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2007年 08月 28日

最近の話題から

最近の報道から日露に関する記事を紹介します。

●護衛艦はるな、ウラジオストクを訪問

2007年8月21日、対潜ヘリ2機を載せた護衛艦はるなが、友好訪問とロシア海軍との共同訓練のため、ロシア海軍太平洋艦隊の司令部があるウラジオストクに入港した。海自の一行は、ロシア海軍司令部や市長と表敬後、市の観光名所や博物館を訪問した。
8月24日、ロシア海軍とウラジオストク沖で仮想遭難船を使った捜索・救難共同訓練が行われ、ロシア側からは対潜哨戒艇、対潜哨戒機が参加した。共同訓練は今回で9回目。去年は舞鶴で行われた。

金角湾岸での「パンと塩」のロシア式歓迎セレモニー
(Yuri Maltsev氏撮影/Vladivostok News)

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海自とロシア海軍の相互訪問は、96年、護衛艦くらまが、ロシア海軍創設300年祭参加のためウラジオストクを訪問し、その際初の日ロ共同訓練が行われたときに始まる。この度の海自のウラジオストク訪問は7回目である。
【2007年8月7日海上自衛隊ニュースリリース、8月21日ノーボスチ、タス通信より】




●稚内・サハリン州ネベリスク 友好都市締結35周年 
2007年8月9日~14日まで稚内市長を団長とする代表団が、友好都市であるネベリスク、コルサコフ、ユジノサハリンスクの3都市や州政府等の関係者との交流・会議を目的にサハリンを訪問した。
d0007923_0553519.jpgしかし、ネベリスク市(1972年に稚内の友好都市となった)は、8月2日のサハリン州南部地震により大きな被害を受けたため、会議には参加できず、35周年の交流式典も中止された。稚内代表団は、ネベリスクを除く各市等の関係者と定期航路利用促進、水産資源の輸出入、農業分野での交流、観光振興に関する会談を行った。

訪問団は、ネベリスクへの毛布、カップ麺等災害援助物資を持参。州知事が解任されるなど地震後の混乱で、援助物資はロシア側の通関を拒否されたが、団の帰国直前に、モスクワの承認を得て受け入れられた。

稚内からサハリンへの戦後初の観光フェリーが運航されたのは1989年。それまで道内からサハリンへは千歳-新潟-ハバロフスク経由の渡航であった。

東日本海フェリーが運航するアインス宗谷。
稚内⇔コルサコフ間を結ぶ。

d0007923_0474414.jpg43キロ先のサハリンとの交流は「日ロ友好最先端都市」稚内のみならず道北地域の発展に重要とされ、経済・観光面で更なる交流の拡大が望まれている。

かつて稚内、留萌、根室、羅臼には、海岸地区など外務省の許可なくソ連人等が立ち入れない「行動制限区域」があった。フェリーで来たソ連人の出入国が日本外務省によって不許可になるなど交流の上で支障となる問題も起きたが、制限区域は94年までに段階的に撤廃された。
【稚内市サハリン課HP、1989年1月16日・10月25日北海道新聞、2007年8月16日読売新聞他より】


ソ連抑留者名簿『シベリアに逝きし人々を刻す』の発刊
2007年7月、新潟県の村山常雄さん(1926年生まれ)が、シベリア抑留中に死亡した日本人のうち約46,300人の名簿を自費出版した。名簿のうち3万2千人は、元抑留者・遺族への聞き取りや、現地で墓碑を書き写すなど独自に調査して漢字名を調べた。
d0007923_0575260.jpg村山さんが精査したデータは、91年にゴルバチョフ大統領が持参したロシア語の抑留者名簿を、厚生省がカタカナにして公表した名簿などに基づく。それらの名簿のうち重複・読み間違いを可能な限り修正し、50音順に並べ生年、階級、収容所名、死亡日等を併記した。

作業開始は1996年。村山さん70歳のときPCを購入し、10年がかりでデータベースを作成後公表し、2006年吉川英治文化賞を受賞した。このデータベースを書籍としてこの度出版した。

ウクライナからカムチャッカまでの範囲に埋葬地約860箇所。シベリア抑留の死者は約5.5万人と推定され、まだまだ名前が記録されない人々も多い。

村山さんは1945年応召し、終戦後4年間ソ連に抑留され強制労働に従事して、復員後は教師となった。シベリアへの慰霊墓参のたびに、草生す土饅頭の立ち並ぶ風景に目にして心を痛めたそうだ。名簿作りは、「かつての戦友たちを「無名戦士」と虚飾して歴史の襞に埋め戻そうとする風潮に抗い、あえてその名を掘り起こし、その命日と最期の地を明らかにして、人間としての存在証明とその無念の死を追悼する」のが目的であるとHPに記しておられる。
【2005年5月31日毎日新聞、2005年9月18日・2007年8月25日読売新聞他より】
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by itsumohappy | 2007-08-28 01:18 | その他 | Trackback | Comments(0)
2007年 08月 22日

舞台芸術の世界―ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン展

「舞台芸術の世界―ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン展」(東京都庭園美術館(白金台)・9月17日まで)に関し、バレエ・リュスとニジンスキーについて。

東京都庭園美術館
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この展示会は、ディアギレフ(「天才興行師」と称されている)が率いた舞踏カンパニーであるバレエ・リュス(1909~1929)に関わった芸術家の舞台デザイン画や衣装などを紹介している。

d0007923_0585115.jpgバレエ・リュスは専用の劇場を持たずにパリを拠点として活動し、ロシアでは公演しなかったそうだ。オリエンタリズム(と言っても衣装や絵を見ると中近東風なのだが)で人気を博した。研究家である芳賀直子氏によると、傑作も駄作も作ったが、単なる異国趣味だけではなく、正統なクラシックバレエの精神を受け継ぐカンパニーであったという。バレエ・リュスがフランスでは忘れられていたバレエ「ジゼル」を復活させた。リュスの舞台は、当時のファッション、アートに大きな影響を与えた。関わりのあった芸術家は、ストラヴィンスキー、ドビュッシー、プロコフィエフ、バクスト、ピカソ、コクトー、ルオー、マティス、キリコ、シャネルなどなどそうそうたる人々である。

バレエ・リュスのスターがニジンスキー。ニジンスキーの映像はないとは聞いていたが、写真も見たことがなかった。展示にあった写真の姿がずんぐりというかどっしりしていて意外だった。なんとなく、細め・不健康そうで早死だと勝手に思っていたのだが。活躍した時期は1907~1917年と10年間ではあるが、亡くなったのは1950年。ただし、18年ごろより今で言う統合失調症のような精神の病におかされ長く別な世界に生きた。

薔薇の精を演じるニジンスキー。
(東京バレエ団ニジンスキー・プロのちらしより)

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ニジンスキーは跳躍で「伝説」となったらしい。バレエ「薔薇の精」(部屋の窓から薔薇の精が跳び入ってひとしきり踊った後、窓から跳び去る)のラストで、跳んだまま着地せずに消えた。舞台に何かジャンプ装置のような仕掛けがあるのでは?とわざわざ確かめに行った観客もいたとか。写真ではよくわからないが、芳賀氏のお話では、同時代の芸術家を刺激した「対象としての魅力」にあふれるダンサーで、活躍期間が短いのにも関わらず、描かれた作品が数多く残されている由。また、ニジンスキーは、ディアギレフに勧められて「牧神の午後」などの作品の振付もする多彩な才能の持ち主だった。


展示会場(講堂の手前)で、パリ・オペラ座バレエの「薔薇の精」「牧神の午後」「ペトルーシュカ」の映像(ルグリらが出演。最近のわりにあまりきれいな画像ではない)を1日2回ずつ上映している(スケジュール)ので観ると展示がよりわかりやすくなると思う。

d0007923_135528.jpgバレエ・リュスは、1929年、ディアギレフの死後いったん解散したが、所属ダンサーたちはアメリカその他の地でカンパニーの精神を受け継いでいった。その物語が映画化され(「バレエ・リュス 踊る歓び、生きる歓び」)2008年公開予定である。




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【東京都庭園美術館】
1983年開館。33年に完成した朝香宮邸の建物をそのまま使っている。以前はもう少し黄色い建物だったが、元の姿に近い色に塗り直された。各展示室そのものが芸術品。
もと白金の御料地だった広大な敷地には洋風・和風庭園がある。やはり御料地だった隣の自然教育園には昔ながらの貴重な森が残されている。(ただ、カラスが多くてちょっとこわい)

日本庭園と茶室
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by itsumohappy | 2007-08-22 01:20 | 展示会 | Trackback | Comments(2)
2007年 08月 05日

村尾靖子 『クラウディア 奇蹟の愛』


「…他人の不幸の上に私だけの幸福を築き上げることは、私にはどうしても
出来ません。あなたが再び肉親の愛情に包まれて、祖国にいるという嬉しい
思いで、私は生きていきます。…37年余りの年月をあなたと共に暮らせたこと、
捧げた愛が無駄ではなかったこと、私はこの喜びで生きていきます。
涙を見せずに、お別れしましょう。・・・」



これは当初版。06年に改訂版が出ている
d0007923_17543621.jpg終戦後の朝鮮で、無実の罪を着せされてソ連に拘束され、妻子と生き別れになった蜂谷弥三郎氏とそのソ連でのつらい生活を支えたクラウディアさん、51年ぶりに夫と再会した蜂谷夫人久子さんの実話である。
TVドキュメンタリー番組「クラウディアからの手紙」(1998年・日本海テレビ(山陰地方)制作)に触発された著者が、蜂谷夫妻とロシアに住むクラウディアさんを訪ね、インタビューを重ねて構成した。私は未見だが、06年に舞台・TVドラマ化されている。

朝鮮の兵器工場で働いていた蜂谷氏は、1946年、日本への引揚げを待っている間に、ソ連官憲にスパイ容疑(ソ連刑法第58条第6項;当時、多数のソ連市民がこの条項により強制収容所に送られた)で逮捕された。衝撃的なのは蜂谷氏を告発したのは日本人であったこと。その日本人(のち旧日本軍の特務機関関係者だったことが明らかにされた)は、蜂谷氏他2名の日本人に対して「スパイを助けた」「日本でスパイを徴用した」等々虚偽の証言を行い、蜂谷氏達はピストルを突きつけられてやむなく調書にサインをした。

証拠もなく弁護人もつかない裁判で3人は10年の刑を宣告され、強制収容所に送られた。告発した男にかつて食事をふるまったり、仕事を手伝ったりしたという蜂谷氏達の厚意は仇で返された。スターリン時代、スパイの摘発はノルマ化されていた。おそらくその男は、自ら生き残るため知り合いを密告したのだろう。

幾つかの強制収容所を転々とするうち腎臓病を患い、零下数十度の収容所の中を這って移動するまでに弱った蜂谷氏は、生き延びるために理髪の技術を身につけ、指圧も学び懸命に働いた。「日本人の恥になってはならない」という思いが生きるための原動力になったという。正直で器用な働き者という戦前の日本人のイメージそのものだ。

蜂谷氏は、1949年、マガダン(北極圏コルィマへの入口)に送られたが、勤務する収容所内理髪店の売り上げを多く当局に納め、減刑されて53年に出所した。56年の日ソ国交回復後も何故か帰国が認められず、KGBに監視される日々だったそうだ。そのようななかでクラウディアさんと知り合い、のち結婚。クラウディアさんは孤児で、やはり無実の罪で逮捕され、強制労働に服した過去があった。

この物語の核はクラウディアさんの人間性にある。「神は、人の心の中にこそある」というのがクラウディアさんの信条で、不幸な生い立ちにもかかわらず、純真な心の持ち主で生まれながらの善人である。

91年のソ連邦崩壊後も、蜂谷氏は恐怖心が先立ち、なかなか日本に連絡をとれなかったが、96年、51歳になった娘さんが訪ロし、再会を果たした。日本で久子夫人が健在で、夫を待っていると知ったクラウディアさんは、蜂谷氏に帰国を勧めた。冒頭引用したのが、蜂谷氏との別れに際してクラウディアさんが書いた手紙の一部。

人間の限りない素晴らしさと恐ろしさを知る本である。
クラウディアさんはアムール州プログレス村に一人住む。07年5月に久子夫人は亡くなった。
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by itsumohappy | 2007-08-05 18:13 | 文学・本 | Trackback | Comments(6)