ロシアが気になる

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カテゴリ:文学・本( 51 )


2008年 09月 25日

中村逸郎『虚栄の帝国ロシア-闇に消える「黒い」外国人たち』

著者は、筑波大学大学院教授(国際政治経済学)。本書は、カフカスからの出稼ぎ労働者をめぐる問題とその背景を分析したものである。著者の現地調査をもとに、2002~07年初頭のモスクワの状況が記されている。07年10月刊(岩波書店)。
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d0007923_22552874.jpg2005年9月、モスクワに旅行した際、イズマイロボからセルギエフ・ポサートに向かうハイウェーのすぐ脇で、褐色の肌の人々が大勢集まっているのを車窓から見た。ロシア人のガイドによれば、彼らはカフカスから出稼ぎで来ている人々で、そこは、手配師から仕事を得られる場所のひとつ(といっても道路脇だ)である、とのことだった。そして、ロシアには登録されていない人々が多く、モスクワで150万人いると話したが、数字があまりに大きかったので通訳ミス?とその時は思った。何にしても、彼らの身なりや雰囲気から、危険できつい労働をするのだろうと感じた覚えがある。

ロシア人は、カフカスや中央アジア諸国(カザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン等)出身者を「黒い」(черный)人々と呼ぶそうだ。本書によると、07年現在、「黒い」労働者はモスクワに300万人いるという。ロシア当局は、出稼ぎ目的でロシアへ入国する人々を、不法就労者を含めて毎年少なくとも1,500万人、多い年で2,000万人と見積もっている。ロシアを除く旧ソ構成国の出稼ぎ希望者の75%がロシアへ向かい、うち9割以上が不法就労と見られている。

ソ連邦の消滅後、ロシア周辺国における経済混乱が「移民ブーム」を呼んだ。彼らは、建設作業、道路清掃、フリーマーケットでの小売など、ロシア人がやりたがらない労働に従事している。厳寒のモスクワで15時間雪かきしても月給は3万円。それでも自国での収入の数倍になるという。故国への毎月の平均送金額は1万円。出稼ぎ労働者の収入格差はモスクワ市内の勤労者と比較して10~20倍らしい。彼らはロシア人の日常生活を静かに下支えしている。その労働実態をロシアのどの公的機関も把握していない。

無法地帯で働く彼らからの、ロシア人による収奪の構造は幾重にも深い。
本書の冒頭、車掌・入国管理官・警察官らに賄賂を要求され、周辺国を通過しモスクワに到着するまでに一文無しになるタジク人の話が紹介されている。モスクワにきた彼らは、20種類の申請書類をそろえて合法的な就労許可証を得るまで(約半年を要する)に、一時滞在期間の90日が過ぎてしまうため不法就労しざるをえない。雇用主は、ロシア人を雇用していることを書類上装い、当局の摘発を逃れる。名義を貸しているロシア人は謝礼を得る。労働者らは建築現場で寝起きし、危険な作業で事故に遭っても雇用主は通報しない。処理に困った遺体を壁に埋めるケースもある。今、ロシア全土の警察署で姿を消す外国人が急増しているという噂があるそうだ。さらに、外国人労働者らは、賄賂目当ての警察官から難癖つけられるだけでなく、ネオナチなど人種差別主義者の標的にもされている。まさに虐げられし人々である。一方、収奪する側にとっては、彼らが不法就労であることが好都合である。

ロシア人自身が、自分たちが怠け者であり、他人の金で生活するのに慣れていることを自覚し、ロシア人よりもよく働くタジク人の労働を評価している、という点が印象的だった。

著者は、低賃金の不法労働者が、好景気にわくロシア社会の底辺を今後も支え続ける保障はなく、将来、彼らがロシア社会を突き崩す存在にもなりかねないことをロシア人は認識すべき、と指摘している。

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ロシアの調査機関SOVAによれば、07年、ロシアで排外主義者の暴力に遭った人々は653人(うち死者73人)で、そのほとんどが旧ソ連圏出身の出稼ぎ労働者である。外国人殺傷事件が摘発される割合は約20分の1に過ぎず、微罪で片づけられる場合が多い。(参考:2007年6月27日 産経新聞)
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by itsumohappy | 2008-09-25 23:24 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2008年 09月 07日

N・ドゥンバゼ 『僕とおばあさんとイリコとイラリオン』


d0007923_23374311.jpg著者ノダル・ドゥンバゼ(1928-1984)は、現代グルジアの代表的な作家の一人だそうで、グルジア作家同盟書記長(1972-84)を務め、1980年にレーニン賞を受賞した。本作は、1960年発表後すぐにロシア語へ翻訳され評判となった。
日本ではじめてグルジア語から直接翻訳された小説である。訳者は、東京外国語大学の研究員児島康宏氏。

内容は、僕こと主人公ズラブとズラブをめぐる人々(同居のおばあさん、親戚のイリコとイラリオンの両おじさん)の日常を描いたもの。黒海に面したグリア地方が舞台で、時代は1940年代半ばから50年代である。主人公は、学校では鳴かず飛ばず、いい年したおじさんのイリコとイラリオンのいたずら(というには度が過ぎている)合戦に常に巻き込まれる日々を送る。人々の言動にはユーモアが溢れ、素朴でのんきである。

コルホーズの総会シーンがあまりにばかばかしくて笑わせるので、これは、もしかしたらのんきを装った体制批判小説なのか?と思いきやそうではなく、ただ淡々と主人公の成長に沿って、その楽しい、或いはほろ苦い想い出が綴られている。

訳者の解説によれば、本書は、著者の少年・青年時代の体験に基づくとのこと。著者は、9歳の時両親(無実であるのに反社会活動の罪で逮捕された。のち、父親は銃殺されていたことが判明)と別れ、田舎の祖母宅に身を寄せた。戦時中でもあり苦しい労働の日々を送った。

「私は自由が欲しかった。そのために笑いを選んだんだ」と著者はかつて語ったそうだ。
小説には父母への言及が一切なく、不自然に思ったが、当時のソ連の読者には説明がなくとも「大粛清による孤児」という状況がすぐに理解できたらしい。
この本は、著者の理想の楽しい暮らしを思い描いたお話だったのだ。

d0007923_23391884.jpg グルジアの文字はくるんとしていて可愛らしい。
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by itsumohappy | 2008-09-07 23:46 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)
2008年 08月 26日

常岡浩介 『ロシア 語られない戦争 チェチェンゲリラ従軍記』、廣瀬陽子 『コーカサス 国際関係の十字路』

コーカサス、チェチェン問題を扱った両書について。ともに2008年7月の出版です。

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『ロシア 語られない戦争 チェチェンゲリラ従軍記』 (アスキー新書71)

d0007923_22385454.jpg常岡氏はフリージャーナリストで、1999年からチェチェン及び周辺地域を取材している。イスラム教に改宗し、2001年、「聖戦士」(チェチェン独立派が自らを指すときの呼称)たちの、パンキシ渓谷からアブハジアへの侵入作戦に参加した。コドリ渓谷(アブハジアとグルジアの間で衝突が頻発している地域)でロシア軍の追撃を受けた経験などチェチェン戦争の一端を記している。
取材の中で、「チェチェン戦争に対し中立を宣言しているグルジアが、秘密裏にチェチェン独立派を軍事支援しつつ、その軍事力を自国の国益に利用しようとしている事実」を確認し、グルジア当局に抹殺されかけた。 

400年前からほぼ半世紀ごとに戦争が繰り返されてきたチェチェンでは、この14年間に人口の4分の1に相当する約25万人が死亡し、20万人が難民となった。ロシア言うところの「対テロ戦争」における「想像を絶する残虐さ」についてあまり知られていないのは、ロシア当局の徹底した情報統制のため。現地では今でも山岳部でゲリラの抵抗、戦闘が続いているらしい。

ひとくちに「チェチェン独立派」と言っても実態は多種多様、との解説があるが、ロシア政府にとっては一律「テロリスト」。著者によれば、チェチェンの指導者に直接取材をした者は、ロシアから法的に犯罪者として扱われるらしい(実際著者はFSB<連邦保安庁;もとのKGB>に拘束されている)。そのため、チェチェン側を中心に取材せざるをえず、中立の目線ではないとの断りがある。

1人倒れれば次の10人が立ち上がるという不屈の精神を持つカフカス(コーカサス)の聖戦士らは、今や抵抗自体に意味を見出しつつあるそうだ。おそらく著者が本書で最も訴えたかったのは、「カフカスという地域でこういう人が生き、死んでいった」という「現代の見捨てられた悲劇」に、日常、民族紛争とは無縁に暮らす日本人は多少なりとも思いを馳せて欲しいということであろう。

06年11月にポロニウム中毒死した元FSB中佐リトビネンコ氏へのインタビューつき。FSBの違法な工作活動などが語られている。


『コーカサス 国際関係の十字路』 (集英社新書452A)

d0007923_22421839.jpg廣瀬氏は静岡県立大学准教授(国際政治)。
本書は、コーカサス地域における紛争と民族問題に関する概説本である。大国の様々な利害・思惑が交錯するこの地域に関する全てをコンパクトに解説するのは困難、とある。確かにそうだろうが、南オセチアをめぐるグルジアとロシアの紛争の報道が続く今日、コーカサスにおける問題点、着目すべき点をおおまかに知るには適切な本だと思う。

常岡氏も言及している、「コーカサス地域の国境線は実際の民族分布と異なる」「9.11テロ以降、ロシアはチェチェン紛争を「テロとの戦い」と位置づけた」という点などがまず押えるべき基本認識だろうか。

本書によれば、コーカサスにおける分離独立紛争の始まりは、ソ連の崩壊に伴う民族主義の台頭による。現在、ロシアは、民族自決の原則を南コーカサス(アゼルバイジャン、グルジア、アルメニア)の未承認国家に適用し、分離派を支援することで紛争に間接関与している。一方、北コーカサス(チェチェン、ダゲスタン、イングーシ、北オセチア。これらはロシア連邦を構成する共和国である)では、ロシアは紛争の当事者である。

コーカサスの歴史、民族、宗教、言語等、地域の概観から天然ガス・石油等の資源や地域の安全保障をめぐるコーカサス周辺国・米・露・西欧諸国それぞれの利害まで、幅広く触れられている。
06年5月に開通した、アゼルバイジャンからグルジアを経てトルコに至る「BTCパイプライン」の説明も比較的丁寧だと思う。

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グルジア一国にしても「長寿村」「スターリン」位しかイメージがわかない私にとって、コーカサス問題はよくわからない。報道のほか、上記のような現地を見た人たちによる著作や体験談等を通じて、あれこれ考えるしかなさそうです。
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by itsumohappy | 2008-08-26 23:12 | 文学・本 | Trackback | Comments(4)
2008年 07月 25日

大泰司紀之他 『知床・北方四島 カラー版-流氷が育む自然遺産』

岩波新書『知床・北方四島』の紹介と四島周辺の生態系保護について。

d0007923_21544329.jpg本書は、大泰司氏(北大研究員)と本間浩氏(毎日新聞記者)の共著。北海道東部と一体の生態系をなす北方四島の豊かな自然を、豊富なカラー写真を交えて解説している。

1998年7月に始まった、北方四島へのビザなし渡航の「専門家交流」(自然科学、農業、教育、医療等の分野での研修や調査活動)の中で得られた、四島での生態系調査の結果をふまえ、美しい自然を日露合同で守る方策を提言する書でもある。環境保護という一般になじみ易い視点から領土問題を考えることもできる。

四島周辺には、クジラ、アザラシ類、熊、鳥類、魚類が多く集まり、オーストラリアやニュージーランドからも海鳥がやって来るそうだ。この豊かな生態系を最下層で支えるのは、オホーツクより来る流氷から溶け出す栄養分で発生する大量のプランクトンである。また、島々の植物の種類も豊富で、色丹島だけでも700種の高山植物がある。

シマフクロウとエトピリカ
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ソ連時代は、四島周辺の自然が手つかずのまま保たれていた。しかし、ソ連崩壊の混乱で密漁が始まり、ロシア時代になってからは、日本市場向けにウニ、カニ、スケトウダラなどが乱獲された。水産資源の枯渇をおそれたプーチン前政権は、極東海域での密漁取締りを強化した。08年3月、根室の花咲港での活ガニの輸入量が16年ぶりにゼロ、ウニが2割減となったのはその影響と見られている。

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カニかご。かごに落ちると出られない。漁具の進歩も乱獲に拍車がかかる。密漁者を捕まえても海に残されたかごの中でカニは共食いし、死臭でさらにカニが来る。カニを永遠に捕り続ける「ゴーストフィッシング」となる(写真:『北海道の漁業図鑑』)



現在ロシア政府が進めている「クリル社会経済発展計画」(07~15年の期間に179億ルーブル(約800億円)をクリルの社会基盤整備や資源探査に投入するもの)に基づく事業も自然破壊を招くと懸念されている。この計画の一環で、国後島では金鉱の開発が始まった。住民には、環境保護より豊かな生活を望む声が強く、自然保護区の職員は孤立しがちであると伝えられている。
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本書は、知床の世界自然遺産の範囲をウルップ島まで拡張し、日露共同で環境保護に取り組むことを提案している。世界遺産条約は、領土問題の未解決な係争地でも、当事国が共同歩調をとれば登録や拡張が可能らしい。日本が知床から四島までを、ロシアがウルップ島から四島までを登録申請する。生態系が同一であるウルップ島を含めることで日露双方の立場を害さない。これは、日露の研究者同士の交流のなかで考え出された案である。かつて、90年代後半、日露のNGOが協力して始めた、ウルップ島と四島の自然保護区を世界自然遺産に登録する運動にサハリン州政府は同意したが、係争地であることを理由にロシア中央政府は却下したという経緯がある。

一方、日本政府は、ロシアが北方四島を不法占拠している現状では、ロシアと共同で四島を含む地域を世界遺産として推薦することは、北方領土問題に関する日本の立場とは相容れない、としている。
しかしながら、共同で生態系保護を行う必要性では日露は一致しており、先だっての洞爺湖サミットの際行われた日露首脳会談において、「日露の隣接地域における生態系保全に関する政府間協力プログラム」を具体的に進めていくことが確認された。

【参考】
2000年8月21日毎日、03年8月24日読売、05年10月12日読売、08年4月30日北海道新聞、06年10月31日『世界週報』、08年4月1日「知床における世界自然遺産区域を北方領土まで拡張させる構想に対する政府の見解に関する質問に対する答弁書」、外務省のサイト
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by itsumohappy | 2008-07-25 22:16 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)
2008年 06月 29日

A・アダーモビチ他 『封鎖・飢餓・人間』

二人の作家(アレーシ・アダーモビチ、ダニール・グラーニン)のインタビューによる、レニングラード攻防戦を生き抜いた市民の体験記録(新時代社、1986年)。

1941年6月22日、ドイツは、独ソ不可侵条約(1939年8月)を破ってブレスト要塞を電撃攻撃し、独ソ戦(大祖国戦争)が始まった。最初の3週間で100万人のソ連兵が犠牲となり、2ヵ月後にはヨーロッパ・ロシアの過半がドイツに占領された。ソ連の犠牲者総数は、4年間で3,000万人と言われる(日本の場合、大戦の犠牲者はおよそ300万人)。
 
ドイツ軍は、41年9月半ばにレニングラードへの陸上交通を、11月上旬には隣接するラドガ湖の海上交通を遮断し、レニングラードを完全包囲した。包囲期間は、44年1月までの約900日に及び、130~150万人の兵士と民間人が死んだ。この本の解説によれば、このうち約64万人が餓死。砲撃による死者は1万7000人で、15万個以上の砲弾と10万個以上の爆弾が市内に降りそそぎ、市の大半が破壊された。

聖イサク寺院に残されているドイツ軍砲撃の跡
d0007923_21324921.jpg41年は、大寒波にも見舞われ、10月から42年4月にかけて多くの餓死者が出た。著者は、「大量飢餓という殺人兵器について書き記さないことは、原爆の存在を忘れ去ることに等しい」という思いで、生き残った人々の証言をまとめた。現代ロシアでも包囲戦の記憶は薄れつつあり、関心を持たない者が増えた、とある。工場での勤労体験と異なり、包囲下での私生活は、「苦痛を伴うつらい思い出」であるため、語りたがらない人が多かったそうだ。 

配給された食糧は、おがくず混じりの水っぽいパンでそれ以外のものはほとんどなかった。最も少ない時で、労働者1日250g、事務職員125g。追いつめられた人々が食べたのは、犬・猫・カラス、薪、草、土、油粕、ベルト、服、毛皮のコート、靴、壁紙や本から削った糊等々。しかし、「過度の独創性は破滅のもと」で、からしのパンケーキ(さらしたからし粉を溶いて作った)で死ぬ人もいた。延命効果があったのは、針葉樹の葉からとったエキスだった。

飢えて無感情となった人々は、見た目に老若男女の区別もつかず、体に荷物を括りつけて「スローモーションのビデオ」のように動いた。死は静かに、そして突然訪れ、会話をしていた人が、次の瞬間にはこときれた。最初に死んだのは男性。女の子は比較的持ちこたえた。そのような極限状態のなかでは、人間性の「分極化現象」が起き、「すべての人間的感情や資質は、最大の試練にさらされた」。つまり、他人を犠牲にしても生き延びようとする人と最後まで他人を助け、分かちあう人とに分かれた。

市民が描いた絵(エルミタージュ宮殿付近:下巻110頁より)
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41年11月から、ラドガ湖横断の氷上道路(「生命の道」)ができ、食糧事情が多少改善したが、翌年春までの期間に多くの餓死者が出た。零下30度の中、衰弱し、転んで立ち上がれない人々はそのまま凍死するしかなかった。

最も印象的かつ意外だったのは、飢餓状態なら、できるだけ動かずにいるのがベストと思うがそれは全くの間違いである、と語る体験談。正常な人間の生活のリズムに似たものを作る、つまり、部屋の中を歩き、掃除をし、スプーンを使って食事する、といったことで生き延びた人が多かった、というのである。惰性な生活に落ち込むのは間違いで、「人間的存在」である者が生きた。

この本は、人々の体験の聞き書きに徹し、悲惨な生活に追い込まれた原因の分析にはあまり触れていない。ドイツ軍の侵攻で緊迫した状況下でも254万人が疎開せずに市に残った。「愛国心が破滅の原因となった」とあるが、それだけではないだろう。

44年1月、レニングラードはソ連軍により完全開放され、45年、同市はソ連で最初の「英雄都市」となった。
(参考:2008年6月22日ロシア・トゥデー、『ロシアを知る事典』平凡社(2004))

  サンクトペテルブルクの戦勝広場。ドイツ軍の前線だった場所
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by itsumohappy | 2008-06-29 18:17 | 文学・本 | Trackback | Comments(4)
2008年 06月 18日

ドストエフスキー 『悪霊』 

ぼくらは、気が狂い、悪霊に憑かれて、岸から海へ飛びこみ、みんな溺れ死んでしまうのです。それがぼくらの行くべき道なんですよ。
      (『悪霊』よりステパン・ヴェルホヴェーンスキーのせりふ)



d0007923_22294456.jpgドストエフスキーの描く悪が多彩で、病んだ気分に最高であり、また最悪でもある小説。『悪霊』を読んで、気分爽快になれないことは予想できるのに、ふとある日、そういう長編を読んでみようと思うのはなぜだろう。前半、本筋なのか?という話が延々続き、第一部(全体の3分の1程度)が終わる頃にやっと主人公らしき者が本格的に登場するし、例によってロシア人の名前にも悩まされるし。傍流と思われるところで足踏みして油断していると、肝心なところで場面がいきなり急展開するし。なかなか読み通すのが大変である。

『悪霊』には、卑劣、陰惨、傲慢、凶暴といった様々な悪が登場する。平凡で純粋な、そして善良な人々は、「屑のような連中」にやすやすと騙され、つけ入れられ、混乱に陥れられる。最悪、なぶり殺されてしまう。悪を何故見抜けなかったか、カオスの本質が何であったか誰にもわからない。(現代でも似たようなことが起きている!)
スタヴローギンがこの小説の主人公とされているが、出番が比較的少なく、相当な悪党のわりに描き方があっさりしている。むしろピョートル・ヴェルホヴェーンスキーが悪霊のスタンスを明確に語る。以下、ピョートルの言葉より引用。

この世界に不足しているのはただ一つ-服従のみですよ。・・・家族だの愛だのはちょっぴりでも残っていれば、もうたちまち所有欲が生じますしね。ぼくらはそういう欲望を絶滅するんです。つまり飲酒、中傷、密告を盛んにして、前代未聞の淫蕩をひろめる。あらゆる天才は幼児のうちに抹殺してしまう。いっさいを一つの分母で通分する-つまり、完全な平等です。


この人物(秘密結社の首領)は、「われわれ支配者」のもとに全員が奴隷であり、高度な能力を持つものは処刑されるのだと語る。

『悪霊』が出版された1870年代は、ナロードニキ運動(インテリ学生活動家の農民に対する革命思想の啓蒙活動)の高揚期。しかしながら、同運動は成功せず、反政府活動は急進化した。1866年に、カラコーゾフによるアレクサンドル2世暗殺未遂事件が起きており、その後も皇帝暗殺の試みは繰り返された。皇帝専制に対する反動が増していく不穏な時代である。

ドストエフスキーの創造を、気味の悪い予言として現在は読むことができるが、出版当時は、「悪霊どもが溺れ死ぬ」設定であるため、危険な小説とはみなされなかったのだろうか。
仲間を「総括」する場面での、各メンバーのリアルな描写(まるでその場にいたかのような)、スタヴローギンの悪を看破する狂人、とことん無力な善人の突拍子もない行動等々が印象に残る、毒気の多い小説である。

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●『悪霊』
月間文芸誌『ロシア報知』に1871年~72年にかけて連載された(「スタヴローギンの告白」の章の掲載が見送られて中断した期間をはさむ)。この、ドストエフスキーが「悪霊が豚の群れに入った物語」と呼んだ小説は、ネチャーエフ事件に取材したもので、タイトルは、ルカによる福音書(第8章:32-36節;マタイ、マルコ福音書にも類似の話がある)からの引用(聖書では「あくれい」)。
ドストエフスキー作品は、スターリン時代、『貧しき人々』など一部を除き大半が発禁だった。スターリン批判(56年)後、70年代にかけて全集が発行された。

アンジェイ・ワイダ監督が映画化(1988年フランス)し、日本でも公開された。
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●ネチャーエフ事件 
1869年11月(露暦)。急進主義的革命家でペテルブルク大聴講生、ネチャーエフが結成した秘密結社「人民の裁き」の内ゲバ殺人事件。ネチャーエフは、結社のメンバーであるペトロフスキー農大生イワノフを、密告のおそれがあるとして同大構内で仲間とともに殺害した。レンガに括り付けられてモスクワ郊外の池に投げ込まれた死体が浮上し、事件が発覚した。
ネチャーエフは、無政府主義者バクーニンともつながりを持ち、地方でテロ活動を展開し、農民の反乱を起こす計画を持っていた。ペテロパブロフスク要塞で獄死した。


【参考】
2006年5月21日 北海道新聞
『ロシアを知る事典』平凡社(2004)
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by itsumohappy | 2008-06-18 22:46 | 文学・本 | Trackback | Comments(4)
2008年 05月 31日

A・ジッド 『ソヴィエト紀行』・『ソヴィエト紀行修正』


  「人々が希望していたのはこれではない。もっと徹底した言い方をすると、
  人々が希望しなかったことこそ、まさにこれなのだ。」(『ソヴィエト紀行』より)


d0007923_2156478.jpgアンドレ・ジッド(1869-1951)(右)は、1936年6月、病床のゴーリキーを見舞うためモスクワを訪れたが、モスクワ到着翌日にゴーリキーは死去し、面会はかなわなかった。ジッドは、赤の広場で行われたゴーリキーの葬儀で追悼演説を行い、その後、フランス人文学関係者たちと共にモスクワ、レニングラード、セバストポリを周って、文化施設、社会各層の事情を見聞した。8月にフランスに帰国後、まもなく発表されたのが『ソヴィエト紀行』である。同書は、数週間のうちに10万部以上を売り上げ、ジッド67歳にして初のベストセラー本となった。

反響が大きかったのは、それまで、ソヴィエト及び共産主義に対して大きな希望と期待を表明していたジッドが、一転してソ連の内実を批判する「裏切り」の本を書いたためである。ジッドは、ソ連はもとよりロマン・ロランをはじめとするフランス左翼陣営からの非難を浴びた。

ジッドがソ連を訪れたのは、キーロフ暗殺(1934)をきっかけに始まる大テロル前夜。ジノヴィエフ及びカーメネフのモスクワ裁判事件(1936年7月。反スターリン派であった二人はでっちあげの裁判の結果、銃殺された)が起きた頃だった。

ソ連に対する愛情を賞賛のみに限定せずに、十分調査行う、という立場で旅行を終えたジッドは、「経験したことのない苦悩」をもって『ソヴィエト紀行』を著した。そのなかで、一切の批判が許されないソ連の体制は、恐怖政治への道であり、「ヒトラーのドイツであってさえこれほど隷属的ではないだろう」と切り捨てた。

また、「批評が行われない社会では、文化は危険に瀕する」と指摘し、いかに天才的芸術家であろうと、「線内」から外れれば「形式主義」として糾弾される状況を危惧した。
加えて、スタハノフ運動(生産性向上運動)を引き合いに、大衆の無気力さ、呑気さを指摘。工夫も競争もない状態で物は不足し、「貧乏人を見ないために来たのに貧乏人が多すぎる」社会に幻滅した。

1937年、ジッドは『ソヴィエト紀行』への批判を受けて、『ソヴィエト紀行修正』を発表した。「修正」といっても訂正ではなく、前作で語りつくせなかったことを加えて、スターリン体制への批判をいっそう強めた内容である。

旅行中に受けた豪奢な接待が、ジッドに却って特権と差別を想起させた、という部分が印象に残った。かつて『コンゴ紀行』(1927)で、原住民を搾取するフランス植民地行政を告発したジッドであるから、厚遇を受けようが惑わされない。
ジッドは、『ソヴィエト紀行修正』で、ソ連では最も価値ある人々が密告により殺され、最も卑屈なものが迎えられており、プロレタリアは愚弄されている、フランス共産党は欺かれたと気づくべき、と言い切った。

両書とも『狭き門』等と違って書店では見かけない。私が読んだのは『ジイド全集 第10』(1958)で、根津憲三と堀口大学の訳。

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d0007923_21583797.jpgマクシム・ゴーリキー(1868-1936)は、レーニンと対立して国を離れていたが、スターリンの招きにより、33年帰国した。強制収容所の囚人を動員した白海・バルト海運河建設を礼賛する(そのように仕組まれたと言われる)など、スターリンの意に沿っていたが、次第にスターリンと不和を来し、NKVD(内務人民委員部;KGBの前身)の監視下に置かれた。34年、ゴーリキーの息子マックスが何者かに殺害された。ゴーリキーは、36年には、スターリン体制の告発を考えていたとされる。インフルエンザを悪化させて瀕死のゴーリキーが、ジッドにそのような告発を伝えることをスターリンは怖れた、という。ゴーリキーは、いったん快方に向かっていたが、(なぜか)容態が急変し、ジッドと会えぬまま死去した。

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共産主義に対する支持を表した当時の西側知識人は、バーナード・ショー、H・G・ウェルズ、ルイ・アラゴン、アンドレ・マルロー、ロマン・ロランら。
1930年代半ば、ナチスのラインラント進駐、スペイン内戦勃発など、ファシズムが台頭するなかで、ソ連への共感を持つ知識層が少なからずいた。
ロマン・ロラン(1915年ノーベル文学賞受賞)は、35年にモスクワを訪問した。スターリン体制を見る眼が曇っていたのは、ロラン夫人(ロシア人)がNKVDの秘密工作員であったため、とする説がある。

ジッドは、1947年、ノーベル文学賞を受賞した。その際、スウェーデン王立アカデミーは、「コンゴやソヴィエトへの紀行だけをみても、文学の世界のみに安住しなかった証左といえる」と称えた。

【参考】
『ロシアを知る事典』平凡社(2004)
亀山郁夫『大審問官スターリン』小学館(2006)
ノーベル財団のサイト
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by itsumohappy | 2008-05-31 22:11 | 文学・本 | Trackback | Comments(13)
2008年 04月 20日

ラジンスキー 『アレクサンドルⅡ世暗殺』

d0007923_2222052.jpgエドワード・ラジンスキー(1936-)は、ソ連時代は劇作家として活躍し、今は「歴史ドキュメンタリー小説」で有名な作家だそうだ。『アレクサンドルⅡ世暗殺』は、これまでラジンスキーが「ロシアの悲劇」シリーズとして、ラスプーチンやスターリンらロシア史を転換させた人物を扱った一連の作品群における最終作に位置づけられている。

著者は、アレクサンドル二世(1818-1881)の時代に生まれたロシア式テロリズムは、20世紀のテロリズムの先駆けであると主張している。最近ロシアでは、この皇帝の時代に対する関心が高まっているらしい。

アレクサンドル2世の曽祖父母(ピョートル3世、エカテリーナ2世)の時代には、世の中が「下から上まで全てが奴隷」である状態が確立され、民衆は常に恐怖心にとらわれていた。本書の前半では、そのような沈黙と忍耐を強いる社会が形成された過程が概説されている。

本書の後半は、テロの発祥から始まる。皇帝の専制に対する反動は、デカブリストの乱などを経て、1860年代後半になると学生紛争の形をとって現れた。農奴解放(1861)等近代化政策の一方で、秘密警察による思想統制に見られるような専制政治の温存はやがて、「皇帝は労働者の手にかかって死ななければならない」という過激派を生むことになった。

1870年代、公平な社会の実現を目指すナロードニキによる民衆への教化運動は、農民の支持を得られず、理想主義的な運動に代わってテロリズムが登場。発明されたばかりのダイナマイトを使用して、列車や宮殿を爆破するなど何度も皇帝に対するテロ事件が起きた。結局7度目の攻撃でアレクサンドル2世は暗殺された。

本書には、ドストエフスキーに関するエピソードも多い。
「純真無垢な若者たち」が、皇帝暗殺の計画にとらわれてテロを生み出し、時には地下組織の中で互いを監視しあうという、陰惨な社会のはじまりを見聞していたドストエフスキーは、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』を著した。ドストエフスキーの隣室では、テログループ「人民の意志」のメンバーが住み、皇帝の馬車を爆破するべく建物の地下を掘っていた。ドストエフスキーはその物音を聞いていただろう、とラジンスキーは推測している。

アレクサンドル二世が暗殺されても、専制体制の維持に変わりはなく、憲法制定への道は閉ざされたままだった。ラジンスキーは、「歴史の根本的な教訓は、人々は歴史から何の教訓も学ばないことだ」という警句を引き合いに、のちに悲劇的な最期を迎えるロマノフ王朝は、歴史の曲がり角で何度も間違った道を歩んだ、と記している。

私には本書がはじめて読むラジンスキー作品だった。この作者の「歴史ドキュメンタリー小説」は、史実と周辺のエピソードを組み合わせ、時に謎解き・推理も行うという、歴史書とは若干異なるスタイルである。様々な話題が交錯する上、上下2巻でボリュームもかなりあるため、流れがわかりにくい。近代ロシア史をざっとおさらいしてから読むといいかもしれない。

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サンクト・ペテルブルグの「血の上の教会」。アレクサンドル2世を弔うため建設された。左下のグリボエードフ運河(エカテリーナ運河)にかかる橋付近が皇帝暗殺の現場。
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by itsumohappy | 2008-04-20 22:35 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)
2008年 04月 09日

スタインベック&キャパ 『ロシア紀行』

d0007923_21384222.jpgジョン・スタインベック(文)とロバート・キャパ(写真)によるロシア旅行記録。二人の、1947年8月から2ヶ月間にわたるウクライナやグルジアへの旅行記は、ヘラルド・トリビューン紙(スタインベックは同紙にこの企画を持ちかけた)に48年1月から連載された。『ロシア紀行』はその連載をまとめたものである。訳者の解説によると、出版当時、米国では、「見たものを見たとおりに報告しているだけの内容」でどちらかと言えば失敗作、との評価が優勢だったそうだ。

読んだ感想を先に述べれば、特別な大事件も何も起きないけれども、田舎でも都会でも見たままの印象が、率直に語られているからこそ却って興味深かった。スタインベックが、両国の作家の社会的地位や役割の比較分析をしている箇所も面白い。ソ連では作家は人間の魂の建築家(スターリンの言)で、体制を賞賛するものであるが、アメリカで作家が「軽業師のちょっと下かアザラシのちょっと上くらい」の地位なのは、社会の不正を攻撃する存在ゆえなどと述べている。

二人が旅行した時代は、チャーチルの「鉄のカーテン演説」(1946年3月)後の冷戦がまさに始まった頃。キャパがソ連への入国申請を繰り返しても許可が下りなかった一方で、スタインベックはロシア語訳でもベストセラーになった『怒りのぶどう』で親ソ的であると見られたため、ビザがすんなり下りた。スタインベックは、「カメラマンはソ連にもいる」としてキャパの入国を渋るソ連当局を、「ソ連にキャパはいませんから」と説得し、二人の訪ソが実現した。

旅行の目的に関しては、「ソ連について幾千もの言葉が全て実際に行ったことのない人たちに書かれている」ので「写真で裏づけをした、てらいのない純然たる報道の仕事」をするため「アメリカの場合と変わりはないはずの」民衆の私生活を取材するのだと記している。

本書によると、当時のソ連では産業や人口に関する数字の漏洩は軍事情報の漏洩に等しく、知ることのできるのは「対前年比」だけ。また、西側メディアの正規の特派員は、モスクワ地区を出られず、一般人家庭の訪問も許されず、記事は検閲されている状況だった。

スタインベックらは、旅行にあたり公的な資格を得ることは避け、「全ソ連対外文化交流協会」のアレンジで写真撮影の許可を得て、キエフ、スターリングラード、トビリシ(トビリシ郊外にスターリンの生地がある)等を訪問した。そうは言っても「カメラに対する恐怖」で撮影が許されないこともままあり、「ここで2枚の写真を撮るだけで何千と言う言葉でも言い尽くせないものを見せることができるのに」とキャパが嘆き悲しむ部分がある。

戦争の傷跡が深く残るウクライナ(ニューヨークからカンザスまでの広さに相当する地域がことごとく破壊され、当時の米国人口の15%に当たる600万人の民間人が犠牲となった、とある)の農村で、人々が、平和な生活を取り戻すため、将来に希望を持って必死で働く姿が心に残る。

二人は行く先々で歓待を受けているが、いちいちモスクワに戻らなければ地方に行くことができないため、移動にまつわるトラブルにもあれこれ見舞われている。トラブルを起こす「グレムリン」(飛行機のエンジンなどに故障を起こさせる見えない魔物)が大活躍する描写がユーモラス。

スタインベックの、ロシア庶民を見る眼があたたかい。一方で、街中にあるスターリンの巨大な肖像画やクレムリン宮殿の宝物には、権力者の悪趣味を感じとって、辛らつな感想を述べている。

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d0007923_21421635.jpg私が読んだのは、スタインベック全集14(大阪教育図書)。品切れで、図書館ならあるかもしれない。邦訳単行本は1940,50年代のものしかないもよう。

キャパが撮影したフィルムは4,000本近くで、本に掲載された写真は69枚。ソ連出国時、ドイツ人捕虜や病人の写真など一部は取り上げられたが、一般民衆の写真は無事だった。一方、スタインベックのメモは検閲されるどころか聞かれもしなかったとある。

ペーパーバック(右)はあるが、写真の質があまりよくないらしい。
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by itsumohappy | 2008-04-09 22:02 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)
2008年 03月 22日

ネフスキーの生涯

『天の蛇-ニコライ・ネフスキーの生涯』(加藤九祚著)よりロシアの東洋学者ニコライ・ネフスキー(1892-1937)について。ネフスキーは、教授活動が中心だったエリセーエフとは異なり、日本民俗学、言語学に関する膨大な研究成果を残した。

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ネフスキーは、ペテルブルク大学東洋語学部で中国語、日本語を学び、卒業した翌1915年、同大派遣の官費留学生として来日した。ロシア革命の勃発により本国からの送金は途絶えたが、日本に留まり、小樽高等商業学校、大阪外国語学校でロシア語を教えながら、14年にわたって地方の伝承や方言の研究を続けた。柳田国男、折口信夫、金田一京助ら多くの日本人研究者と交流し、時に共同研究も行った。

東北や北関東、沖縄等を調査旅行し、北京、台湾にも足を伸ばした。研究内容は、アイヌ語、宮古島の方言、台湾の曹族の言語、西夏(タングート)文字等々幅広い。この他、『遠野物語』の話者、佐々木喜善を訪ね、「オシラ様」に関する研究を共に行ったというから特異である。また、宮古方言を流暢に話して地元の人々を驚かせ、古い歌謡を聞いたその場で完ぺきに再現して歌い、記録したという。

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西夏の文字。1908年、ロシアのコズロフ探検隊が、中央アジア・カラホト(黒水城)遺跡を発見し、出土品の西夏文書をロシアに持ち帰った
東洋文庫より)




1922年、ネフスキーは、積丹出身の萬谷イソと結婚し、一女をもうけた。29年、ソ連入国許可がすぐに下りなかった妻子を残して単身帰国。レニングラード大学(ペテルブルク大学)で日本語を教えるかたわら東洋学研究所で西夏語を研究し、33年、妻子を呼び寄せた。


ネフスキー一家。1929年頃(『天の蛇』より)
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しかしながら大粛清期の1937年、密告によりネフスキー夫妻は逮捕され、45年、共に収容所で病死したとされた。スターリンの死後、57年にネフスキーは名誉回復されたが、無実の夫妻が、「国家反逆罪」(スパイ行為)で37年に銃殺されたのが判明したのは91年になってからである。  

遺児エレーナさんは、ネフスキーの親友の日本学者ニコライ・コンラッドに引き取られた。1989年に56年ぶりに来日し、母方の親類との交流を果たした(なお、ネフスキーには他の日本人女性との間にも一女があったが十代で早世した)。

ネフスキーの資料は、ロシア科学アカデミー東洋学研究所に所蔵されているそうだ。日本では天理大学に研究ノート等がある。


サンクトペテルブルク大日本語学科の教室にはネフスキーの肖像写真が掲げられているd0007923_1143797.jpg


(1999年8月29日琉球新報、2001年10月2日北海道新聞、2005年10月1日朝日新聞他より)
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by itsumohappy | 2008-03-22 01:36 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)