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2006年 08月 28日

日ソ国交回復50周年

今年は日ソ国交回復50周年ということで、1年かけてロシア文化フェスティバルが行われている。(ちなみに7~9月のメインはモスクワサーカス(ボリショイサーカス)。馬グループと虎グループで公演中)
国交を回復した日ソ共同宣言(1956年)について以下、超簡単に。

日本は、サンフランシスコ平和条約(1951年)で独立を回復したが、当時のソ連は千島などの領土問題の不満からこの条約への調印を拒否したので、ソ連との国交回復はかなわなかった。

ソ連との国交回復に意欲を燃やしたのは鳩山一郎首相。1954年、日本民主党の勝利により、同党総裁として組閣し、対米一辺倒ではない「自主外交」路線を打ち出した。
当時の日本外交面での大きな目標が、シベリア抑留者の日本帰還と国際連合への加盟。戦後始まった冷たい戦争の影響もあってソ連の拒否権行使で日本は国連に加盟できないでいた。
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  東京・音羽の鳩山邸
  1955年1月早朝、元ソ連通商代表部主席代理ドムニツキーが日ソ関係正常化
  を申し入れる書簡を直接鳩山邸に持参し、交渉は非公式な形で開始された。



1953年のスターリンの死後、ソ連で「平和共存」の気運が高まったこともあり、日本との国交回復交渉が55年スタートした。交渉の争点は領土問題となった。
6月に始まったロンドン交渉で、日本は歯舞・色丹の返還を訴えた。意外にもソ連は2島の返還を申し出たので、日本はさらに2島(国後、択捉)含めた4島返還を求めた。ソ連は態度を硬化させ交渉は中断した。

その後ソ連は北洋海域にブルガーニン・ラインを設定して日本のサケ・マス漁船を締め出した。水産業界は政権維持に無視できない存在だったこともあり、56年5月、交渉再開を条件に日ソ漁業条約が調印された。
56年7月、今度はモスクワで交渉が再開。ソ連の、2島は返還するが、残りの帰属未定地はソ連への主権を明示するという条件を、日本側全権(重光葵外相)が受け入れかけた時、米国務長官ダレスが、日本が千島へのソ連の主権を認めれば、アメリカは沖縄を占領し続けると警告した。

 1956年10月20日の朝日新聞
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鳩山首相は、平和条約を結ばず、領土問題を棚上げする形での国交回復を決意。訪ソして56年10月、ブルガーニン首相との間で日ソ共同宣言が調印された。
折り合いがつかなかった領土問題を継続交渉することについては、その旨が記された公文書簡(松本・グロムイコ書簡)の公表で妥協し、条約には明示されなかった。同年末に批准書が交換された直後、日本は国連加盟がかない、抑留者も帰還できた。

戦後の日ソ(日露)の領土交渉の出発点となった日ソ共同宣言。ここに規定されたように平和条約が結ばれていたら歯舞、色丹は日本に返っていた。しかし、2島の返還で終結してしまうので、いまだに平和条約は結ばれない。国境が定まっていないため先般のような日本漁船銃撃事件が起きる。50年間実質進歩がなかった(1島も帰ってこない)領土交渉だが、今後、政府はどんな手を打っていくのだろう?

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【日ソ共同宣言第9条】
日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

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【参考】
●松本俊一 『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』朝日新聞社
  国交回復交渉を務めた全権の回顧録。交渉の様相が詳しい。

●原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点 アジア太平洋地域の冷戦と
 「戦後未解決の諸問題」』
  北方領土問題は冷戦によって誕生したことが詳しく解説されている。
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by itsumohappy | 2006-08-28 00:09 | 歴史・領土問題 | Trackback(1) | Comments(0)
2006年 08月 20日

本田良一 『密漁の海で 正史に残らない北方領土』

根室半島沖で8月16日に起きたロシア国境警備隊による日本漁船銃撃・拿捕事件。死者が出たのは50年ぶりということで、大きなニュースになった。北方領土問題が一番不幸な形でクローズアップされてしまった。国後島の「友好の家」(いわゆるムネオハウス。しかし「友好」とは皮肉な名前だ)に留め置かれている乗組員に面会した外務政務官は、拿捕の状況などは尋ねなかったということだが、報道を見る限り違法操業(つまり密漁)の疑いが強いようだ。
水産資源は、根室側よりロシア側のほうが豊富で、根室半島近くだとカニが一日100キロがせいぜいなのが、あちら側に入ると多くて1トンに達するそうだ。1マイル1トンとも言われるらしい。

一部の新聞でしか報道されていないが、拿捕された坂下船長は、1980年、レポ船事件で検挙され罰金20万円の判決を受けた過去があるとのこと。(8月17日産経新聞)
レポ船(レポート船の略)は、日本の情報をソ連に提供し、その見返りにソ連側の「赤い海」で拿捕されずに操業できた。船長は、当時、露文タイプライターなどの物品をソ連国境警備隊に提供し、「北海道海面漁業調整規則違反」(無許可操業)で摘発された。

d0007923_1294324.jpg北海道新聞の記者の著書『密漁の海で 正史に残らない北方領土』(凱風社)という本に、「国境の海」で操業する根室漁民のある歴史が書かれているので、内容を若干紹介する。

この本によれば、レポ船の登場は、終戦直後の47年。ソ連に提供するものは当初は、せっけんやボールペンなど生活物品だったのが、新聞、雑誌、地図、官公庁名簿、領土返還運動者リスト、電話帳、自衛隊・警察の施設情報などになった。レポ船にはペンキで目印をつけ、国境警備隊から拿捕されることなく安全に操業できた。
レポ船団を組織する元締めには売り上げの一部が上納され、「レポ船御殿」もできた。日本側海域だけで操業する真面目な漁民ももちろんいたが、レポ船は向こう側の資源を獲るので誰にも影響を与えず、その存在は地元経済を潤す意味でも否定されなかった。
ある意味売国行為であるが、面白い?のは日本の公安、警察、海保、自衛隊がレポ船主からソ連の情報収集をすることがあった点。

東西冷戦が終結した後、レポ船に代わる主役となったのが「特攻船」。船外機を余分につけて馬力を3倍増位にした船で密漁し、高速で警備艇から逃れる。80年代終わり頃、特攻船は100億円産業と言われるほどになっていた。アングラ経済であるから、非合法組織も介入していた。
しかし、ゴルバチョフの訪日をきっかけに日ソ関係改善の動きが高まり、警察、海保による特攻船壊滅作戦が開始され、91年ごろ特攻船は事実上消滅した。密漁の背景にある構造的な問題が大きく、徹底的な取り締まりを行うにあたっては地元民の意識改革が迫られたそうだ。

ゴルバチョフ来日後、根室港はロシア人に開放された。ロシア船のもたらすカニ、ウニなどが根室の“救世主”となった。北方領土と直接交易はできない建前上、カニの供給ルートが必要となる。今度はロシア人水産マフィアと日本の暴力団が結びつく構図ができた。

・・・とまあ悪者ばかり出てくるノンフィクションだが、近年の領土交渉に関する解説も比較的詳しく出ているので興味のある方は読んでみて下さい。
二度と不幸な事件が起きないよう、政府は領土問題の早期解決に努力してほしいです。
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by itsumohappy | 2006-08-20 01:27 | ロシア | Trackback(1) | Comments(2)
2006年 08月 12日

映画 「僕の村は戦場だった」/「ひまわり」

戦争の残酷さを描いた2作品について。

アンドレイ・タルコフスキー「僕の村は戦場だった」(1962年、ソ連) 

d0007923_12482579.jpgなんとなく苦手なタルコフスキー監督だが、この映画はわかりやすい。冷徹なまでにリアルなドラマで、観ていてつらい。独ソ戦で村が戦場となり、家族を失った少年のひきつった顔ばかりが印象に残っている。芸術的という形容は戦争映画にはふさわしくないが、白黒の精緻なコントラストの画面に、怒りと悲しみが静かに広がる。自ら志願して対独パルチザンに協力し、戦地を駆け回って斥候活動をするこの少年は12歳の設定。独ソ戦の開始は1941年なので、少年は1930年前後の生まれである。つまりタルコフスキー(1932年生まれ)自身の少年時代にあたる。同世代にはゴルバチョフ、エリツィン両元大統領(1931年生まれ)がいる。

観るべき映画のひとつであると思うが、救われない、いたたまれない気分になる作品である。制作された1962年はキューバ危機が起きた年。冷戦の時代、この映画はあまり当局に受けなかったかもしれない。タルコフスキーは、表現の自由を求めて亡命したが、その後ほどなくして1986年、病没した。


ヴィットリオ・デ・シーカ「ひまわり」(1970年、イタリア)

d0007923_12491486.jpgどこまでもどこまでも続く画面いっぱいのひまわり畑が心に残る。私の、ウクライナのイメージが決定づけられた映画。イタリア映画らしく情感、哀感たっぷりで、有名なテーマ音楽も印象的。私が観たのは再上映時だが、ソ連は「悪の帝国」などと呼ばれている時代で、まだまだ謎の国だった。西側初のソ連ロケが行われた記念すべき作品で、映画を観ながら、これがモスクワの地下鉄、赤の広場・・・と感嘆した覚えがある。

スターリンが死んだことだしと言って、出征したまま帰らない夫を単身捜しに行くソフィア・ローレンの、存在感のある演技はすばらしい。スターリンの死は1953年、戦争が終わってしばらく経ってもさまざまな事情でソ連から帰還できない人々がいたのは日本人の場合と同じ。共演のソ連女優、リュドミラ・サベリーエワの、ローレンとは対照的な清楚な美しさも心に残る。
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by itsumohappy | 2006-08-12 12:58 | 映画 | Trackback(1) | Comments(4)
2006年 08月 08日

1945年夏

8月は、戦争により世の中が壊滅した歴史を想起し犠牲者を悼む季節。第二次世界大戦集結から61年。戦争の話は私は本などでしか知らないが、当時の日ソ関係における出来事から少々。

太平洋戦争末期まで日ソは、条約により中立を保っていた。しかし、土壇場に来てソ連は宣戦布告。この行為とその後の抑留者の問題が、日本人のソ連に対する負のイメージを決定づけたと思う。

●日ソ中立条約の破棄とソ連の参戦
日本は、北方の安全を確保するためソ連との中立条約を構想し、1941年4月、日ソ中立条約が締結された。
同条約は、日ソ友好関係の維持と両国の領土の保全・不可侵を尊重することを約束し、一方が第三国から攻撃された場合は、他方は紛争の期間中中立を守る義務があるとされた。効力は5年間で、廃棄するためには期間満了1年前の通告が必要とされ、通告のない場合は、次の5年間の自動延長が定められた。

1941年12月、日本は真珠湾、マレー湾を攻撃し米英に宣戦布告して太平洋戦争が始まった。しかし翌年、ミッドウェーで大敗してからは日本の敗色は次第に濃くなっていった。
日本との戦争終結のためにソ連の参戦を求めたのはアメリカ。交換条件は日本の領土だった。極東の戦争問題はヤルタの非公式協議で内密に処理されていた。

ソ連は、独ソ戦終了以前より極東に兵力を移動させていた。満州、朝鮮での攻撃を前提に、北海道への侵攻も念頭に置き、対日戦の準備に着手した。1945年4月、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告し、同条約は翌年4月に失効することとなった。
1945年7月、日本政府は、ポツダム宣言を「黙殺」。8月6日、アメリカは広島に原爆を投下した。8月8日、ソ連は、有効期間内であった日ソ中立条約を破って日本に宣戦を布告した。

国境での戦い
8月9日未明、ソ連は満州、南樺太に侵攻した。同日、長崎に原爆が投下された。15日、終戦の詔書が発せられ、太平洋戦争が終わった。
ソ連太平洋艦隊による千島への侵攻は15日に命令されており、16日、ソ連はカムチャツカ方面の行動を開始し、18日、千島の北端、シュムシュ島に上陸して日本軍との戦闘が始まり日本側は約千人が戦死した。戦争は終わったはずなのに戦っていたのだ。
停戦協定成立後、ソ連軍は千島各島に駐屯する日本軍の武装解除を行いながら南下し、9月5日、歯舞に至るまでの占領を完了した。

ソ連は、樺太には国境と西海岸北部から侵攻し、8月20日、真岡に上陸、日本軍との間で砲撃戦となり、22日には豊原が空爆された。同日、停戦の協定が成立したが、ソ連の潜水艦による引き揚げ船攻撃の死者を含め、戦闘終結まで約4千人の日本人が犠牲になったといわれる。

1946年2月、南樺太と千島はソ連最高会議幹部会令によりソ連領に編入され、翌年、それに伴いソ連憲法が改正された。

スターリンの北海道分割要求
日本の無条件降伏に対し、各地域における日本軍の降伏先等の指示を定める「一般命令第1号 」案が1945年8月、トルーマン大統領からスターリンに送られた。この案では、日本軍がソ連に対して降伏すべき地域を「満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太」としていた。
両者の交渉は秘密の電報で行われた。

スターリンは、ソ連に明け渡される領域にヤルタ会談に基づき千島列島全土を含めること、また北海道の留萌から釧路を結ぶ線を境とする北半分も同区域に含めることを要望した(8月16日付)。トルーマンは、ソ連の北海道北部占領は拒否したが、クリルの全てがソ連に明け渡される領域に含むよう命令案を修正することに同意した(8月18日付)。

スターリンがトルーマンの回答を受ける以前に、ソ連太平洋艦隊による千島への侵攻は既に命令されており、一般命令第1号が降伏文書とともにミズーリ艦上で調印された9月2日には、色丹までのソ連の占領が完了していた。

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ロシアは、日本の領土である「北方領土」の占有について、第二次大戦の結果である(だからあきらめなさい)と言い続けている。
ソ連はサンフランシスコでの対日平和条約に調印しなかったので、いまだに日露の間には先の戦争を終結した平和条約がないままである。

【参考】
日露(ソ連)基本文書・資料集(ラヂオプレス)
日本外交史辞典(山川出版社)
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by itsumohappy | 2006-08-08 00:43 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)