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2006年 04月 30日

樺太と戦争の悲劇

先日、63年ぶりにウクライナから帰郷し、弟、妹と再会を果たした元日本陸軍兵士、上野石之助さんのことが大きく報道された。1943年に出征して樺太の歩兵部隊に所属し、終戦後もしばらくは樺太にいたそうだ。
1945年8月15日のポツダム宣言受諾後にソ連は南樺太と千島に侵攻した。上野さんも戦闘に参加し、その後抑留されていたのかもしれないが、帰国までの間の苦労については「運命」としか語らなかった。

終戦時、南樺太(北緯50度以南)の人口は約40万人。戦争が終結したのにもかかわらず、ソ連の侵攻で多くの民間人が犠牲となった。

   1945年8月の樺太の区画(地理のページより作成。カッコ内は現在の地名)
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『ダスビダーニャ、わが樺太』(道下匡子著)という本がある。(「ダスビダーニャ」は「さようなら」の意味) 当時3歳だった樺太真岡市生まれの翻訳家が、終戦後、樺太在住の日本人(韓国人もだが)を襲った悲劇を父親のメモや親類、関係者などの話を基にまとめたノンフィクションである。ソ連軍兵士が家々に押し入って略奪を行う中、作者の一家はまさに兵士たちに相対しつつも間一髪生き延びた―3歳の作者がなぜ一家を救えたか、という冒頭のエピソードから8月20日の真岡への無差別爆撃、集団自決、引揚げ船への潜水艦攻撃など戦争の惨禍が静かに展開されていく。読んでいて楽しい本ではないが、樺太からの引揚げ体験などは満州ほどにはあまり聞かないので印象に残る。

  現存する日本時代の建物のひとつ、旧樺太庁博物館 
  現サハリン州郷土博物館
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樺太での日ソの戦闘の死者数は兵士、民間人合わせて約6000人とされるが、公式記録はない。また、空襲の死者数約1000人、潜水艦爆撃の死者数約1700人という数についても正確なところは不明である。
ソ連は、南樺太、千島を占拠して1946年、自国領に編入したが、日本がサンフランシスコ平和条約で放棄した南樺太、千島の部分は帰属先が未確定のまま今に至っているので、ロシアの領有に法的な根拠はないとされる。

戦後、千島の住民も樺太に移送され、収容所で抑留されていた民間人は順次北海道などに引揚げた。兵隊はシベリアなどの収容所へ送られた。
引揚げずに今もサハリンに暮らす70、80代の「一世」は約250人いるそうだ。なお、強制移住で樺太に来て、戦後、帰国の道を失い残留した韓国の人々は最大の犠牲者かもしれない。

現在、「日本サハリン同胞交流協会」などの団体がサハリン在住日本人の一時帰国の支援活動を行っている。上野さんの報道に隠れてしまったが、先日の新聞で、同協会の支援する一時帰国団員として、11年間シベリアに抑留されそのまま現地で亡くなった日本人とロシア人女性の間に生まれた姉弟が肉親を捜すため来日し、「日本の土を父の墓に供えたい」と語った記事があった(4月26日 毎日新聞)。父親の戸籍は、上野さんと違って残っていたそうだが親戚を見つけることはできただろうか。その後の報道は今のところないようだ。

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日露国境に置かれていた石。双頭の鷲の裏側(日本側)は菊紋である。 (サハリン州郷土博物館所蔵)







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【サハリン】
北緯50度以南は1905年、ポーツマス条約の締結により日本領となった。中心都市は豊原で樺太庁が置かれていた。

面積は北海道の約1.1倍。最南端のクリリオン岬から宗谷岬までは43km。(東京~千葉くらい)全島の約5割が針葉樹林(タイガ)地帯。
現在、100以上の民族から構成され、そのうち約80%がロシア人。州の人口は約58万人(02年12月)。島だけで構成される州である。千島列島、北方領土も管轄区域。(在ユジノサハリンスク日本国総領事館のデータ)
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by itsumohappy | 2006-04-30 23:16 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(4)
2006年 04月 26日

チェルノブイリ事故20周年

d0007923_138420.gif1986年4月26日1時頃、ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で、核分裂の制御に失敗して原子炉が爆発、広島型の数百倍(一説に500倍)の死の灰(ヨウ素131、セシウム137)が1000メートル以上の高さに吹き上げられた。この放射性物質は風で近隣の国に運ばれ、のち日本でも検出された。原発事故の発生は、西側にはスウェーデンなどで観測された数値から知られることとなったが、当初発生地は不明であった。

事故が控えめに報道されたのは2日後。今でも立ち入り禁止区域になっている30キロ圏内の住民約12万人の強制避難が決定したのは1週間後。その後の高汚染地域からの避難者を合わせて約40万人が疎開。500以上の村がなくなった。約50人が放射線被曝で死亡、約4000人の子供が甲状腺がんを発症。将来の死亡数は約9000人とも言われるが、実際のところ誰にもわからないだろう。

この事件で恐ろしいのは、事故そのものもだが、事故直後、大量の死の灰が降っていたのに住民は何も知らずに(知らされずに)普通に生活して汚染された地域の肉や牛乳を摂っていたということだ。
当時、ソ連国内の学者、専門家たちは政府に一刻も早い対策を訴えたらしいが、国の対応は鈍かったと先日のニュースでも報道された。ゴルバチョフの時代であったが、共産党政権が優先させたものは国の秩序維持だったのか。国民の命では決してなかったようだ。この事故が間接的にソ連の崩壊へとつながったと指摘する人もいる。

26日、チェルノブイリ教会で、ユーシチェンコ大統領も出席して事故20周年の祈りが捧げられた。
ウクライナでは財政難ということで、原子炉を覆う石棺の建設など事故の処理にあたった人たちでも十分な補償を受けられないらしい。その石棺も古くなり新しいシェルターが建設される予定である。さらに、今後どれくらいの人たちが健康を害するかは未知数であり、国際社会の継続的な支援が求められている。
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日本は、一貫して積極的に協力している数少ない国のひとつとされる。ウクライナに対し、被害地区の汚染除去、原子力安全対策などに2004年1月時点で約7400万ドルの支援のほか、専門家の派遣や招聘などの技術支援も行っている。また、NGOを通じた被災者支援活動もなされている。傷が残らない甲状腺がん手術を導入したのは日本人医師だ。被爆の苦しみをわかってくれるのは日本人だけだと現地の人は話しているそうだ。

国土の2割強が汚染された隣国ベラルーシにも、日本から医療機材の供与が若干なされているが、「欧州最後の独裁国家」と批判されているため、積極的な国際支援が受けられない状態とのことだ。
(4月22日~26日の朝日、毎日、読売、北海道新聞等より)
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by itsumohappy | 2006-04-26 23:50 | ロシア | Trackback(3) | Comments(3)
2006年 04月 23日

ロシアの復活大祭

キリスト教の最大の行事、復活祭(イースター)。ロシア正教でも祭りの中の祭りという、最も重要な行事である。2006年のロシアの復活大祭(復活祭。ロシア語でПАСХА(パスハ))は4月23日。カトリックの復活祭は4月16日だったのでずれがある。暦の関係でごくまれに同日となる時もあるらしいが、だいたいカトリックの祝う1週間後がふつうとか。ロシア正教では、ユダヤ教の過ぎ越しの祭り後に設定される点が旧教と異なる。

d0007923_1330575.jpgロシア正教の復活大祭のお祈りは、土曜(前日)の夜に始まり、大祭の日である翌朝4時くらいまで夜通し続く。聖堂内の明かりは落とされ、信者たちは退出し、十字架をかかげた司祭のあとについて聖堂を3周する。真夜中に、今度は明るくされた堂内に入場し聖歌が歌われる。司祭が「ハリストス(キリストのこと)復活!」(“Христос воскресе !”)と呼びかけると、信者が「実に復活!」(“Воистина воскресе !”)と応えて、主の復活をたたえるそうだ。大祭までの大斎(おおものいみ)期間中、敬虔な信徒は肉、乳製品などを断つが、復活のお祝いでご馳走を食べる。

d0007923_13313335.jpgロシア正教会のアレクシー2世総主教(左)は、人々にいかなる時にも慈悲と愛を、と説く復活大祭のメッセージを送り、モスクワの救世主キリスト聖堂(右)で祈りを捧げた。d0007923_23331672.jpg
5千人を超える信者が集まり、プーチン大統領も去年に続き出席した。
(写真はイタル・タス、プラウダより)




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ツァーリのイースター・エッグ(クレムリン武器庫所蔵)。
ロシア皇室御用達のファベルジェ社が1885年から1917年まで約50個作った。革命後、多くが国外に流出し行方がわからないものもある。皇帝のイースター・エッグは武器庫で必見の展示品。

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  左からユリの花束時計、巡洋艦アゾフ号、クレムリン(以上クレムリンの図録から)
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by itsumohappy | 2006-04-23 13:54 | ロシア | Trackback(2) | Comments(0)
2006年 04月 16日

チェーホフ 『シベリアの旅』 『サハリン島』

チェーホフは1890年、30歳の時、流刑囚調査のためモスクワからサハリンまで大旅行をし、道中の記録や調査結果を1895年にかけて順次発表した。その著作『シベリアの旅』、『サハリン島』は今で言うルポルタージュのさきがけである。
当時既に小説、戯曲などで著名だったチェーホフが、誰かに調査を頼まれたわけでもないのにモスクワから9千キロの道のりをサハリンまで、途中喀血までして行ったのは、流刑囚の実態を知り、その非人道性を社会に訴えたいという動機があったからである。作家は部屋で座って本を書いていればそれで済むわけではない、行動して伝えるべき社会的使命があると考え、実際命がけで敢行したのだから偉大だ。
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『シベリアの旅』
チェーホフのシベリア横断への旅は1890年4月、河川の氷が溶ける時期に始まった。汽車、汽船を乗り継ぎ、それらが使えないところは馬車の旅である。シベリア鉄道はまだない時代である。ぬかるんだ泥道や川越えをしているうち馬車はがたがたになり崩壊してしまう。そんな悪路の様子や各所での地元民との出会い、どこまでもどこまでも続くシベリアの森などが生き生きと描写されている。短いルポだがユーモラスなところもあって面白い。

『サハリン島』
d0007923_11573147.jpgサハリン島は、日露間で結ばれた「樺太千島交換条約」(1875年)以前は、先住民をはじめロシア人、日本人混住の地だった。この条約でロシア領となってからは、最果ての流刑地として本土から陸路またはオデッサからスエズ運河を抜けてインド洋を回る海路で囚人が送られた。

1890年7月、チェーホフは当時最大級の監獄があったアレクサンドロフスクからサハリンに上陸し、島を南下しつつ約3ヶ月滞在した。事前に当局から調査のための公式の許可証は得られず、サハリンで実際に活動ができるかどうかもわからない状況だったが、監視を受けつつも資料収集は許可され、必要な援助が与えられた。

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チェーホフは、住所、名前、出生地、家庭状況などの項目のある住民調査カード作成し、徒刑囚と移民約1万人分を集めた。1891年初頭、サハリンには約1万6千人が住んでいたというからかなりカバーしていた。
『サハリン島』は、各所の村と囚人の状況を報告した大作である。データの分析部分は事務的で面白みには欠けるが、囚人の嫁さんの見つけ方などあいまのエピソードがなかなか印象的である。

アイヌ人など先住民族との出会いについても多くふれている。ギリヤーク人が、すぐ下に道路があるのにわざわざ山肌斜面の悪路をあくせくと行き、道路の使い方を知らない様子など。
宗谷海峡を望むコルサコフでは、ロシア語を話す日本人の領事館員と交流している。

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チェーホフは、サハリン調査の後、日本まで足をのばしたかったらしい。アジア地域のコレラ流行で断念したそうだ。1890年(明治23年)と言えば、日本では第1回帝国議会が開かれた年。立憲政治が開始され、外交では条約改正交渉が行われている頃である。もしチェーホフが日本に来ていたらどんな旅行記を書いただろう。

サハリンから帰りはウラジオストックより海路でオデッサに着き、1890年12月にモスクワに帰った。『サハリン島』は章ごとに発表され、独自性と社会的意義を持つ作品として賞賛された。
日本行きがかなわなかったチェーホフは晩年、ヤルタの別荘に桜やアヤメ、竹など植えた。最後の作品は『桜の園』。おそらく日露戦争の行方も注視していただろう。その戦争のさなかの1904年7月、結核で死去した。
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by itsumohappy | 2006-04-16 12:01 | 文学・本 | Trackback(1) | Comments(2)
2006年 04月 08日

ロシアの日本ブーム

d0007923_2273474.jpg日本文化に対するロシア国民の関心は高いそうだ。以前は歌舞伎など伝統芸能のウェートが高かったが、最近は伝統文化のほか村上春樹、北野武、宮崎駿などの作品が親しまれているらしい。ロシアは「日本ブーム」のようだ。日本食レストラン、寿司バーなどはモスクワで200軒を超えているとか。在露大使によれば、ロシア人はもともと高い文化的資質を備えており、日本文化とロシア文化の間には親近性があるとのこと。(在露日本大使館サイトより)

2004年にロシアで行われた外務省による対日世論調査の結果によると37%が「日本が好き」と回答し、「嫌い」は3%だった。日本を好きと回答した人の比率は、フランス(25%)、ドイツ(17%)に次ぎ、アメリカと同じ3位(10%)であった。
2001年にも同様の調査が行われたが、その時「日本が好き」の回答は45%だった。(「嫌い」は2%) 日本に関心がある人は40%、(全く関心がない人も40%)で関心度が高い層は30~50歳代の高学歴・高収入のグループ。日本のイメージは「先進技術超大国」、「伝統文化豊かな社会」「勤勉な国民」。領土問題の存在は67%が知っていて48%は4島は今後もロシアに帰属すると考えている。

対し、日本側のロシアのイメージについて、2001年の調査で少し古いが同じ外務省のサイトに「日露関係に関する意識調査」の数値が公表されている。
この調査で、「ロシアに親しみを感じる」のは10%、「親しみを感じない」のは55%である。48%が、ロシアは特に身近な存在になったとは思わず、64%が日露関係は良好ではないと考えているが、60%が関係を良くすべきと答えている。しかし10年後(2011年に相当)、関係が良くなっていると考えるのは32%で、現状のままだと思うのは48%、という若干悲観的な数字である。

中国、韓国と違って、ロシアは、かつて日露戦争があったにせよ歴史的に日本に悪いイメージがあまりないのだろう。日本の車や電化製品に感嘆しているというし。一方、日本のほうはやはりシベリア抑留や領土問題、共産社会時代のイメージがまだまだ対露観に影響しているかもしれない。

今はロシアが気になる私も、以前は、ソ連が崩壊してしばらく経っても全然気になっていなかった。ソ連時代の出来事で記憶にある最も古いニュースは、函館に強行着陸したベレンコ中尉事件。あとは、アフガニスタン侵攻、大韓航空機撃墜事件等々。
文化的に知っているものというと、トルストイやドストエフスキーなど昔の作家、子供のころ見に行ったボリショイサーカス位。怖そうで秘密めいた国というイメージだった。
アンドロポフの時だったか忘れたが、最近書記長が公の場に姿を見せない、TVニュースのアナウンサーが黒い服を着ている、チャイコフスキー「悲愴」が流れている、どうも書記長は死んだらしいなんて観測がニュースになったのを覚えている。
  
そんな時代に比べたらロシア時代の今は段違いに開けている。ネットの存在も大きい。でも現地を旅行してみてはじめてロシアが興味の対象になった、私の場合は。旅行もソ連期に比べればずいぶん行きやすくなっているだろうが、やはりまだまだ改善してほしいところがたくさんあるし、少しずつ良くなってはいくだろう。訪れる人も増えればロシアへの関心ももっと高まると思う。

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99年にモスクワ市中心部トヴェルスカヤ・ヤムスカヤ通りにオープンした日本食レストラン「ヤキトリヤ」1号店の内部。「大統領」「東洋大学」って・・・。漢字がおしゃれなイメージなのかも。「北方領土返還」とか書いてくれないかな。このチェーン店はモスクワ市内だけでも10店舗、出前もある。
メニューを見ると焼き鳥はもちろん寿司、刺身、うどん、やきそば、天ぷら等などいろいろ。寿司はまぐろなどは60ルーブル(1ルーブルは約4円)。1カンの値段ならちょっと高いかも。Магуро(まぐろ)、Хоккигай(ホッキ貝)、Муки эби(むきえび)と日本語がそのまま出ている。天ぷらなどお食事メニューは、150~200ルーブル前後。デザートのアイスにГосё(御所)とかДаймондзи(大文字・・・だろう)とか名前がつけられていて何だかほほえましい。
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by itsumohappy | 2006-04-08 21:47 | ロシア | Trackback(2) | Comments(2)
2006年 04月 04日

シェレメチェフ家の宮殿

d0007923_21333231.jpgロシアの玄関口はモスクワのシェレメチェボ空港。大国の国際空港とは思えない、暗くて古い感じのぱっとしない空港であるが、この空港の土地はかつて、ロシア皇帝の遠戚でもあった大貴族シェレメチェフ家の所領だった。空港名はその名にちなんだものである。同家はロシアのあちこちに地所を持っていた。

250年ほどの歴史を持つシェレメチェフ家の栄華は、ピョートル大帝に仕えた将軍ボリス・シェレメチェフ(1652–1719)に始まる。将軍は、当時のバルトの大国、スウェーデンとの北方戦争(1700-1721)で活躍し、ロシアがスウェーデンに大勝したポルタヴァの戦い(1709)で戦功をあげた。1712年、大帝よりペテルブルクのフォンタンカ運河沿いの土地が与えられ、シェレメチェフ家はそこに屋敷を構えた。


d0007923_21344099.jpg5世代が住んだ屋敷は今も残っており、たくさんの噴水があったことから別名ファンタニー・ドーム(左)という。当時の貴族や地主は、自家の農奴の俳優で構成する劇団などを持っており、この敷地内でも各地からやってきた同家の農奴である音楽家や俳優たちがコンサートや演劇を行っていた。ペテルブルクの社交、文化の拠点のひとつであり、エカテリーナ2世やその息子パーヴェル1世も屋敷を訪れた。現在は、200年がかりで収集された同家の美術品を展示する美術館で、バロック期の楽器などを所蔵する音楽博物館にもなっている。


d0007923_21353295.jpgモスクワ郊外には、モスクワのベルサイユとも言われた夏の屋敷クスコヴォ宮殿(右・下)がある。フランス式の庭園のある広大な敷地に1日に3万人の客を招待できた。
18世紀半ばから後半、ボリスの息子ピョートルの時代に40年ほどかけて完成した屋敷群の建設には、フランス人建築家のほか農奴の建築家も参加した。ピョートルが父ボリスから受け継いだ農奴の数は20万人位(!)だったようで、最盛期にはロシアの農奴の4分の1がシェレメチェフ家に仕えていた。d0007923_2136193.jpg
農奴といってもこれだけの数がいれば、中には様々な才能を持つ人たちもいたわけだ。
現在はモスクワの観光名所のひとつであり、数ある美術品の中でも陶磁器のコレクションが有名だそう。夏の間はコンサートやイベントなどが行われる。



d0007923_12521619.jpgピョートルの息子ニコライが作った夏の屋敷がオスタンキノ宮殿(左)。ここでは演劇などが盛んに催された。ニコライは、才能ある農奴の少女パラーシャをモスクワで評判になるほどの女優に育てた。パラーシャは、この屋敷の舞台にも立ち、のち伯爵と密かに結婚した。その事実が明らかになったのは、パラーシャが伯爵の子供を産んだ直後に死んだ時だったが、この事件は当時の上流社会にショックを与えたらしい。ここは今は農奴芸術博物館となっている。

シェレメチェフ家の屋敷はまだまだロシアのあちこちにたくさんあっただろう。日本人には想像し難いおとぎ話のような貴族の暮らし。うらやましい。
しかし、ロシア革命後の同家の運命は過酷である。家屋敷、地所は国の所有となり、亡命しなかった一族のうち、男性は全て「人民の敵」としてスターリン時代に粛清され、生き残ったのは女性の一族だけであった。

(写真はモスクワの観光案内サイトなどから)
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by itsumohappy | 2006-04-04 22:10 | ロシア | Trackback | Comments(0)