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2007年 01月 30日

アルセーニエフ 『デルスウ・ウザーラ 沿海州探検行』


   ・・・突然、彼はひざをついて、こう言い出した。
   「カピタン!どうか、わしを山へいかせろ。わし、町には、ぜんぜん、
   住めない。薪買う。水にも金いる。木切る、ほかの人、おこる」
   私は彼をおこして、椅子に坐らせた。
   「いったい、どこへいくつもりか」 私はきいた。
   「あそこへ!」 彼は遠く青いヘフツィルの山なみを指さした。



d0007923_0481119.jpg『デルスウ・ウザーラ』は、ロシア人探検家アルセーニエフ(1872~1930)が、1906~07年にかけて行った沿海州ウスリー河流域の探検の紀行記である。デルスウは、アルセーニエフ一行の案内をつとめたゴリド族(ナナイ族。北方ツングース系少数民族)の老人(と言っても60歳位)。

まだ未開の地であった沿海州地方の厳しくも美しい自然と、そこに住む少数民族デルスウが生き生きと描かれている。デルスウの超人的な能力(というより現代人が失ってしまった自然と共生するための知恵と観察力)を物語る数々のエピソードが印象的。
霧や雨の音、鳥の向いている方向、銃声の響き具合で天候を予測する。足跡一つを見て、人種、年齢、健康状態をぴたりと言い当てる。そして時には身を挺して自然の猛威に襲われるカピタン(隊長)一行を危機から救う。

自然を畏れ敬い、タイガに存在するものは、魚も虫も、霧までもデルスウにとっては全て「ひと」。無駄な殺生はせず、食べ物はその場の皆(人間とは限らない)で分け合う。
しかし、ハンターとしての誇りを持っているので、魚が「悪態をつく」のや、アザラシが人間を「数える」のは我慢できない。

アルセーニエフは、そんなデルスウの考え方や生活ぶりを紹介する傍ら、先住民族が、中国人、ロシア人、日本人たちの沿海州地域への進出に伴い、徐々に生活の場を奪われ(中国人の搾取ぶりがむごい)、伝染病まで持ち込まれて苦しめられていく悲劇を語っている。
親子ほども年の違うアルセーニエフとデルスウの互いに対する尊敬と友情も、ただの探検記ではないこの本の読みどころだと思う。

新参者が持ち込んだ天然痘で家族を全て失い、孤独なデルスウは、ある「事件」をきっかけに森での生活を続けることが困難になる。アルセーニエフは、探検がいったん終了した後、デルスウをハバロフスクに連れて行き、街中で一緒に暮らす。けれどもデルスウは街の生活に馴染めず、ひとり森に去っていく。はじめに紹介したのは、デルスウとカピタンことアルセーニエフの別れの場面。

本来なら名もなき少数民族であるが、デルスウはこの本によってその名を後世に留めた。
私が読んだのは『デルスウ・ウザーラ』(1930年版)の長谷川四郎による改訳(1965年)で、平凡社東洋文庫シリーズのひとつ。なので、実に無味乾燥な装丁。大きな書店でないとないかもしれない。悪魔も出る深いシベリアの森はやはり写真で見たくなる。この紀行の時の記録写真ってあるのかなぁ。
ちなみに、写真家故星野道夫氏は常にこの本を持ち歩いていたそうだ。
   
   囲みの中の色つき部分が探検した流域
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d0007923_045797.jpg絵本もある。『森の人 デルス・ウザラー』(群像社)
パヴリーシン氏はシベリアの画家だそう。やや渋い感じの絵本。印象的なエピソードはみな入っている。

また、1975年に黒澤明監督が映画化した(日ソ合作)。1976年アカデミー賞外国映画賞受賞。前から気になっているのだけど、イメージどおりか不安でまだ観ていない。
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by itsumohappy | 2007-01-30 01:04 | 文学・本 | Trackback | Comments(4)
2007年 01月 20日

大鵬とロシアとの絆

サハリンねたが続きますが、「巨人・大鵬・卵焼き」で有名な大鵬の前半生についてです。

●父はウクライナ人
元横綱大鵬(1940~)は、旧樺太の敷香(しすか:現ポロナイスク)生まれ。両親(父:ウクライナ人マルキャン・ボリシコさん;母:北海道出身の納谷キヨさん)は、敷香で牧場を経営していた。大鵬は、皇紀2600年に生まれたので「幸喜」、ロシア名「イワン」と名づけられた。

d0007923_2246747.jpg父ボリシコさんは、1885年頃ウクライナ・ハリコフ州生まれ。コサックだったらしい。帝政ロシア政府の極東移民募集に応じて、農民の両親と1900年代はじめにサハリンに入植した。1918年頃、北部の州都アレクサンドロフスク市のロシア移民の未亡人と結婚。一女をもうけ、商売を営んだ。
アレクサンドロフスクは、尼港事件(1920年:日本人居留民がパルチザンに虐殺された)の報復で日本軍に占領された。以来、同地への移民が日本全国から集まり、ボリシコさんは日本軍にも協力して特需景気にあずかった。

ロシア革命により日露国交はいったん断絶。国交を回復した日ソ基本条約(1925年)により日本軍がアレクサンドロフスクから撤退すると、革命政権を嫌ったボリシコさんは、単身、日本統治下の大泊(おおとまり)に移住後、納谷さんと出会った。

●樺太から決死の脱出
1944年、戦況の悪化により、樺太庁の命令で父ボリシコさんは、大泊近郊の外国人居留地に一人移され、一家は離れ離れになった。
45年8月8日、ソ連は対日宣戦布告し、南樺太への侵攻を始めたため、母・兄姉とともに日本に引揚げることに。当時5歳の大鵬は、大混雑した駅ホームで一人はぐれ、泣いていたところを動き出した汽車の上から兄が発見、ホームにいた警防団の人が放り投げてくれた。
艦砲射撃が鳴り響く中、無蓋列車で2昼夜ののち着いた大泊から、終戦直後の20日、引揚船「小笠原丸」に乗った。相前後して出港した他の引揚船2隻は、8月22日、留萌沖でソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。大鵬一家は稚内で下船、小樽に向かったその船はやはり留萌沖で撃沈された。

●父はスターリニズムの犠牲に
その後、母は再婚し、義父の仕事の関係で一家は道内を転々としたが、大鵬10歳の頃、弟子屈町に落ち着いた。
1956年に相撲界入りし、61年、大関に昇進して同年21歳で横綱に。71年に引退するまで32回優勝し、高度成長期の60年代の英雄となった。
大鵬は父の命日を勝手に決め、位牌に手を合わせていたそうだ。生き別れた後のボリシコさんの生涯は、2001年にサハリン州の文書等で以下のように確認されるまで不明だった。

ボリシコさんは、1948年、コルサコフ(大泊)でソ連当局に逮捕された。拘留中の49年、「反ソ宣伝」容疑で再逮捕、自由剥奪10年の刑を受けた。外国とのつながりのあった人々が徹底的に弾圧されたスターリン時代、サハリンでも次々と無実の人々が捕らえられた。
スターリン死去の翌54年、ボリシコさんは恩赦を求めて認められ出獄し、ユジノサハリンスクのサハリン州立博物館の守衛となった。周囲の人には、妻子は死んだと語っていたそうだ。大鵬が活躍しはじめた頃の60年11月、肺炎で死去。孤独な最期だった。その後、ゴルバチョフ時代の89年になって公式に名誉回復された。

●異母姉はモスクワに在住
大鵬の異母姉ニーナさんは、2006年現在86歳、モスクワに住むという。
父ボリシコさんは、実子のニーナさんだけ連れてアレクサンドロフスクを立ったところ、5人いた異父姉のうちの1人が、馬で数キロ追いかけてニーナさんを連れ戻した。革命政権の弾圧を恐れたニーナさんの母は、ボリシコさんの写真を全て焼き捨てた。

ニーナさんが、異母弟「タイホウ」の存在とその活躍を知ったのは1964年になってから。東京にいた姉が、外国渡航が一部可能になった雪解け時代になってモスクワを来訪し、40年ぶりに再会した時話してくれた。

2001年にニーナさんを「発見」した翻訳家小山内道子氏が、05年にニーナさんに会った際、大鵬に会いたいか訊ねたところニーナさんは、「・・・出来たら会ってみたいけど・・・でも、どうやって?・・・うちの息子と大体同じ年だそうね・・・」と涙をにじませて答えたそうだ。

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大鵬は、今は相撲協会を引退し、国技館内にある相撲博物館の館長を務める。大鵬部屋を継いだ大嶽部屋には北オセチアからやってきた露鵬がいる。
最近は、毎年宗谷岬を訪れてかつての故郷に向かって海を眺め、運命の原点に思いをはせる。健康が許せばサハリン、ウクライナを訪れたいそうだ。

 弟子屈にある大鵬記念館 
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ゆかりの地、ウクライナ・ハリコフの村人は「大鵬さんは、私たちの英雄」「私たちの誇り」と語っている。1998年にはハリコフ相撲協会が結成され、男女の選手が活躍中とのことだ。

(2001年2月6~8日、10日北海道新聞、2月16日東京新聞、05年8月15日毎日新聞、06年9月20~21日北海道新聞 他より)

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【樺太】 
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約(1905年)で、樺太の北緯50度以南が日本領となった。1907年、樺太庁が設置され、本格的な植民、開拓が始まった。終戦時の南樺太の人口は約40万人。敷香には王子製紙の大規模なパルプ・製紙工場があった。

【引揚船の撃沈事件】
3隻の乗船者のうち約1,700人が犠牲となった。当初国籍不明の潜水艦とされていたが、1992年、ロシア側の文書でソ連潜水艦と判明。しかし、日露政府は公式に確認していないため、遺族はロシア側の謝罪を求めて日本外務省に要請している。
潜水艦のうち一隻は攻撃後に行方不明となった。2005年、宗谷海峡でロシア太平洋艦隊等が捜索したが、発見されなかった。

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by itsumohappy | 2007-01-20 23:16 | その他 | Trackback | Comments(0)
2007年 01月 14日

最近の話題から

最近の報道から、今回はサハリンに関するものを選んで紹介します。

●樺太の思い出アルバム製作します
札幌の写真専門誌「フォートほっかい」は、北海道・サハリンの文化交流の一環として15年前から年1回、札幌とサハリンで交流写真展を開き、04年からはロシア語の日本写真・映像情報誌(下)を発行している。

 雑誌Фото на Сахалине 第1号
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長年の活動に対して、この度ロシア側から、何か写真を通じた事業に協力したいという申し出があり、サハリン州写真芸術家協会の写真家達と「旧樺太想い出アルバム製作実行委員会」を結成した。雑誌発行人の片山氏は、以前から個人的な範囲で、元樺太在住者に故郷の写真を撮ってあげていたが、個人の力では限界があった。

樺太からの引揚者は40~50万人。死ぬまでに故郷を見たいという人は多いが、ビザ・言葉・外国人料金(ユジノサハリンスクに5日滞在すると、交通費等含め20万位かかるそう)等々などの問題で、高齢の年金生活者には渡航は難しい。北海道在住の引揚者より関東・関西・九州の引揚者達の方が、望郷の想いが特に強いそうだ。そこで、サハリンの写真家達の協力を得て、樺太時代の住所をもとに地名を調査し、街並みや家のあった場所を撮影してアルバムを実費程度で作るという。

料金等詳しくはこちら。↓ ユジノサハリンスク近郊の場合で3万5千円(写真30カット)。
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【2007年1月5日北海道新聞より】


●サハリン州政府、領土問題の冊子を刊行
札幌から飛行機で1時間半のサハリン島。宗谷岬から43km、晴れた日は南端が見えるという。サハリン島は、クリル諸島(千島列島&北方領土)とともにロシア極東地区サハリン州(Сахалинская область)に属す。

在ユジノサハリンスク日本総領事館によると、サハリンでは通年、北方領土返還反対キャンペーンによる対日強硬論が主張されている。現州知事は、「露日経済関係の発展」を課題とし、領土問題は中央の専権事項とする姿勢を示しているが、2月7日の「北方領土の日」での日本領事館前での州民の抗議集会は恒常化し、州議会による抗議決議等も繰り返し行われているらしい。

06年8月、州政府は、「北方領土と北海道間の国境は、第二次世界大戦の結果確定済み」と主張する領土問題の冊子「日ロ関係におけるクリール諸島」(右)d0007923_18171933.jpgを州としてはじめて発行した。日本と関係のある企業や民間団体に配り、日本語版の作成も検討中とのこと。05年12月にロシア政府が承認した、「クリール発展計画」(07年~15年の間に約179億ルーブルをクリール発展のために投入する計画)を受けて、サハリン、クリール地方では経済発展への期待が高まっており、領土返還への反発が背景にあるのではと伝えられている。

 97年に制定されたサハリン州旗
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【2006年8月9日北海道新聞より】


●サハリン州立博物館、日本の協力で屋根瓦葺き替え
サハリンに残る日本建築のひとつ、ユジノサハリンスク(旧:豊原市)のサハリン州立博物館は、昔の樺太庁博物館。1937年、当時樺太地方最大の地方財閥だった「遠藤組」が建設工事をした。
築後約70年で老朽化したため、07年春にまず屋根瓦が葺きかえられる予定である。瓦は、愛知県三河の三州瓦で、サハリンで製造されていないため、「遠藤組」の関連会社だった「伊藤組土建」(札幌)が調達に協力することになった。
「伊藤組土建」は、北海道拓殖銀行大泊(現:コルサコフ市)支店も手がけた道内でも歴史ある建設会社である。

05年、独立行政法人万博記念機構(国内外の文化交流を援助している)から1,400万円の助成金が支給されることになり、瓦の葺き替え工事が可能となった。
博物館全体の改修には最低8,000万が必要。

 サハリン州立博物館(写真:伊藤組土建
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【2006年10月3日北海道新聞より】
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by itsumohappy | 2007-01-14 18:28 | ロシア | Trackback | Comments(2)
2007年 01月 08日

日本の守護聖人

ロシア正教会では、ユリウス暦により1月7日が降誕祭(クリスマス)。グレゴリオ暦より13日遅れる。しかし、世界中の正教会全てが7日にお祝いしているわけでもないらしい。ギリシャ正教会などはグレゴリオ暦を採用しているので、クリスマスは12月25日である。

日本正教会(日本ハリストス正教会)も25日に祝うそうだ。ただ、その他の行事(復活祭など)はユリウス暦を基に行われる。日本では、12月25日がクリスマスであることが広く定着しているため、宣教上の配慮らしい。

d0007923_22345819.jpg日本に正教を伝道したのは聖ニコライ(1836-1912)(左)。1970年列聖され、日本の守護聖人である。

司祭ニコライ(俗名イワン・カサートキン)は、アレクサンドル・ネフスキー大修道院にあるサンクトペテルブルク神学大学で学び、シベリアを馬車で横断して1861年、開港まもない函館の領事館付司祭として来日した。ゴローウニンの『日本幽囚記』を読んで日本人に愛情がわき、日本への伝道を志願したそうだ。高田屋嘉兵衛の大ファンで、遺族にも面会した。

来日の頃は維新前の激動期。前年には桜田門外の変、翌年には生麦事件などが起きている。キリスト教もご法度の時代である。司祭は、1868年、日本人3人に密かに洗礼を行った。この時が日本正教会の創立とされる。

宣教団の設立や聖堂建設の資金集めの際には、プチャーチン(1855年の日魯通好条約を締結した軍人。のち政治家となった。)も支援した。日本研究、日本語学習に努め、函館のある書店が店じまいした時は、法華経から戯作本まで全て買い取ったそうだ。

1872年、上京して神田駿河台にロシア語学校を設立し、東京を拠点とする布教活動を開始した。1891年、東京ハリストス復活大聖堂(ニコライ堂)が完成。日露戦争時にも日本に留まり、活動は半世紀に及んだ。
(2005年9月25日 朝日新聞、御茶ノ水の泉通信千代田区地域サイトより)

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d0007923_22405463.jpgニコライ堂(左)は7年がかりで建設された。工事費24万円。鹿鳴館は18万円だった。

谷中にある墓所(台東区HPより)。葬儀には明治天皇から生花が下賜された。 d0007923_2242826.jpg
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by itsumohappy | 2007-01-08 22:56 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(2)