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2007年 06月 26日

シャラーモフ 『極北 コルィマ物語』

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ヴァルラーム・シャラーモフ(1907~1982)は、強制収容所での体験を基に短編群『コルィマ物語』著したソ連の反体制作家・詩人。今年6月で生誕100周年である。ソルジェニーツィンと違って生涯ソ連国内で創作を続けた。

本書のあとがきによると、『コルィマ物語』は、1953~73年にわたって書き続けられた約150篇の短編の総称で、作家の生前は国内で出版されなかった。しかしながら地下出版で回し読みされ、国外にも流出し高い評価を得たという。ペレストロイカの時代になってから本格的にソ連国内で紹介された。


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マガダンの北がコルィマの地。『極北 コルィマ物語』の図版に、周辺にあった収容所のおおまかな位置(『収容所群島』図版より)をで示した。

作家は、4度逮捕され、約20年間強制労働に従事した。逮捕の理由は、反革命行為でいわゆる国家反逆罪である。最初の逮捕は1929年。「レーニンの遺言」(スターリンは粗暴であり、書記長職から降ろすべきというレーニンの文書。スターリンの死後公表された。)を印刷しようとした地下出版所で捕らえられた。スターリン時代は逮捕歴があるため「人民の敵」扱いで逮捕。
北極圏のコルィマの収容所で15年過ごした。コルィマは、オーロラ、永久凍土、夏は沈まぬ太陽の地である。厳寒期は、-50~60度位になるらしい。ここには金鉱があり、砂金の層を掘り起こし金を産出するまでに多大な労力が必要とされた。作家は、肉体労働に従事したのち補助医師となり、刑期を全うして生還した。

『極北 コルィマ物語』は、『コルィマ物語』と総称される短編シリーズのうち約5分の1を収録。まだ全訳は出ていないようである。生地獄の人間模様をあれこれ描いているのだが、おどろおどろしくなくむしろ静謐な印象を受ける。それにしてもこれほど悲しい物語群はおそらくないと思う。

作家は、刑期が終わってもすぐにはコルィマから出ることを許されなかったようだ。「手紙」(1966)という短編に、コルィマから犬ぞり、トラックを乗り継いで500キロ先まで行って敬愛するパステルナークの手紙を受け取る印象的なエピソードがある。

今、ロシアでは政府系のTV(テレカナル・ロシア)で、『コルィマ物語』を下敷きにした全12回のドラマシリーズ「レーニンの遺言」(Завещание Ленина)が放映されている。
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          TVドラマ「レーニンの遺言」より(テレカナル・ロシアのサイトより 
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by itsumohappy | 2007-06-26 00:00 | 文学・本 | Trackback | Comments(8)
2007年 06月 17日

最近の話題から

最近の報道からロシアに関する記事を紹介します。

●2007年ロシア文化フェスティバルの開催
今年のロシア文化フェスティバルは、7月2日のモスクワ国立アカデミー室内合唱団ガラコンサートで開会予定である。しかし、行事は事実上始まっており、「国立ロシア美術館展」など開催中のものや既に終了したコンサートなどもある。プログラムはこちらd0007923_17383611.jpg
中でも「ボリショイ・バレエ&マリインスキー・バレエ世紀の合同公演」のタイトルが目立つ。
映画・演劇、サーカス、弁論大会等定番プログラムのほか、ロシアの若者に人気のシンガー、ユーリヤ・サビチェヴァ が出演する「ヤング・ジェネレーションプログラム」など若者文化の紹介もあり。同プログラムの親善大使を土屋アンナがつとめる。ロシアの血を引くアンナ嬢は、6月13日、モスクワを訪れイタルタス通信社ビルでフェスティバルの記者発表を行い、多くのロシアのマスコミを集めた。
【ロシア文化フェスティバルのサイトより】 

●革命を志すロシア・インテリの軌跡を描く演劇“The Coast of Utopia”
『ザ・コースト・オブ・ユートピア』(The Coast of Utopia)は、6月10日、第61回トニー賞でベストプレイ等7部門を受賞した。同作は、2002年、イギリスで初演。ブロードウェーでは昨年11月から約半年上演された。d0007923_1740420.jpg3部構成で44人の俳優が70もの役柄を演じ、上演は計9時間に及ぶ。皇帝専制の打倒を志す1840年代のロシア・インテリゲンツィア達の約30年間にわたる群像劇で、かなりマニアックなものだ。こういう明らかに一般受けしない壮大な芝居を創る演劇界の層の厚さに感心する。

登場人物は、思想家ゲルツェンを中心に、バクーニン、ベリンスキー、スタンケヴィッチ、マルクス、ツルゲーネフら。革命的民主主義に基づく社会建設の思想が、フランスの2月革命(1848年。ブルジョワ、労働者階級が武装蜂起した)の勃発により揺らぎ、亡命先でゲルツェンらは、まだ見ぬ「ユートピア」に思いをはせるというのが大まかな筋。

脚本のトム・ストッパード氏はナイトの称号を持つイギリス演劇界の大御所で、過去に3回トニー賞を、映画では「恋におちたシェークスピア」でアカデミー脚本賞を受賞している。“The Coast of Utopia”の執筆動機に関し、同氏は、当時のロシア革命家らの理想主義に魅せられ、また、トルストイら多くの偉大な文学者を生んだ精神を尊敬しているとし、さらに、ゲルツェンの、他者との相違を尊重する多元論の思想は、現代に通じるものであるとインタビューで語っている。
【2007年6月12日朝日新聞、Lincoln Center Theaterのサイトより】

●ソルジェニーツィン氏、国家褒章を受章
6月12日、プーチン大統領は、ロシア国家褒章(文化勲章のようなもの)を受章した作家ソルジェニーツィン氏宅を授賞式直後に訪れ、生涯にわたって人道分野で活躍したと作家を直接称えた。ソ氏は、強制収容所の体験がもとで健康を損ねており、式に欠席していた。

d0007923_17411079.jpg20年間の国外追放後、1994年に帰国したソ氏は、急激な物質主義や汚職の蔓延した「廃墟のロシア」の復興のため、民族主義を中心とした皇帝のように強い指導者の出現を待望していたという。従って、エリツィン前政権からの勲章授与は拒否していた。
大統領訪問の様子はTVで一部放映された。何かにつけて「言論弾圧」と他国から受ける批判をかわす大統領の戦略?
【2007年6月6日The Moscow Times、13日朝日、14日産経新聞、写真:ロイター通信より】

●カムチャッカ・ゲイゼル渓谷、地滑りで埋まる
ユネスコ世界遺産に登録されているカムチャッカ火山群に属する間欠泉の谷として有名なゲイゼル渓谷が、6月4日頃発生した地滑りで土砂に埋まってしまった。前日に起きた地震が引き金になったと言われている。地滑り時にいた観光客は奇跡的に難を逃れ、犠牲者はいなかった。

ゲイゼル渓谷は、7キロ四方に大小50以上の間欠泉が密集する地帯で、1941年、地質学者が探検中に発見した。
このたび、地滑りでたまった土砂をダイナマイトで吹き飛ばす案も浮上したらしいが、世界自然保護基金ロシア支部の関係者は、「自然自らが起こす破壊も地球の活動史のひとつとして受け止めるべき」と語っている。保護策等今後については、今月末から開始される世界遺産の委員会で検討される予定である。
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  地滑り前と後(I.Shpilenok、A. Filatkina両氏撮影)

【世界遺産のサイトRussian Life誌より】
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by itsumohappy | 2007-06-17 18:21 | ロシア | Trackback | Comments(0)
2007年 06月 06日

国後島・択捉島上陸記 -5. あとがき

2006年8月16日に根室の漁船がロシア国境警備隊に銃撃され、乗組員1名が死亡した事件を受けて、当時の根室市長は、ビザなし交流や人道支援の一時中止を政府に申し入れた(2006年8月17日毎日新聞)。 市長は、領土返還のためにビザなし訪問事業を続けても、領土交渉に進展はない上、こんな事件まで起きたことにいらだったのかもしれない。
結局、政府の方針でビザなし事業等は予定通り行われることになり、銃撃事件直後の18日、択捉へ向けビザなし訪問の船が出立した。

1992年にゴルバチョフ大統領の提案で始まったビザなし交流も今年16年目ということで、相互理解、友好、親善といった目的はそこそこ達成されているのでは?と思う。

交流事業なので、色丹・国後・択捉在住ロシア人もやってくる。ただし来日するのは富裕層で、繰り返し訪問できる人々と参加できない一般層とのあつれきがあるという。(06年8月19日北海道新聞) また、この事業で来日したロシア人が、家電、自転車、芝刈り機、リビング用品など買い物する姿にビザなしが「買い物ツアー」「観光」と化しているという批判もあるそうだ。

ロシア政府に四島を返す気はない。
プーチン大統領は、かつて日ソ共同宣言(1956年)に基づく解決を考慮したと伝えられたが、今は、「四島の帰属性がロシア側にある点に議論の余地はない」(07年6月)と発言している。今年4月にはイワノフ第一副首相が択捉を、6月にはラブロフ外相が国後、色丹、歯舞(水晶島)を訪問し、これらの島々が「ロシアの領土」であることをアピールした。

これまでの政府交渉のほか、自治体、民間団体、個人がいろいろな形で、もうやりつくした位に返還運動をしていても、事態が変わらないというのは何だか空しい。領土問題は何十年かかっても原則を粘り強く訴え続けるべきと言われればそうなのだろうが。 

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  北方領土絵葉書より「ハマベンケイソウ」と「材木岩」(国後島)


今年度のビザなし交流事業に関して、地元紙に以下のような記事があった。
ビザなし交流では、受け入れ側が滞在費を負担する「相互負担」が原則だが、実際には島の財政難に配慮し、日本側が車の移動経費、食事代など一回60-100万円分を負担。四島側は4月の日ロ代表者間協議で、物価高でロシア側の実質的な負担が増えたため、日本側の負担増を求めた。(中略)交流事業費などを交付する内閣府も、日本側の負担増に伴う予算要求を検討する方針だ。 (2007年5月19日北海道新聞) 

なんだか、事業を継続させたい日本の足許見られているような感じである。島返す気もないのに・・・。 あと半世紀後、事態はどうなっているだろう。今と同じ状態だろうか。それともある日突然解決したりするのか。

島で移動中、同じ車になった元島民の方に「返還されたら島に帰りたいですか?」と尋ねかけてやめた。今の島の状態、そして「返還」というゴールが全然見えない状況では、非現実的で空しい質問のような気がしたからだ。元島民1世は平均年齢74歳位。こう言ってはなんだが、もうそんなに残された時間はない。
好景気を背景に四島での生活レベルは向上したといっても、快適すぎる日本の生活になれてしまうと、たとえすぐ島が返還されたところで、住むには相当インフラ整備しないと無理だ。

訪問を終えてやや落ち着いてからは、ロシア人住民にもっとあれこれ聞けばよかった、と思った。島にいるときは、とりあえずのコミュニケーションに必死で、心情を問う余裕がこちらになかった。
ロシア人住民は、集会だステイだと1年に何度となく来る日本人たちの相手をして、似たような話を聞かされ、うんざりすることもあるだろう。何度も四島訪問する日本人はあまりいないが、迎える側は変わらない。それでも我々団員に暖かく接してくれた。
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  北方領土絵葉書より「ルピナスと紗那川」(択捉島)

先日、ロシア人家庭へお礼の手紙や写真などを送る前に、料金など確認しようと思い郵便局で尋ねた。 「本などを択捉島に送りたいんですが」「は?」「北方領土です」「…」
帝都の郵便局員でも反応が鈍い。私としてははじめから「ロシア」というのは何だか悔しかったのだが、会話が成りたたず残念。現実的な妥協をし、おばあちゃんの筆記体をコピーした封筒d0007923_0503624.jpg宛名の中にあるРоссия Сахалинская обл.(ロシア・サハリン州)じゃあまりに不親切なので英語で「Russia」、ロシア本土に空輸されないよう「サハリン州」と漢字で書き加え、ちょっと考えて「択捉島」と続けた。漢字で島名を書くと返送されるという噂がある(うそだと思うけど)。カチカさまのおかげで何とか送ることができたんだし、あとは無事、届くといいなぁ。

・・・以上、とりとめもなくいろいろ書きましたが、一言で言えば、何かにつけて複雑な気分になった、というのが北方領土訪問の感想です。ここまでお目通し頂きありがとうございました。

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【参考】

d0007923_2202529.jpg北海道のサイトによると、終戦時、北方領土には、17,291人が住んでいたが、強制退去させられた後はその約8割が北海道に居住した。元島民の生存者は、8,251 人(平成17年3月末現在)で、半数以上亡くなっている。

最も島からの引揚者が多かった根室は、北方領土返還運動の原点の地。1945年12月、当時の根室町長が、マッカーサー元帥に宛てた領土返還の陳情書が、四島返還に関する陳情の第1号である。
根室市内では、「四島(しま)の家」という名の民宿も見かけた。

06年2月、根室をはじめとする北方領土に隣接する町などが、領土問題が未解決であるため地域が疲弊しているとして、「未来に希望の持てる取り組み」の提言を国などに対して行った。

その中には、「自由貿易ゾーン(経済特区)の形成」「四島在住ロシア人労働力の活用検討」他たくさんの要望項目がある。
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by itsumohappy | 2007-06-06 00:28 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(6)
2007年 06月 03日

国後島・択捉島上陸記 -4. 日本で5番目に大きい島、択捉

択捉島は大きい。国後(沖縄より若干大きい)の倍以上。
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青字が訪ねたところ。単冠(ひとかっぷ)湾は、1941年11月、南雲中将率いる連合艦隊が、真珠湾に向けて出航した場所。

終戦時の人口は約3,600人。今はロシア人が約7,000人住んでいる。ウルップ、シムシルとともにサハリン州クリル地区に(いちおう)属す(住民がいるのは択捉だけ)。   
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どんよりした空の下、またはしけを使って上陸。はしけは、普段は人間を運ぶものではないらしく、港でやりくりつかない時は待機となる。 
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上陸後、紗那(クリリスク)のクリル地区行政府で行政府長を表敬訪問。紗那には約2,700人のロシア人が住む。
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紗那の民家。あとで、上は戦前の日本の建物、「紗那郵便局」とわかった。
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島を支える水産加工会社「ギドロストロイ」 (ピンクの屋根)

当局からこの島の産業の9割が漁業、択捉はサハリン州で出生率が一番、等々の説明を受ける。その後、行政府2階にある博物館を見学。

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考古学の資料等約6,000点を所蔵。アイヌのコーナーもあり。択捉は希少な鉱物資源が多いとのこと。

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d0007923_1742112.jpgクリル小中学校で昼食。私は訪問中、たいがいのものはおいしく食べられたが、この時出された炊いたソバの実のピラフ?(ロシアではよくある料理らしい)だけはちょっと頂けず、かなり残してしまった。スープはどこで食べてもおいしい。

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クリル小中学校の教室で対話集会が行われた。国後同様、ここでも最重要の行事。テーマは、「共住」と「島の将来」。「共住」は日本側が提案したテーマで、そのまま受け入れられた。

ロシア人住民から、まず、「共住」にどれだけ現実味があるのか、政府も我々も択捉が日本に返還されることは考えていない。中国、韓国の会社が島に進出してきていることだし、日本と経済面で協力・発展していくことが有効なのでは?という声があがった。
島に60年住むと言う年金受給者からは、自分たちの政府すら信用できないのにどうして他国民を信頼できよう?という何だかロシア人らしい?意見が出た。また、この学校の生徒の一人は、いきなり共住云々言われても心理的にまだ準備できていない、と発言。

そうなのだ、単に「共住」と言っても、ここがどちらの領土に属するかをクリアしないまま話していても雲をつかむような感じで戸惑う。お互いにだ。それでもロシア人は、少なくとも日本人よりは他民族同士暮らすことに慣れているし、日本人と一緒に住むこと自体は苦しゅうないって人はいるだろう。
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クリル小中学校の前

「経済交流は帰属の確認をはっきりさせてから」と日本側が主張しても、ロシア人住民は、領土問題はわかるけど、とりあえずここはロシアだからこうして住んでいるし、そもそも我々にいろいろ言われてもねぇ…って思ってそうだ(あくまで想像)。日本側も、「友好親善」という交流事業の大事な目的をあまりぶちこわしたくないから、不法占拠だ!島返せ!と糾弾調になるのはやはり避けたい。かと言って管轄権を棚上げし、問題なさそうな形作ってもらって、一緒に商売できるといいねーとも言えないし(少なくとも集会の場では)。
ビザなし交流の事業で「対話集会」は重要行事であるが、話し合いに手ごたえはなく、何だか難しいものだと感じた。

日本の支援による発電装置
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日本政府が、北方領土返還後の具体的プランをどう練り上げているかは知らない。(まぁ当然やっているんでしょう。) 政府は、「北方領土に対するロシアの管轄権を前提とした行為を行うこと等は、北方四島に対するロシアの領有権を認めることにつながり得るもの」と言う理由(外務省サイト参照)で、日本や第三国の経済活動、観光等は容認できないとしている。しかし、現実には中韓の製品が売られているし、カナダとか非ロシア国人が観光にやって来ている。
 
択捉の関係者によれば、人口は増えているが予算は厳しく、年金は予算削減の対象にされやすい、大陸に帰りたがっている年金生活者も多いとのこと。そして今後整備が待たれる問題は?と問われると、水道、道路、港湾、電力…というようにいくらでも出てくる。
島の人々が日本の投資を切望するのはよくわかる。日用雑貨にしてもサハリンより根室から運ぶほうが安くあがるだろうし。
 
丘に立つ聖アンドレイの像。
海の守り神らしい。 

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集会後、ホームステイ(ビジット)宅のお迎えを待つ。受入家庭の数の関係で、ビジット組は夕食後、ロサ号で宿泊となった。

私は、同行者とЗамощникさん宅で宿泊。Надеждаおばあちゃんが迎えに来てくれた。 ご主人Владимирさんの運転で、まず海岸沿い付近をドライブ。と言っても雲がたちこめ霧雨が降り、周りの景色はけぶってよくわからない。車は、ミニ湖と化した水溜りを右に左によけつつお宅に向かった。途中に日本軍の戦車?の残骸があった。ダーチャも案内したいが、雨なので行かれない、とおばあちゃん。

Замощник家のお孫さんЛизаとПаша
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夫妻はウクライナからの移民。ご主人はオデッサの何とかインスティテュートで学び、エンジニアとして1973年に択捉にやってきた。昔は、北方地域への移住を促すために、ソ連政府による高い賃金・年金などの優遇措置があったのだ(道のパンフレットより)。

ウクライナだけの大きな地図が壁に張られ、棚にはプーシキン全集が並ぶダイニングで夕食。ワイン、ビール、ウオッカとすすめられたが、飲めない私は自家製というはまなすジュースを頂いた。
Надеждаさんが、山盛りのお料理の皿をいくつもどどーんと目の前に置いて下さった。
Владимирさんは、ビーツを餌にした豚で作ったウクライナのサーラは最高なんだ!と語り、ウオッカをがんがんあおった(国後でも見た光景だ…。)。
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Надеждаさんは、日本人ビジターを受け入れるのは数年ぶりなので今回不安だったが、いい人が来て(と、言っているんだろうと勝手に解釈)よかったと喜んで、カンパイ!カンパイ!と歓待して下さった。大昔に、サハリンからやって来た日本人を長く泊めていたそうだ(…政府による渡航自粛が出る前は、北方領土に遊びに?来ていた日本人もそれなりにいたらしい)。

巡回してきた通訳さん+ロシア語辞典+知っているわずかなロシア語単語+互いの英単語+身振り手振りなどを総動員して「会話」し、互いに疲れるとカンパイ!を繰り返した宴でありました。近所に住むお孫さんのЛизаが、「なんかハイになっている人たちだなぁ」という感じのうふふ顔で私たちに付き合ってくれた。Лизаはおばあちゃんに似て人懐こく、何だかんだ話かけてくる。お互いわからない会話をし、紙ナプキンで鶴やユリを折ってやった。
室内はボイラーをごんごんたいてくれてぽかぽか。Надеждаさんに服を全部脱がされ、ムームー(ロシアンサイズだ)に着替えさせられた。

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サンルームみたいなところで野菜や花を育てていた。たまたまグラジオラスの芽が出たところであり、おみやげのグラジオラスや野菜種に喜んでくれた。

近所に住む親戚、友人たちが入れ替わり立ち代りやってきてテーブルを囲んだ。家族のアルバムをいろいろ拝見。比較的裕福な一家なのだろう、トルコなど海外旅行の写真も多かった。出身地ウクライナの風景もなかなか美しい。「戦艦ポチョムキン」を観たと言ったら、オデッサの階段他観光名所をいろいろ説明して下さった。
我々が童顔に見えたようで、Надеждаさんはchildren!を繰り返し、なでたりキスしたり抱きしめたりが続いた。

そんなこんなでくたびれてきて寝ることに。ダイニングの椅子が簡易ベッドに変身した。お風呂を使おうとしたらさっきは出た水が出ない(水道管の途中で水を抜き取ったりする人がいるとそうなるらしい。)。まぁいいや。地上で寝るのは揺れなくて最高だ。と半分ぼーっとした頭で横になったが、普段やりつけないことを経験して体が覚醒したのか、いつもならどこでもそして誰よりも早く眠れる私がなかなか寝付けなかった。

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翌朝の気温は0度。やはり雨模様。まず紗那の日本人墓地にお参りした。
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商店はこの道路両脇に点在。中は明るくきれい。
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この日は日曜だったので、ギドロストロイの工場のかわりに同社の体育館(上)を見学。ジムなどもあり、地元民は無料で使える。
その後、別飛(レイドボ)に移動。天候は回復せず、また悪路のためかなり時間がかかってしまった。四駆でないと酔ってしまいそうだった。

別飛の風景
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別飛で歓迎コンサートがあった。
ここの人口は約1,000人。ウクライナ、ベラルーシ、ウズベキスタン、タジキスタン、モルドヴィア(もうどの辺りなのかよくわからない)からやってきた人たちが多いと説明された。
別飛にもギドロストロイの工場があるそうだ。悪天候のため埠頭見学は中止になった。

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紗那に戻ってステイ宅で昼食。択捉出立まであまり時間の余裕がなく、てんてこまいのНадеждаさん。ボルシチを頂いた。ロシアのスープ料理はおいしい。きゅうりの漬物(左上)は日本のものと同じような浅漬けでおいしかった。ロシア人は酸味のあるものが好きなようだ。
出かけにおみやげとカッテージチーズを巻いたブリヌイをたくさん持たせてくれた。
天気も悪くあまり見学もできなかった択捉だったが、このホームステイは強烈な印象を残した。

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見送られてロサ号に戻る。これからはひたすら南下、次下りるときは根室だと思うと何だか気も緩む。
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行けども行けども見える択捉の姿。大きな島なのだと実感。
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阿登佐(あとさ)岳。美しい形だ。

帰りの航行は順調で、寝入ってしまったせいか、また国後水道を通過する時がわからなかった。残念。

翌朝、古釜布沖で、また係員がはしけに乗ってきて、出域手続きを行った。昼過ぎに根室に上陸。直前に植物検疫などを受けた。やはり我々は「外国」に行ってきたのだ。
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すっきり晴れた空と羅臼山

根室に上陸して、舗装道路っていいなぁとしみじみ思った。根室の町がひどく明るく見えた。

都内に戻ってからは20度くらいの差がある気温に参ってしまった。それと通勤電車。現実が飛びすぎて心身がついていかない。たった数日の北方領土訪問にもかかわらず。駅下りて「朝日名人会」の看板を目にしたら何だかほっとして、ああ、帰ってきたんだ・・・と実感できた。
船がやはりこたえたようで、数日は目を使うと揺れるようなぼんやりした感覚が続いた。

(5月12―13日)
(長くなってしまったので、続く・・・)
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by itsumohappy | 2007-06-03 22:39 | 歴史・領土問題 | Trackback(1) | Comments(4)
2007年 06月 01日

国後島・択捉島上陸記 -3. 国後の光景と択捉への決死行

前夜に団員が訪問したあちこちの家庭の様子&頂いたお土産について語り合った。付近へのドライブに連れて行かれたり、ひたすら飲みまくったりいろいろだったようだ。言葉が通じない者同士は、飲食以外には「何かを見て時間をつぶす」パターンがお互いに楽かもねー、と結論。

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朝、起きたら窓の外に牛がのんびり。誰が飼っているのかよくわからない牛が町のあちこちをうろついている。野良牛化しているのも多い。

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朝食は町のレストランで摂った。ブリヌイだけでもお腹いっぱいになる。おいしかったのでいくつも食べた。

古釜布の町から車で約1時間、羅臼山を回りこむように道路を南下し、メンデレーエフ空港に向かった。途中の道には、簡単な舗装らしきところがあったが、ごく一部のみ。

風景は、頼りなげな白樺の林、低い松の茂みが続き、道路を見なければ軽井沢みたいな日本の寒冷地の景色とよく似ている。それでも夏来ると案外暑いらしい。
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メンデレーエフ空港ビル(に相当する建物)

到着した我々を見て、ここで飼われている犬が大喜びで走り回った。空港周辺には何もなく、冷たい風が吹き抜け、ウグイスが鳴いていた。
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ユジノサハリンスク(サハリン)から40人乗位の飛行機が通年週4便飛ぶ。常に満席らしい。
サハリンまで1時間40分くらい。距離のわりに時間がかかるのは、飛行機のせいか?(アントノフ24というプロペラ機) 霧が多い夏場より寒い時期の方が欠航が少ない。この空港の自慢は、根室の中標津空港より滑走路が50メートル長いこと。その滑走路というのがこれ↑。

何という工法なのか、鉄板?がつないである平らじゃない地面。これでも路盤が交換されたあとである。悪路のため、06年10月から12月末まで閉鎖されていたのだ。クリル発展計画の一環として滑走路延長工事の予定もある。

滑走路脇移動路の地面はこれ↓  古くなると民家の塀などに再利用される。
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写真や話などに夢中になっている我々にかまってもらえず、入口でしょんぼりしていた犬にカメラを向けたら喜んで寄ってきた。犬も人懐こい。


何でメンデレーエフ空港と言うのか尋ねるのを忘れた。水兵リーベの学者メンデレーエフ或いはその息子のメンデレーエフ(報道写真家。ニコライ皇太子の世界旅行に随伴し、1891年来日。大津での写真も撮っている。)にちなんだものか。

d0007923_1735239.jpgここの道路脇にも“курильский”看板が。

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東沸にある日本人墓地へ向かった。墓地はこの池に沿って奥(写真の手前)に入ったところにある。

d0007923_17371535.jpg東沸の日本人墓地

ここもしんと静か。道からかなり奥に入った山の斜面にひっそりと墓石が集められている。
お墓前に植えてある水仙が小さいながらも花を付けていた。

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墓地の辺りの山にたくさん咲いていたエゾエンゴサク。
元島民の方が教えて下さった。蜜が甘いそうだ。根は漢方薬にもなる。花の色は青系のバリエーションでいろいろ。
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ギョウジャニンニク。
これも道の方に教わった。葉っぱをおひたしなどにする。昔はアイヌねぎと呼んだが、今はそういう言い方はあまりしないらしい。道民の皆さんは口々に、こんな立派なのは手に入らない!とやや熱くなっていた。ロシアでもきざんでピロシキの具にしたりするそうだ。

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山すその一番奥にある墓石に道民の方がギョウジャニンニクをそなえた。

東沸あたりまで来ると携帯電話の電波が届く。ただ電波を発する装置は島に基本的に持ち込めないことになっているので、おおっぴらには使えない。
雪をいだいた美しい知床の山なみを眺めながら古釜布に戻った。北海道から国後の羅臼山が見えるように、こちらからも北海道がよく見えるのだ。
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国後の風景はなだらか。まだ春先の気候で、緑が少なく殺風景に見えたせいもあるが。元島民の方々に尋ねると、川がなくなるなど地形が様変わりしていて昔の面影はないという。これまでの地震、津波で海岸付近もさらわれているらしく、昔住んでいたあたりも全然わからないと語っていた。

ウサギとか何か動物がいないか景色を見ていたが、何も目にとまらなかった。あとで専門家に聞くと、北方領土には鹿はいないとのこと。根室にはあんなにいたのに。熊は多く、山を登った跡があったそうだ。
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古釜布の音楽学校

町の子供たちが通う学校。お稽古ごとの学校とのことで、ヤマハのようなものか。小中学生位の男女が、入れ替わり立ち代わり歌や踊りを披露してくれた。これがきちんとした指導を受け、練習を重ねていると思われるものだった。
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d0007923_17413316.jpgバヤン(アコーディオンみたいの)、バラライカなどの合奏やローシカ(木さじ)を使った出し物も上手で、そのロシアらしさにまた何だか複雑な気分になった。
けーむりたなびくとまやーこそ~と「われは海の子」を披露してくれた(左)。この子達に限らず、ロシア人の発音する日本語はかなり自然に聞こえる。わーがなつかーしきすみかなれ~。なかなか意味深長な選曲であった。

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古釜布の商店街付近と店内
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商品はサハリンから運ばれるらしい。私は食料品しか見なかったのだが、衣料品などは中国製が多かったそうだ。島に来てとりあえず目にとまる日本のものと言ったら中古車くらいだ。食料品の値段は日本のに近い(安くない)。書店はないらしい。カウンター脇に雑誌が数冊のっている程度。
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簡素ながらも美しい教会

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友好の家で夕食後ほどなくして、択捉に向かうため、はしけに乗船。岸壁には、団員が昨晩お世話になった家の方々が見送りに来ていた。
女の子たちがカチューシャを歌ってくれた。我々を見物していた女の子2人組に飴をあげたらぱっと顔を輝かせてかわるがわる抱きついてきた。
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おりしも低気圧がやってきていて海は荒れ模様。はしけに乗ったはいいが、波に揺られてなかなか停泊中のロサ・ルゴサ号に平行してつけることができない。ロープがうまくかけられず、はしけが斜めになって先がどーん!とかなりな衝撃でロサ号にぶつかる。去年は、はしけに当てられてロサ号の窓が割れてしまったそうだ。

ロサ号へ渡る板がシーソーのように動いて、かなり危なかった。波の様子を見ながら、今だ、それ行け!とばかり少しずつ乗り移った。
結局、船は低気圧と一緒に北上。進むほどにアップダウンが激しくなった。翌日の択捉上陸に向け荷物の整理をしていたのだが、夕食を食べ過ぎたこともあって、だんだん気分が悪くなってきた。頭も働かず、荷物を部屋にめいっぱい広げたままで整理を中断。
そのうち坐ってもいられなくなり、間断なくぐわわぁぁんと来る波に呼吸を合わせるようにしながらベッドにじっと横たわるしかなかった。

北方領土の周辺海域は、海流の渦場であり、国後水道(エカテリーナ海峡)は暖流・寒流がぶつかり合う難所だそうだ。そこを通ると船が回るような感じですぐわかるよって事前に聞かされ、ちょっとわくわくしていたのだが、いつ通過したのか全然わからなかった。一晩中、最初から最後までがんがん揺れていたから。

あとで聞けば、海上風速25mに達したとのこと。これってもし陸上であれば、屋根瓦が飛び、木が折れ、煙突が倒れる位の暴風らしい。
そんなこんなで、予定より3時間半遅れ、約16時間かかって択捉島の内岡(なよか/キトーブイ)沖にたどりついた。ほとんどの人が朝食をとる元気もなく、よれよれ状態だった。

気温は4度で雨。気持ちも沈んでくる感じだった。

(5月11日―12日)
(続く…)
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by itsumohappy | 2007-06-01 00:30 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(2)