ロシアが気になる

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2006年 02月 28日

ロシア民謡コンサート2006

d0007923_23314971.jpgコンサートでくれるちらしの束の中にあった案内で「魂と大地の歌 ロシア民謡コンサート」を知り、池袋の東京芸術劇場へ行った。(2月5日) あの広い会場が満員状態でちょっとびっくり。なんでも日本フィルのオリジナルプログラムで人気の企画なのだそうだ。お客さんの平均年齢はかなり高めで老夫婦連れが多く目に付いた。その昔、うたごえ喫茶に通っていた方々なのかもしれない。

ロシア民謡の特徴はバスと合唱。コンサートは、解説も交えながらバス、ソプラノ、合唱と組み合わせたなかなか楽しい構成であった。
生の音は心に非常に響く。「道」を聞きながら泣く。ロシア民謡の哀しさはどこから来るものなのだろう。大地と厳しい自然、戦争の歴史だろうか。ロシア正教の伝統(伴奏なしで合唱する)も大きく影響しているようだ。

バスの岸本力さんは、芸大ではじめはドイツ歌曲をやっていたが、どうにも合わなくて病気になり休学したそうだ。田舎に帰って畑を耕しているうちロシア歌曲に導かれた、と語っていた。白樺合唱団というのは知らなかったのだが、50年以上の歴史があるとか。男女ともロシアの民族衣装の大部隊でなかなか壮観だった。

うたごえ喫茶でどうしてロシア民謡がよく歌われたのかよくわからないが、時代の空気に合っていたのだろう。うたごえ喫茶ともしびの人気リクエストにも「鶴」、「アムール川の波」、「バイカル湖のほとり」などしっかり入っている。HPによると新宿にはここの他にも2軒うたごえ喫茶があるようでちょっとびっくり。

d0007923_23321247.jpg哀感に満ちたメロディーが今の気持ちに合っていたので、ロシア国立室内合唱団、アレクサンドロフ室内合唱団が歌っているロシア民謡CD2枚組を買ってしまった。夜しんみり聞いていると確かに荘重な感じもあり教会の音楽に通じると思った。




コンサートのプログラムは下記のとおり。

<指揮>渡邊一正
<歌と解説>岸本力(バス)
<歌と司会>赤星啓子(ソプラノ)
<合唱>合唱団白樺

アンドレーエフ:ロシア民謡「月は輝く」による変奏曲(オーケストラ演奏)/
ステンカ・ラージン(バス)/トロイカ(バス)/コサックの子守歌(ソプラノ)/
一週間(ソプラノ&バス)/リャードフ:「8つのロシア民謡」より“村祭りの踊り”
“村人の踊り”(オーケストラ演奏)/赤いサラファン(ソプラノ)/悲しき天使(バス)/
黒い瞳(バス)/疲れた太陽(バス)/鶴(バス)/道(バス&合唱)/
〔ロシア語でみんなで歌おう:ともしび〕/百万本のバラ(合唱)/
ウラルのぐみの木(ソプラノ)/アムール川の波(合唱)/
なぜ私はあなたを知ったのでしょう(ソプラノ)/
果てしなき荒れ野原(バス)/ヴォルガの舟曳歌(バス&合唱)
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by itsumohappy | 2006-02-28 22:42 | 音楽 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 25日

「スターリン批判」50周年

d0007923_17501624.jpg1956年2月25日、ソ連共産党第20回大会の最終日深夜、大会がいったん閉会したところ代議員に再召集がかけられ、フルシチョフ第一書記によるスターリン弾劾演説が行われた。その中でフルシチョフは、53年に死去したスターリンが大戦前に行った同志大量粛清のような恐怖政治を批判し、個人崇拝を指弾した。神格化されていたスターリンに対する公の場での批判に出席者は動揺し、心臓発作を起こした代議員もいたらしい。

この演説は、部外秘で速記もとられなかったので「秘密報告」とも呼ばれるが、その内容はポーランド経由で西側に伝わり、数ヵ月後、米国務省が全文を公表した。
ロシアで演説の全てが明らかにされたのは89年、ゴルバチョフの時代になってからである。

スターリン批判は大変な事件だったようだ。今と違ってネットどころかTVも無いような時代だけに衝撃も大きかったのだろうがちょっと想像がつかない。

スターリン体制を支える一員であったフルシチョフが、裏切り行為ともいえる演説をあえて行った政治的意図は、国内問題にあったとされる。スターリン期から続く農業政策の失敗や粛清等による国民の不満の爆発をさけるため、何らかの方策が必要だったということで民主化が主眼だったわけではない。演説をきっかけに、ポーランドでは暴動が起き、ハンガリーでは人民が蜂起した。ソ連はハンガリーに軍事介入し、自由化運動を阻止した。(ハンガリー動乱)

61年の第22回党大会では、フルシチョフは再度スターリン批判を行い、レーニン廟からスターリンの遺体を撤去することを決定した。フルシチョフは64年10月に失脚したが、スターリン批判による混乱がその一因とも言われる。

ゴルバチョフは、フルシチョフ秘密報告に関して、第20回党大会なしにペレストロイカの理念は生まれなかったと語ったそうだ。
                         (2006年2月17日北海道新聞、19日毎日新聞ほか)

***********           

d0007923_1756569.jpgノヴォデヴィッチ修道院にあるフルシチョフの墓

歴代指導者が眠るクレムリンには葬られなかった。なんだかモダンなデザインのお墓であるが、エルンスト・ネイズヴェストゥヌィという前衛芸術の彫刻家・画家の作品。
フルシチョフは62年、モスクワで行われた美術展に出品されたアバンギャルドな作品を「ロバの尻尾で描いた下らぬ絵」と酷評した。名指しで非難された芸術家その人がネイズヴェストゥヌィ。墓のデザインは共産党の指示だったのかはわからないが・・・。
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by itsumohappy | 2006-02-25 18:12 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 18日

ペテルブルクの氷の宮殿

d0007923_23193435.jpgサンクトペテルブルクの中心、エルミタージュ美術館そばに観光用に氷の宮殿ができた。(2006年2月15日朝日新聞ほか)
広さ100㎡で高さ6m、テーブル、椅子、鏡、ベッド、食器など全部氷だそうで、おとぎの国の宮殿のようだ。
モデルになったのは、1740年に、女帝アンナ・イワノブナ(ピョートル大帝の異母兄の娘。ドイツ貴族に嫁ぎその後未亡人となったが、ピョートル2世の死後帝位を継承)の治世10年とトルコとの戦いに勝利したのを記念してつくられた氷の宮殿。女帝を楽しませるため、氷の館や彫刻がネバ川に沿ってひとつの町のように作られた。しかしアンナは同年死去した。

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   (Novosti、AP、BBCより)
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今回登場した宮殿は、市内の湖の氷を3トン以上使って3週間がかりで制作。2月8日のオープニングではマイナス20度のなか花火やファッションショーが行われ、またバレンタインデーには新婚さんが招かれたそうな。入場料は150ルーブル(約600円)。3月10日まで。行ってみたいけど寒そうだ。


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d0007923_23234657.jpgアンナ・イワノブナ(1693-1740) ロマノフ朝8代。 
ドイツからきたこの女帝、あまり教養のある君主ではなかったようだ。退屈なときに歌わせるため、常に女官を寝室そばに侍らせていた。あるとき女官の姉妹に夜中中歌わせ、女官が疲れたからやめたいと訴えたのに激怒して、叩く罰よりもつらい洗濯労働を1週間させたというエピソードがある。
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by itsumohappy | 2006-02-18 23:43 | ロシア | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 18日

ロシアの黒パン

d0007923_1175354.jpgロシア人の主食は黒パン。これがないと落ち着かないそうだ。ロシア旅行した時はじめて食べた。酸味があり、どのレストランでも必ず出てきた。独特の風味があって最初は慣れなかったが、毎日シチューやスープと一緒に食べているうちだんだんおいしく感じるようになった。
この黒パン、黒糖を使った黒い色のパンではなくライ麦のパンで、なかなか売っていなくてデパートなどでも見たことがない。ちなみに家で買っているのはここのもの。W杯で来日したロシア人選手も食べたとか。在京ロシア大使館御用達である。お店の広告をアエロフロートの機内誌「オーロラ」に載せている関係で、買いに行くとたまにバックナンバーをくれるのがうれしい。

d0007923_119206.jpgd0007923_1173077.jpg←この大きさ(横20cmほど)で470円位。大きさの割にけっこう重い。薄く切って頂く。チーズやハムなど塩気のあるものを乗せてもおいしい。トーストみたいにかりっと焼くと水分が飛ぶせいかいまひとつなので、少しあたためてぶにゃっとしている位がちょうどいい感じである。ライ麦はビタミンなども多く含まれていて体にもよいとのこと。



【追記】
残念ながら上記のお店は閉店しました。


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by itsumohappy | 2006-02-18 01:32 | ロシア | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 14日

ブルガーコフ 『巨匠とマルガリータ』

2005年末、小説『巨匠とマルガリータ』がロシアで初めてTVドラマ化され、初回視聴率がロシア全土で約50%の新記録達成というニュースがあった。(2006年1月5日東京新聞ほか) 文学好きの国民性を反映しているというのだが、それにしても全10回のシリーズでロシア人の約3分の1が見たというからすごい。興味をひかれたので、原作を借りてきて読んでみた。
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      ロシア国営TV 「巨匠とマルガリータ」 (巨匠:アレクサンドル・ガリビン、
      マルガリータ:アンナ・コヴァルチュク  巨匠はちょっとおやじすぎるような・・。)

なんというか、今までこんな小説は読んだことがない。「感動」などという言葉では軽すぎる。読んでいて、ああ、終わらないでほしいと思う本が他にどれだけあっただろう。
正直、はじめ本のボリュームを見て、ドストエフスキー式の長大で小難しい話だったらとても最後まで読みきれないな、と思った。(杞憂だったが)
首の切断。悪魔一味の黒魔術ショー。人々の失踪。亡者の舞踏会。平行して2000年の時を飛んで描かれるポンテオ・ピラトの苦悩。いろんな話が交錯し、かなり読み進んでも巨匠もマルガリータもなかなか登場しないし、ロシア人の名前はややこしいしで、一体この小説はどうなっていくのだろう?と不安に思いつつも話の面白さに引き込まれていく感じだった。

この本はSFファンタジー&ラブロマンス&喜劇&悲劇の形をとった体制批判と読むべきなのか?ロシア文学の伝統、弱い男と強い女のストーリーでもある。一口では言い表せない。へんてこな登場人物(動物)に笑わせられるが、小説としての面白さの後ろ側にあるものは実に深い。伏線があちこち張られていてさらーっと読んでいると見落としてしまう。(何度も前のページに戻りつつ読んだ) 1回読んだ位では読みきれていない。
悪魔のせりふ「原稿は燃えないものです」や巨匠のせりふ「お前は自由だ!」に込められた作者の思い。それは、精神の自由は永遠、ということなのであろう。

d0007923_040419.jpg作者ミハイル・ブルガーコフ(1891-1940)は、『白衛軍』(1925)という小説で作家の地位を確立したそうだが、その後小説や戯曲の中での体制批判のため当局から圧殺され、作品発表の機会を奪われた。粛清されなかったのは、スターリンが『白衛軍』の舞台版のファンだったからという説がある。亡命も許されず、孤独に死んだ。
『巨匠とマルガリータ』は29年から死去直前まで書かれ、原稿は夫人によって保管されていた。不完全ながらもソ連国内で出版されたのは66年、完全版の出版は73年とのこと。やはりロシア人にとってこの小説は特別なものであるのはわかるような気がする。

私が読んだのは集英社版だが、群像社版(悪魔の逃走地図付きらしい)も見ようと思ってかなり大きな書店を何軒かまわったが双方の版ともどこにもない。残念なことだ。


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ストーンズのアルバム「ベガーズ・バンケット」(1968年)にある「悪魔を憐れむ歌」は、『巨匠とマルガリータ』をヒントに作られたもの。
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by itsumohappy | 2006-02-14 00:52 | 文学・本 | Trackback(1) | Comments(4)
2006年 02月 08日

ヤルタ会談 ― ロシアとの領土問題 2

2月8日は、今で言うところの「北方領土」の運命が決められた日。ヤルタ会談(1945年2月4日~11日)の5日目に行われたスターリンとルーズベルト大統領の2人だけの非公式な話し合いで、対日参戦と引き換えに南樺太の返還と千島列島の引渡しなどがソ連に約束された。チャーチル首相も署名したこの合意事項がヤルタ協定である。
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 会談場所のリヴァディア宮殿(ニコライ2世の夏の宮殿)

d0007923_22572667.jpgヤルタ会談は、第二次世界大戦後の世界体制や協調関係が米英ソの指導者で協議されたもので、ヤルタ協定は、46年、アメリカが発表するまで存在が知られていなかった。協定では、南樺太はソ連へ「返還」(shall be returned)、千島列島はソ連へ「引渡し」(shall be handed over)と言葉が使い分けられている。(当時その地域の日本領は、樺太千島交換条約とポーツマス条約により千島列島〔歯舞~シュムシュ〕と樺太の北緯50度以南の部分となっていた)

ヤルタ協定によりソ連は、日本のポツダム宣言受諾直前の45年8月8日、日本に宣戦布告し、翌日満州、南樺太に侵攻した。千島への侵攻が始まったのは、終戦後。北端のシュムシュから歯舞まで順次ソ連軍により占領されていった。当時千島に約1万7千人、樺太に約40万人いた日本人は引き揚げざるを得なかったが、その最中に数千人の人々がソ連軍の爆撃等の犠牲になった。
46年、南樺太と千島はソ連領に編入された。歯舞等4島はサンフランシスコ平和条約で放棄した千島には含まれないとする日本の主張もむなしく、今もロシアは4島を占拠中である。
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会談直後の4月に死去するルーズベルト(中)は判断力が低下していたとも言われる


d0007923_23222751.jpgロシアはヤルタ協定を北方領土占有の根拠のひとつにしているが、当事国の議会の承認もされず、他の連合国すらその存在を知らなかった秘密協定に第3国である日本は拘束されない。のち、56年、日本はソ連との平和条約交渉の際、米英から、ヤルタ協定はポツダム宣言の基礎をなすものではないと回答を得ている。

05年5月、ブッシュ大統領は、対独戦勝60周年記念式典に出席する途上で、(欧州の東西分断も招いた)ヤルタ協定は歴史上最悪の不正であったと発言した。当然ロシアの見解は異なるわけで、歴史認識の相違を埋めるのは容易ではない。そこに領土問題の難しさがあるのかもしれない。

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ヤルタはクリミア半島(ウクライナ)の有名なリゾートで、貴族の別荘などがあったところ。チェーホフ『犬を連れた奥さん』の舞台でもある。(結核を病んでいたチェーホフは晩年ここで療養した)
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by itsumohappy | 2006-02-08 23:26 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 07日

北方領土の日 ― ロシアとの領土問題 1

2月7日は「北方領土の日」。新聞1面にも政府広報が出ている。西暦1855年のこの日、日魯通好条約(日露和親条約)が筒井正憲・川路聖謨とプチャーチンにより下田で調印された。露暦では1月26日、旧暦では安政元年12月21日、ペリーによる開国から約9ヶ月後のことである。
この条約で日露の国境は択捉とウルップの間とされ、樺太の国境は設けず、両国民の雑居状態のままとされた。

川路とプチャーチン
d0007923_2235341.jpg政府は、81年、第二次世界大戦後からソ連(ロシア)に不法占拠されている北方領土(歯舞〔諸島〕、色丹、国後、択捉の4島)の返還を訴えていくため、「北方領土の日」を制定した。例年この日には、返還要求のための全国大会が九段会館(昔の軍人会館)で行われる。

日魯通好条約が調印された下田の長楽寺
d0007923_2236167.jpg北方領土問題に対する日本の主張は、1855年の日魯通好条約で国境が平和的に画定されたように北方領土は日本固有の領土であり、サンフランシスコ平和条約(51年)で日本が南樺太とともに放棄した千島列島には含まれず、ロシアによるこの地の占拠は不当というものである。
日魯通好条約は、日露の国交を樹立した記念すべき条約であるが、現在、この条約は失効しており領土主張の直接の根拠とはならない。

日ソ共同宣言(56年)による日ソ国交回復から現在まで、歴代の日ソ(露)の指導者同士で北方領土問題に関する交渉・解決促進のための政治文書が多く作成された。これらは指導者間の重大な約束ではあるが強制力はない。現在、日露双方を法的に拘束するのは日ソ共同宣言であり、領土交渉でのロシアの主張は、共同宣言に基づき平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を引き渡す、という内容から一歩も進むことがない。

プーチン大統領は、ロシアの北方領土領有は戦争の結果であり、国際法でも決まったことである、などと語っている。国際法、とはどうやらヤルタ協定のことらしいが、ロシアには北方領土、千島列島、南樺太を占有する法的な根拠があるとは言えない。
当時のソ連は、サンフランシスコ平和条約への調印をボイコットした(従って同条約による権利や利益は受けられない)が、その平和条約では、千島列島の範囲や日本が放棄した領土の最終的な帰属先が何故か規定されなかったことが今日の不法占拠へとつながったと考えられる。

そういうわけで、教科書など日本の公的な地図は、4島は日本本土と同一色、千島列島と北緯50度以南の樺太は国際法上は帰属未定地(でもユジノサハリンスク〔旧:豊原〕には日本総領事館がある!)なので白地色とし、国境線の表示も指定の箇所が決められている。で、下の図が政治的に正しい地図(のつもり)。千島付近の地名はアイヌ語に由来している。つまり、もともとはアイヌの住んでいた土地である。
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地図上で北方領土は日本領と主張しても現実は厳しく、同地には約1万4千人のロシア人が住んでいる。(歯舞は国境警備隊のみ) ソ連時代は、辺境地域として給料や年金が優遇されていたので移住してきた人々も多い。国後には50以上の民族がいるらしい。プーチン政権は、今後10年間で246億ルーブル(984億円)の予算を投入する「クリル経済社会発展計画」を打ち出し、4島などへの発電所、港湾、道路整備など行っていく予定である。(北海道新聞2005年10月14日) つまり日本に返す気など全然ない。
主権問題が決着していないので、日露共同でこの地の開発を推進するというのも(日本側には)難しい。

政府は、国民に、領土問題解決まで北方領土に入域(入国ではない)することを控えるよう指導している。そのため日本の旅行業者の北方領土ツアーなどはない。ただし、サハリンを経由すれば訪れることは不可能ではない。写真で見ると自然の美しい島々で、温泉もありちょっと行ってみたい気もするが…。
北方領土を訪問できるのは墓参りをする旧島民など。ほか、関係者や専門家等を対象に4島在住ロシア人との交流などもロシア政府との合意のもと政府の事業として行われている。
今年の北方領土の日でも領土返還がアピールされたが、小泉首相は去年に続き欠席した。今年は挨拶の代読すらなかったそうで、靖国と違ってあまり関心がなさそうだ。
全然進展しないこの領土問題、指導者が解決への決意を示さないとますますロシアにうやむやにされてしまうかもしれない。
平均年齢70歳を超える元島民をはじめ関係者の人々はさぞもどかしい思いであろう。

*****
(注)ロシアはソ連の承継国家であり、日ソ間の全ての条約や国際約束は、日露間に引き続き適用されることが確認されている。
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by itsumohappy | 2006-02-07 23:15 | 歴史・領土問題 | Trackback(1) | Comments(0)