府の迎賓館、コンスタンチン宮殿に展示される。
【2008年3月26日ロイター、RIAノーボスチより】

●ロシア映画、世界に進出中
2,3年前まではロシア映画は、国外に配給されることはまれだったが、最近は『ナイト・ウォッチ』など30カ国以上に配給され人気を呼ぶ作品も増えてきた。近年ロシアでは、映画産業が盛んになり、海外からの投資や共同制作のビジネスを呼び込んでいる。

先だってのベルリン映画祭で、ロシアの映画配給会社「セントラル・パートナーシップ」は欧州やアジアの13カ国に10本ものロシア映画配給権を売った。
ロシアの映画制作者は、リスク分散のため、より多くの外国人投資家を求めているが、西側は、制作コストやロケーションの面から映画を共同制作するほうに関心が向いている。

しかしながら、ロシアとの共同プロダクション作りについては、法的な面で未整備な部分が多く、またロシアとの映画ビジネスはリスキーであるイメージが強いと西側から指摘されている。
【2008年3月18日ロシア・トゥデーより】

●赤の広場で本格的な軍事パレードが復活
今年の対独戦勝記念日(5月9日)に、赤の広場で、1990年を最後に途絶えていた大規模な軍事パレードが復活する。3月から4月にかけて3回、赤の広場でリハーサルが行われ、8,000人の将兵と100台の戦車等が参加する。本番では、大陸間弾道ミサイルTopol-M、戦略爆撃機Tu-160他が披露され、4000発以上の花火が打ち上げられる。
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パレードの実施には、新大統領が就任する5月に合わせ「強いロシア」の復活を印象付けようというプーチン大統領の意向が反映していると伝えられている。

戦勝記念日のパレードは、スターリンの命令で1945年6月に行われたのが最初である。
【2008年3月18日RIAノーボスチ他より】

●クレムリン、マウス3,200匹を購入
クレムリンの警備当局が、入札で18g以下のメスの白マウスを3,200匹購入する。すでに落札者が決まり、約47万ルーブル(1ルーブル≒4円)が支払われる。クレムリンで、建物を傷めるカラスを追い払うために飼われている鷹の餌にするという説もあるが、関係者は、もっと重要な用途があると語った。ロシアのメディアは、マウスは、有毒物質の実験や毒ガス探知のために使われるのではと憶測している。
【2008年3月14日ロイターより】

●虎がバレエに出演予定
ロシアバレエ史上はじめて本物の虎が舞台に登場する予定。モスクワのサーカスで活躍している虎の「ミラ」が、サンクトペテルブルクのミハイロフスキー劇場(マールイ劇場;帝室劇場として1833年創立)における新版『スパルタクス』のプレミア(4月29日)に出演する。この『スパルタクス』には350万ドルもの予算が投じられ、「バイタリティあふれる男性コール・ド・バレエの全て」がみられるとのこと。同劇場の芸術監督ルジマトフ氏は、「グリゴローヴィチ版以外は忘れられているが、当劇場始まって以来最初の我々自身による『スパルタクス』を上演する」と意気込みを語った。
【2008年3月19日RIAノーボスチより】

●ボリショイ劇場本館、再オープンは2009年末予定
1825年に完成した現在のボリショイ劇場の本館は、壁がひび割れて剥がれ落ちるなど老朽化が進んだため、2005年7月閉館し、ただいま修繕工事中である。約150億ルーブルかけて08年に終了する予定だったが、当初の予想以上に基礎部分が不安定なため、工期が1年遅れることとなった。180億ルーブルに膨らんだ工事予算は全て政府が負担する。09年11月に再オープンし、こけら落としは『ルスランとリュドミラ』の予定。

工事中の本館(Denis Sinyakov / Reuters)
d0007923_244062.jpg 2009年1月からユーリー・ブルラカ氏が芸術監督に就任する。アレクセイ・ラトマンスキー現監督は、振付の仕事だけに専念したい意向だそうだ。また、現在81歳のユーリー・グリゴローヴィチ氏(ボリショイバレエ『スパルタクス』を振付けした)がボリショイに復帰する計画があるとも伝えられている。

【2008年2月4日、3月4日モスクワタイムズより】
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by itsumohappy | 2008-03-27 02:09 | ロシア | Trackback | Comments(0)
2008年 03月 22日

ネフスキーの生涯

『天の蛇-ニコライ・ネフスキーの生涯』(加藤九祚著)よりロシアの東洋学者ニコライ・ネフスキー(1892-1937)について。ネフスキーは、教授活動が中心だったエリセーエフとは異なり、日本民俗学、言語学に関する膨大な研究成果を残した。

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ネフスキーは、ペテルブルク大学東洋語学部で中国語、日本語を学び、卒業した翌1915年、同大派遣の官費留学生として来日した。ロシア革命の勃発により本国からの送金は途絶えたが、日本に留まり、小樽高等商業学校、大阪外国語学校でロシア語を教えながら、14年にわたって地方の伝承や方言の研究を続けた。柳田国男、折口信夫、金田一京助ら多くの日本人研究者と交流し、時に共同研究も行った。

東北や北関東、沖縄等を調査旅行し、北京、台湾にも足を伸ばした。研究内容は、アイヌ語、宮古島の方言、台湾の曹族の言語、西夏(タングート)文字等々幅広い。この他、『遠野物語』の話者、佐々木喜善を訪ね、「オシラ様」に関する研究を共に行ったというから特異である。また、宮古方言を流暢に話して地元の人々を驚かせ、古い歌謡を聞いたその場で完ぺきに再現して歌い、記録したという。

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西夏の文字。1908年、ロシアのコズロフ探検隊が、中央アジア・カラホト(黒水城)遺跡を発見し、出土品の西夏文書をロシアに持ち帰った
東洋文庫より)




1922年、ネフスキーは、積丹出身の萬谷イソと結婚し、一女をもうけた。29年、ソ連入国許可がすぐに下りなかった妻子を残して単身帰国。レニングラード大学(ペテルブルク大学)で日本語を教えるかたわら東洋学研究所で西夏語を研究し、33年、妻子を呼び寄せた。


ネフスキー一家。1929年頃(『天の蛇』より)
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しかしながら大粛清期の1937年、密告によりネフスキー夫妻は逮捕され、45年、共に収容所で病死したとされた。スターリンの死後、57年にネフスキーは名誉回復されたが、無実の夫妻が、「国家反逆罪」(スパイ行為)で37年に銃殺されたのが判明したのは91年になってからである。  

遺児エレーナさんは、ネフスキーの親友の日本学者ニコライ・コンラッドに引き取られた。1989年に56年ぶりに来日し、母方の親類との交流を果たした(なお、ネフスキーには他の日本人女性との間にも一女があったが十代で早世した)。

ネフスキーの資料は、ロシア科学アカデミー東洋学研究所に所蔵されているそうだ。日本では天理大学に研究ノート等がある。


サンクトペテルブルク大日本語学科の教室にはネフスキーの肖像写真が掲げられているd0007923_1143797.jpg


(1999年8月29日琉球新報、2001年10月2日北海道新聞、2005年10月1日朝日新聞他より)
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by itsumohappy | 2008-03-22 01:36 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2008年 03月 12日

エリセーエフの生涯

『エリセーエフの生涯 -日本学の始祖』(倉田保雄著)及び『赤露の人質日記』(エリセーエフ著)の感想です。
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ロシアの日本学・東洋学者セルゲイ・エリセーエフ(1889-1975)は、明治時代に来日、東京帝国大学で学んだ後帰国し、大学で日本語を教えた。ロシア革命後、亡命してフランスに移住。ハーバード大学に招かれ渡米し、同大で教鞭をとった。当時の教え子にのち駐日大使となるライシャワー氏がいた。

『エリセーエフの生涯』(1977年)はエリセーエフの評伝。
エリセーエフは当時のロシアの大ブルジョワ、「エリセーエフ商会」の御曹司だった。家庭や学校でフランス語、英語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語を学習。パリの別荘に滞在しているときにパリ万博(1900年)で東洋文化に魅了されたのが、日本学に進むきっかけである。ベルリン大学で学んでいる時、日本人留学生たちの助力を得て、日本に留学。1908年、シベリア鉄道で40日かけて東京にやってきた。

モスクワ・トベルスカヤ通りにあるエリセーエフの店(左)。この食料品店の
発展は、エリセーエフの祖父がペテルブルクで始めたワイン販売が大当たり
したことに始まる。右はサンクトペテルブルク・ネフスキー通りの店。

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 (写真:Елисеевский магазинほか) 

東京帝大の入学許可を得、留学生活を送るなかでの数々のエピソードが面白い。お金に不自由しないので、女中付きのしもた屋に住み、日本語・日本文学研究の傍ら漢文や習字、特に草書の稽古に励んだ。寄席や歌舞伎にも親しみ、日舞、清元も習っていた。六代目菊五郎など当時の歌舞伎役者との交流もあった。新橋、柳橋、時には先斗町まで遠征して盛大に遊んだ。日常、和服姿で江戸弁を話し、女装も得意だったユーモアあるエリセーエフは、上流階級の令嬢たちに大人気だったそうだ。

夏目漱石に心酔し、遊び仲間の小宮豊隆(漱石の弟子)の縁で「木曜会」にも度々出席。漱石に俳句を書き付けてもらった『三四郎』を宝物にしていた。卒論は芭蕉研究で、優秀な成績で帝大大学院を卒業した。

左:小宮豊隆と歌舞伎の真似事 右:着物もかつらも特注 
(『エリセーエフの生涯』より)

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ロシアに帰国後、ペトログラード大(サンクトペテルブルク大)で日本文学・日本語を講義していたが、1917年のロシア革命で生活が一変した。
革命勃発後、不動産を没収され、竹の子生活に陥ったエリセーエフが、妻子とともに無事亡命を果たすまでの経緯を記したのが『赤露の人質日記』(1976年。当初版は1921年)。

同書には、「ウリツキー執政官暗殺後、各区ソヴィエトに千人の銃殺が許可され、一晩に7千人殺害された」「船に5,6千人の士官を乗せて沖で沈没させた」等々、恐怖政治の始まりのエピソードが記されている。労農政府は、「1人の共産主義者のために1万人の反革命者と資本階級を銃殺する」と表明した、とある。物不足で、学者も次々と餓死し、エリセーエフは、「露文明の破壊」を目の当たりにした。エリセーエフの親類にも銃殺されたり餓死した者がいた。

エリセーエフは有産階級だったため拘引されたが、勤め先の大学のはからいで銃殺されずに出所できた。拘留中は、家から持ち出した『三四郎』『それから』『門』等を読みふけった。大学に復帰したが、外国での研究願いが却下されて亡命を決心し、美術品を売り払い、宝石を詰めた牛乳瓶などを隠し持って1920年、フィンランドへの密輸船で出国した。逃亡計画が一度では成功せず、無事出帆するまでの展開がスリリングだ。

『赤露の人質日記』は、古風ながらもテンポのよい日本語で書かれている。拘置所でエリセーエフと同室になった労働者が、労農政府に対して憤るくだりは落語調になっていた。

フランスに移住したエリセーエフは、ギメ博物館や日本大使館で働き、ソルボンヌ大の高等研究院教授に就いた。1932年に渡米したのはハーバードの高給が大きな理由だったようだが、アメリカにはなじめず「野猿坊の国」と言っていた。ライシャワー教授が大使となった際は、学問の聖域を汚したと嘆いたそうだ。
1969年、日本政府より叙勲(勲二等瑞宝章)される。75年、パリで死去した。

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粋なロシア人学者の興味深い話なのだが、両書とも絶版になっているのか中央公論新社の目録では見当たらず。大きい図書館ならあるかもしれません。
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by itsumohappy | 2008-03-12 22:58 | 文学・本 | Trackback | Comments(4)