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2007年 10月 27日

レーニンの改葬問題

ロシア革命の父、レーニン(1870~1924)が眠るレーニン廟(写真左のピラミッド形の建物)。
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旅行のとき時間がなくて中を見学できず、実物を見たことはないが生前同様の姿を保っているらしい。ものすごく見たくはないが、ちょっとは見てみたい。でもロシアの共産党が弱小勢力になっている今日、急がないと近い将来見られなくなるかもしれない。

廟からレーニンの遺体を移し、別の場所に埋葬するのは、共産主義と闘った故エリツィン前大統領の「悲願」だった。達成できなかった理由は、「当時の社会が心理的に受け入れる準備ができておらず、余分な緊張を避けるために何度も決断を先延ばしした」ため。一時検討された国民投票は、共産党などの猛反対で立ち消えになった。

この問題について、最近もクレムリンの関係者が、「革命後の混乱した過去の歴史を閉じ、普通の国となるためにも遺体を墓地に埋葬すべき」と表明した。
埋葬は、アレクシー2世・ロシア正教総主教も支持。また、これまでもマトビエンコ・サンクトペテルブルク市長や映画監督のミハイルコフ氏らも埋葬に賛成の旨表明している。人権諸団体は、レーニンのみならずクレムリンの壁に眠っているかつての共産党指導者たちも墓地に埋葬すべきと主張。野党ヤブロコ代表ヤブリンスキー氏は、「埋葬問題は、ロシア人のアイデンティティーの重要な側面に関わることであり、国民投票が必要」と述べた。
最近の世論調査(06年)では「廟に残すべき」が40%、「サンクトペテルブルクの墓地に埋葬」が36%だった。

プーチン政権は、この改葬論議で国内の重要問題から国民の目をそらすことを狙い、レーニンに代わる国民統合の拠り所として強権国家の建設を目標としている、と分析する人もいる。

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レーニンの死後、国民からの要望を受けてスターリンは遺体の永久保存を決定し、防腐処理された遺体が木造の廟に納められた。1930年に現在の石造りの廟となった。53年から一時期、スターリンも並べられて「レーニン・スターリン廟」だったが、スターリン批判後の61年、スターリンは廟から出されてクレムリンの壁に埋葬された。

廟内は、気温16度、湿度70%に保たれている。遺体保存担当の研究所員が、閉館日に顔や手の色を点検し、1年~1年半ごとに衣服を脱がせて綿密にチェック。溶液に1ヶ月遺体を浸した後、また服を着せてガラスケースに戻す。溶液の成分は企業秘密で、ごく数人しか知らないらしい。

レーニン本人と家族は、遺体の保存を望んでいなかったと言われる。

(1999年9月7日日経、2000年8月10日東京、12月9日産経、2005年11月12日朝日、2007年10月11日ロイター、25日インターファクスより)
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by itsumohappy | 2007-10-27 18:18 | ロシア | Trackback | Comments(4)
2007年 10月 14日

A・ポリトコフスカヤ 『ロシアン・ダイアリー』

2006年10月7日に射殺されたロシアのジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ氏の死から1周年の日、モスクワ中心部で氏の追悼集会が開かれた。同日はプーチン大統領の誕生日でもあり、親衛隊「ナーシ」らがモスクワで大々的に祝ったようだが、大統領は故ポリトコフスカヤ氏に関しては何のコメントもしなかった。

暗殺事件について、捜査当局はこれまでに10人を逮捕したが、10月8日現在、未だ誰も起訴されていない。すでに殺人者は特定されたが、誰が実行させたかなど背後の組織に関する証拠を固めるために慎重に捜査を行っている最中という。

d0007923_15392721.jpg『ロシアン・ダイアリー』は、副題が「暗殺された女性記者の取材手帳」で、はじめイギリスで出版されたもの。英訳されている途中にポリトコフスカヤ氏は亡くなった。ロシアでは未出版。
内容は、下院選(03年12月)での「統一ロシア」党の勝利及び大統領選(04年3月)でのプーチン大統領再選の舞台裏、チェチェン戦争関連の問題(治安部隊の掃討作戦、チェチェン市民の失踪、チェチェン帰還兵のその後等)、真相が明らかにされないテロ事件(アパート爆破事件、モスクワの劇場とベスランの学校占拠事件)を中心に、人種差別主義者の暴力行為や軍隊での新兵いじめ問題などにも触れている。

下院選挙時の各地でのエピソードのひとつに、「統一ロシア」候補への有力な対抗馬に「人の耳と心臓」が入ったビニール袋が2度窓から投げ込まれたとある。チェチェンでは有権者の数を1割上回る人が投票した。(他にも不思議な話が紹介されているが、略) 選挙の結果、「統一ロシア」と親クレムリンの諸党が大勢を占めた。選挙後、大統領は、議会とは議論の場ではなく法案を調整する場、と明言した。
体制に「適応」しない反対勢力の存在は事実上許されない。ソ連時代は単に叩き潰されていただけだったが、現政権は、手ごわい反対分子を上手く懐柔して体制批判をしにくくさせる方策に長けているとポリトコフスカヤ氏は指摘している。
大統領選では、反プーチンの大統領候補ルィプキン氏が失踪し、なぜかウクライナの同国大統領の専用施設に、何者かによって連れこまれていたという話が気味悪い。ロシア政府機関に誘拐にされて自白剤を打たれた疑いがあるそうだ(その後ルィプキン氏は立候補を辞退した)。

ポリトコフスカヤ氏は、政府の強圧で選挙が茶番になったことへの怒りのみならず、国民の政治に対するあきらめと無関心の高まりを懸念し、やり場の無い怒りを行間ににじませている。

次のロシア下院選挙は本年12月、大統領選挙は08年3月である。プーチン大統領の次期選挙に向けた戦略は、9月12日のフラトコフ首相(フラトコフ氏は、前回大統領選直前にプーチン氏より任命された当時全く無名で、「首相の職分を知らない」と自ら述べたと『ロシアン・ダイアリー』にある)の突然の辞任と内閣総辞職から始まったと伝えられた。10月1日、プーチン大統領は、来る下院選で「統一ロシア」の候補者名簿第1位への登載を受入れることを表明。さらに、大統領は、将来首相に就くことを示唆しているという今の状況を、ポリトコフスカヤ氏はどうレポートしただろう。
(憲法で大統領の連続3選は禁止。首相に任期はない。両職ともに議員との兼任はできない。)

(2007年9月14日北海道新聞、10月6、8日毎日新聞、10月8日ノーヴァヤ・ガゼータより)
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by itsumohappy | 2007-10-14 15:52 | ロシア | Trackback | Comments(0)
2007年 10月 07日

最近の話題から

最近の報道からロシアに関する記事を紹介します。

●スプートニク打ち上げ50周年
1957年10月4日、タス通信は、ソ連が世界初の人工衛星(スプートニクⅠ)の打ち上げに成功したことを報じ、世界中が大騒ぎとなった。衛星は、本体60㎝、重さ83kg程度の小さなものだったが、発信電波は世界各地でキャッチされた。ニッポン放送は、音は「ウグイスの声のようだった」と伝えている。発射地、時間も明らかにされない突然の打ち上げについて、せっかくの一大実験なのに正確な観測ができず、科学的効果が薄れてしまうと当時の報道にある。

 1957年10月5日と6日の朝日新聞。衛星写真は予想図

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ソ連は、衛星第2号を犬を乗せて発射することを今度は予告し、57年11月3日、スプートニクⅡの打ち上げが発表された。衛星に乗せられたメス犬クドリャフカ(別名ライカ)は、宇宙空間に出た初の生物となった。

 1957年11月4日朝日新聞
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犬は「地球上2、3000ヤードのところで容器から投げ出され、パラシュートをつけて降りてくる」と当初伝えられたが、実際は熱さとストレスで数時間程度しか生きなかったようだ。



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スプートニクが打ち上げられたバイコヌール発射場(カザフスタン)は世界最大級で、主要なロケット、宇宙飛行士の打ち上げが行われてきた。国際宇宙ステーションのソユーズ宇宙船もここから出る。

右:打ち上げ50周年を記念してモスクワ近郊のガガーリン宇宙飛行士訓練センタ-(スターシティ)にモニュメントが建てられた。
(Mikhail Metzel 氏撮影/ AP)

【2007年10月4日イタルタス通信他より】

●クレムリン近くの建物から粛清の犠牲者?34体発見
モスクワのクレムリンから歩いて5分の、ニコルスカヤ通り沿いにある工事中の建物の地下室から、34体の身元不詳の白骨死体が埋められているのが発見された。そばには錆びたピストルがあった。これらの死体が、1930年代のスターリンの大粛清期の犠牲者なのかどうか憶測を呼んでいる。

発見場所は、KGB本部のあったルビャンカから10分ほど。当時、ルビャンカ(KGBの前身NKVD(内務人民委員部)があった)で取調べを受けた人々が連れ出されて、近隣の建物の地下で銃殺されることもあったそうだ。死体発見現場は、NKVDが接収した建物のひとつである可能性もある。

 恐怖の館だったルビャンカ。保険会社の建物 を革命後
 ボルシェヴィキが接収した。現:連邦保安庁本部(FSB)

d0007923_23281558.jpgもしかしたら発見された死体は30年代のものではなく、1905年または1917年の革命時のものか、或いは独ソ戦中のものかもしれない。また、18世紀の頃は発見場所には寺院があったので、付属の墓所のものという説もある。
現在、当局が捜査中であるが、真相解明には最低でも1ヶ月はかかるらしい。

ロシアの人権団体「メモリアル」は、ニコルスカヤ通りの建物ひとつを粛清の犠牲者を追悼する博物館にすることを以前から訴えている。
【2007年10月4日ロシアトゥデー、10月5日モスクワタイムズより】

●プーチン大統領、ラトビアとの国境画定条約の批准書に署名
2007年3月、ロシア、ラトビアの両首相は、両国の国境を確定する条約に署名し、ラトビアのソ連からの再独立(1991年)以来16年続いた両国間の領土問題が解決した。ラトビア議会は5月に条約を批准し、ロシア下院は9月に批准した。プーチン大統領は、10月3日、条約の批准書に署名し、両国が批准書を交換すれば条約の手続きは終了する。

ラトビアは1795年、第3次ポーランド分割によりロシア領となったが、ロシア革命後の混乱時の1918年、独立を宣言。エストニア、リトアニアとともにタルトゥ条約(20年)によりソ連との国境を画定させた。しかしながら独ソ不可侵条約(39年)の秘密議定書により40年、ソ連に併合された。

併合前までラトビア領だったロシア西部プスコフ州プィタロボ地区の返還を、ラトビア政府は91年の再独立以来求めてきたが、EU加盟を目指すため返還要求を断念。タルトゥ条約の有効性に言及することもあきらめ、ロシアとの国境問題は解決した。ラトビアのザトレルス大統領は、「自国の領土を断念するのは断腸の思い」と語った。

ロシアは、近年、周辺国との国境問題の解決を進めており、中国、カザフスタンとは、04年、05年に画定させた。エストニアとの国境画定条約は批准直前までいったが、エストニアがタルトゥ条約に言及したことで05年、ロシアは条約の調印を撤回。しかしながら、ラトビアと同様の結果になると予想されている。

ロシアとの国境画定の条約が未だ形にもなっていない残りの国はおそらく日本くらい。果たして戦争で失った領土が帰るのか全く先が見えない状態である。
【2007年9月6日北海道新聞、10月3日インターファクス他より】

●モスクワに「うどんやさん」開店
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モスクワに「日本のファーストフード、うどんやさん」(УДОНъяСАН ЯПОНСКИЙ
ФАСТ-ФУД)が登場。メニューはシンプルで、お寿司がない最初の日本レストランだそう。四国出身の日本人社長・副社長以外の従業員約20人は皆ロシア人。讃岐うどん用の製麺機と釜を持ち込み、だしの材料やうどん粉を輸入して提供している。

えび天うどん、カレーうどん、カツ丼、牛丼などのほかおにぎり、おでんもある。100p~200p程度の値段(1p≒4.6円)。おつけは40p。緑茶は0pとわざわざうたっている。それほど安くはないが、日本食レストランは高いという現地の常識を破るものであり、社長は将来チェーン展開も考えているとのこと。ロシア人に量が足りるか不明だが、うどんが健康食であることを店はアピールしている。開店記念で、今年末まで週末は未就学児には無料のセットメニューがある。
【2007年9月6日毎日新聞、10月4日モスクワタイムズより】

 うどんやさんのサイト↓
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by itsumohappy | 2007-10-07 01:09 | ロシア | Trackback | Comments(4)
2007年 10月 04日

オレンジ・プリンセスの髪

d0007923_1323379.jpg2004年、ウクライナの「オレンジ革命」を支援し、同国で最初の女性首相となったユリア・ティモシェンコ氏(1960年生まれ)。政界入りする前は、エネルギー関係の事業で成功したウクライナのオリガルヒだった。現在、親欧米派野党「ユリア・ティモシェンコ・ブロック」(BYuT)を率いる。

2007年4月に新ロシア派のヤヌコビッチ首相と対立したオレンジ派、ユーシェンコ大統領が議会(一院制)を解散したことを受け、9月30日、前倒し選挙の投票が行われた。BYuTは、99%が開票された10月3日現在、30.81%得票し、大躍進した。ユーシェンコ大統領の「われらのウクライナ」と連立内閣を作る模様。ティモシェンコ氏を首相候補に協議が行われると伝えられている。(2007年10月3日毎日新聞ほか)

2010年の大統領選挙への出馬もささやかれるティモシェンコ氏だが、私が前から気になっているのは、氏のヘアスタイル。ぐりぐりと三つ編みを巻いた頭が印象的すぎて政治家にしてはユニークなイメージだ。オレンジ革命のシンボル的存在として民主的な姿勢をアピールする勝負服ならぬ勝負ヘアとも言うべきあのスタイルは、三つ編みわっかのヘアピースをのっけているのではなく、全部本物の髪でできている。しかし、本当は黒髪らしい。

ウクライナ農民の伝統的なスタイルを意識して自分で発明したもので、毎朝自分で結っている。所要時間は7分。ウクライナのTVで、ほどいて作り直すパフォーマンスが放映されたこともある。髪が話題になるのはいつものことであり、この姿でウクライナが注目されるなら喜ばしいと語っている。氏のサイトは写真満載で、髪が気になる人にも疑問がわかるよう配慮されている(と思う)。
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サイドで作った三つ編みを引っ張って巻きつける単純なつくりに一見見えるが、三つ編みの先の処理やほつれないような美しい仕上げにはそれなりのテクニックがありそう。ピンとスプレーを使わないと安定しないかな。(上は10月1日記者会見時の写真:氏のサイトから)

d0007923_1382966.jpg←たまにこういう姿(2007年1月)になると、「鉄の女」的イメージを払拭するためとか政策を変更するためとか周囲から何かと憶測されるらしいが、本人は、「単に変えてみたくなるときもある」だけで、深い意味はないそうです。(右下:エル誌のカバーにも登場(2005年4月))
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by itsumohappy | 2007-10-04 01:54 | その他 | Trackback | Comments(2)