福島第一原発事故をきっかけに、かつて出版されたチェルノブイリ事故関連の書籍が相次いで新装・再出版されている。そのうちの2冊の感想です。
************ 1986年4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原発で試験運転中の4号炉が爆発・炎上した。事故から36時間経過した時点で、発電所から3キロ圏内のプリチャピチ市民に避難命令が出された。28日、スウェーデン政府の問い合わせを機にソ連政府は事故を公表。5月5日~6日、原子炉火災が鎮火し、放射性物質の大量放出が止まった。飛散した放射性物質は、520京ベクレル。広島に投下された原子爆弾の200~500倍といわれる。ちなみに福島第一原発事故により今も放出されている量は37京~63京ベクレルである。 5月6日、30キロ圏内の住民に避難命令が出され、約13万人が避難した。 ソ連全域から、軍人や消防士ら作業員約60万人が、事故の詳細も知らされずに動員された。大量の放射能を浴びた作業員は、血液循環疾患をはじめとする様々な健康障害を発し、ベラルーシの専門家によれば、事故から5年間で約3万人、2011年現在まで約10万人が死亡したとされる(国連は、2005年、被爆による死者は約4千人と推定している)。 事故から25年経った現在も、許可が無ければ30キロ圏内に立ち入ることができない。強制移住させられた人々は、精神的苦痛に悩まされ続け、なかには、移住先の生活になじめずに政府の命令を無視して自宅に戻る者もいる。それらの「サマショール」(わがままな人)と呼ばれる人々は現在200人以上という。 2011年4月20日、爆発した原子炉を覆う新シェルターと放射性廃棄物保管施設の建設のため、EUなど約30の支援国や国際機関が、約650億円相当の資金拠出を表明した。 チェルノブイリの浄化プロジェクトが完了するのは2065年の予定である。 【2011年4月14日・20日日経、6月9日読売、11日日経新聞より】 ************ 『チェルノブイリの祈り-未来の物語』 スベトラーナ・アレクシエービッチ著(1998年)。著者は、ベラルーシのジャーナリスト。同国で最初にドキュメンタリーを手がけた著名な作家アレーシ・アダモービッチに師事した。チェルノブイリ事故当時、首都ミンスクに住んでいた。この本は、著者が3年にわたって、原発の従業員、科学者、医者、兵士、移住者、サマショール、地元政治家らにインタビューし、96年より雑誌に発表したものの集大成である。ベラルーシ人にとってチェルノブイリは第3次世界大戦。著者は、この戦争がどう展開し、国が人間にいかに恥知らずな振る舞いをしたか、その記憶を残し、かつ、事実の中から新しい世界観、視点を引き出すために10年の歳月をかけたと語っている。 以下、主な証言の要約である。 ************ <殉職した消防士の妻> プリピャチ市では、事故は「妨害工作」と言われた。夫は、「1600レントゲン」浴びて、放射性物体、人間原子炉と化した。最後は、骨と体が離れてしまい、体はぐらぐら、肺や肝臓のかけらが口から出て、自分の内臓で窒息状態。同僚の消防士もみな2週間後死去した。これから、お金の工面をはじめ、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか、どの旗のもとに再起すればいいのかわからない。 <事故処理にあたった兵士> 34万人の兵士が生きたロボットとして投入された。原子炉の上で、バケツで黒鉛を引きずった者は「1万レントゲン」浴びた。「勇気とヒロイズムを発揮する」ため多くの命が失われた。アフガンで戦死すればよかった。そこでは死はありふれたことで、理解できることだった。 <映像ジャーナリスト> チェルノブイリの記録映画はない。撮らせてもらえなかった。悲劇を撮影することは禁じられ、撮影されたのはヒロイズムばかり。カメラマンはカメラを叩き壊された。チェルノブイリのことを正直に語るのは勇気が必要なのだ。 <住民たち> 原子炉が光っているのを見た。美しかった。ベランダに出て見物し、遠くから車や自転車で駆けつける人もいた。地上のにおいじゃないにおいがした。その後、人々は義務だと思ってメーデーの行進をしに出かけていった。情報は一切無く、政府は沈黙し、身を守るすべがなかった。 疎開した被災者はのけ者にされた。学校では「ホタル」と言われ、隣に座ると死ぬと避けられた。 <ベラルーシの核エネルギー研究所元所長> ミンスクにヨウ素剤が用意されていたが、倉庫に眠ったまま。誰も彼もが命令を待つだけで自分では何もしようとしなかった。上の怒りを買うことが原子力よりも怖かった。国家が最優先され、人命の価値はゼロに等しい。しかし、指導者連中は、ヨウ素剤を飲んでいた。彼らのために、郊外に専用の管理された農場で野菜や家畜が育てられた。 一刻も早く住民を移住させねばならないとモスクワに訴え出たら反ソ分子として刑事事件が起こされた。チェルノブイリ、これは犯罪史だ。 <同研究所技師> 食料品がむきだしのまま売られ、さらに、汚染されたものとわかっていても混ぜて売られた。もはや食料ではなく放射性廃棄物と知っていながら沈黙した理由は、共産党員だったから。わが国民は最高であると言う信念があり、命令には服従が当然だった。 <党地区委員会元第一書記> 体制の高い理想を信じていた。政治的利益が最優先され、パニックを許すなと命令されていた。住民を通りに出してはならないと言ったらメーデーをつぶしたいのかと言われ政治事件となる。市場への供出割り当て分を達成するため 、セシウム入りの牛乳を工場に運んだ。疎開、移住させられたあとも、ノルマ達成の農作業のために住民が連れてこられた。 ************ ひとつひとつの証言がそれぞれに衝撃的で一様ではない。しかしながら、根本的な構図は、福島の原発事故が引き起こした様相と似通っている。世界観の激変。情報の隠匿。打ち捨てられ、略奪にあった家々や残されたペット。チェルノブイリの汚染地域では、ペットを含め動物は次々と射殺されたということが違っているが。 以前の世界はなくなって苦悩だけが残った。人々は、何のために苦しんでいるのか。 『チェルノブイリ診療記』 菅谷昭著(2011年7月)。1998年に発行されたものの新版。副題「福島原発事故への黙示」。著者は、信州大医学部での職を辞し、甲状腺外科の専門医として、1996年から2001年までベラルーシでNGOと協力しながら医療活動に従事した。チェルノブイリ事故で最も汚染されたベラルーシ・ゴメリ州(1㎡あたり1480キロベクレル(40キュリー)以上)などにおける甲状腺障害の増加を、住民に対する諸検査と合わせて科学的に検証し、甲状腺がんなどの治療にあたった記録である。 ベラルーシの小児甲状腺がんの患者数は、事故前の10年間は7名であったが、事故後の10年間では424名。当初、事故は伏せられていたため、人々は5月1日のメーデーのパレード練習をしたり森で遊びキノコを採って食べたりしていた。この地域の人々が事故を知らされたのは5月2日以降。その間に住民の内部被ばくが進んでしまった。 ベラルーシ一帯は内陸地のため、海藻に含まれるヨードの摂取が不足気味になる。甲状腺は無機ヨードを原料として甲状腺ホルモンを作る器官で、体は、不足しているヨードを例えそれが放射性ヨードであっても取り込んでしまい、放射線の内部照射でがんが誘発される。放射性ヨードの半減期は8日であり、事故直後から十分な無機ヨードを投与されていれば、小児性甲状腺障害は軽減されていた。菅谷氏によると、いまだに汚染地域では異常分娩や子どもの免疫能力の低下問題があるそうだ。 氏は、日本では廃棄されるような古い機材・機器を使うベラルーシの病院で、10年以上も遅れた手術形式を目にして戸惑う。職域分担が厳密に区分けされ、人繰りがつかなければその日の手術が当日急に中止になるといった、ソ連式の融通のきかない官僚的、不合理なシステムに憤る。診療実績(=手術件数)で病院に経費が配分されるため、ベルトコンベヤー式に患者が次々に短時間で手術が行われる。その結果、すぐ再発を招き、度重なる手術で合併症のリスクも負うことになる子どもたちのエピソードが痛ましい。経済状態の悪化が医療現場にもしわ寄せされており、スタッフの生活は苦しく、カジノでアルバイトするほうが稼ぎになる医者もいた。氏は、切れないメスを使えるように切れないナイフで食事して練習した。 「旧態依然の非民主的体制」にぶつかりながらも、氏は「ベラルーシの医療を何とかしよう」といった意気込みで突っ走るようなことはせず、「あせりは禁物」と同僚たちとの信頼関係を築きながら、自ら持つ技術(首のしわに沿ってメスを入れる傷跡が残らない甲状腺摘出手術)が認められるように努めた。手術を手がけた患者は750人。しかし、この本には、氏がベラルーシに伝えた手術に関する記述はない。 現在、松本市長を務める氏は、政府の福島第一原発事故対応について、放射性物質の拡散状況を公表しなかったことなど、初動の経過からは全く危機感を感じることができず、国民の立場でものを考えているとは思えなかったと記し、「大切なのは、事実を伝えること」と訴える。福島の事故が収束しないなか、氏が予感した「第2のチェルノブイリ」説は決して非現実的ではないと感じられる。 スターリン時代の強制収容所生活を生き抜いた学者エヴゲーニヤ・ギンズブルグ(1904-1977;右)の回顧録。(中田甫訳;集英社/続編、続々編の3冊構成。現在は絶版のもよう)カザンの大学で教鞭をとっていた著者は、共産党に「全生涯を捧げる決意」をしていたほど忠実な党員であったが、1934年12月のキーロフ暗殺をきっかけに始まった大粛清に巻き込まれ、37年、逮捕された。逮捕理由は、反党的として逮捕された同僚学者の著作や論文の「過ち」を指摘しなかったことだった。逮捕に納得せず、自らを地下テロ組織のメンバーとした「自白調書」へのサインを拒否した著者は、軍事裁判で禁固10年、公民権剥奪5年の判決を受けた。 家族(カザン市ソヴィエト議長の夫・アクショーノフと男児2人)と離れ離れになり、監獄で取調べを受ける日々からこの記録は始まる。収容された者同士が壁を叩く音やオペラのアリアで情報交換を行うなどの獄中生活の様子が詳しい。 教養があり信頼もされていた同僚が、取調官のいいなりのままに密告で他人の命を次々と犠牲にしたり、著者を断罪した取調官もその後逮捕・粛清されたり、といったエピソードが前半は続く。著者は、取調べで「自分だけのことについて真実を述べる。作りごとについては一切サインせず、誰の名も挙げない」という姿勢を貫いた。 判決後、中継監獄を経て、鉄道と船で極寒の地コリマ(「12ヶ月が冬で残りが夏」の地)に移送され、様々な労働に従事した。囚人を牢獄に閉じ込めておくより強制労働させるほうが「効率的」であるという国の方針転換による。 タイガでの作業は零下50度にならないと中止にならない。過酷な環境の中で、著者は何度も生存を脅かされる危機に陥ったが、頑健さと才気で乗り切った。ロシア・インテリゲンチャの精神、即ち、世紀はじめの賢者や詩人の遺産が自らを支えたと記している。 著者は刑期を満了するも、49年再逮捕され、東部シベリア地域に終身移住の判決を受けた。しかし、大陸から呼び寄せた次男(後の作家ワシーリー・アクショーノフ。長男は独ソ戦中にレニングラードで餓死)や囚人時代に知り合ったドイツ人医師との生活を願い、引き続きコリマに住むことを許された。追放処分が解かれたのは、スターリンの死後。18年ぶりに開放され、56年、名誉回復を受けた。 解放後は、回想記の作成に打ち込んだが公の出版はかなわず、国内にはサミズダート(私製版/地下出版)で流れ、やがて欧州、米国でも読まれるようになった。母国で完全な姿で出版されるという願いは、著者の存命中果たされなかったが、ペレストロイカ期の1990年、モスクワで公刊された。 平穏な時代であれば、一生表に出てくることはなかったかもしれない、個人の奥に潜む悪性に関して、著者は以下のように記している。 「・・・(他人を貶めた)人間はいかに良心の呵責にさいなまれるものか・・・苦しみの中で許しを請う人を見れば、「わが過ちなり」がそれぞれの人の心の中に鼓動しているのがわかる」 この本に描かれている生き地獄と、その究極の状況下にして初めてあらわれる、人間のさまざまな本性や生き様はあまりにすさまじく、言葉では説明し難いほどの衝撃を受ける。 ウラジーミル・アレクセーエヴィチ・ギリャロフスキー(1853-1935)著。19世紀末から20世紀初頭のモスクワ社会のルポルタージュ(原題『モスクワとモスクワっ子』)。ギリャロフスキー、通称ギリャイおじさんは、当時の新聞に掲載していたスラム街のルポで有名だったらしい。チェーホフやシャリアピンら著名人たちとも交流し、ギリャイおじさんの家は、演劇、新聞、美術界のサロンとなっていたようだ。
ギリャロフスキー(左)は、ヴォルガの船曳き、サーカスの曲馬師、俳優など多くの職業を経験。1ルーブル硬貨を指先で割り、蹄鉄を折り曲げるなど並外れた腕力の持ち主だった。 ギリャロフスキーは、70歳を過ぎてから以降約10年間ドキュメンタリーを執筆。『帝政末期のモスクワ』は1926年に出版された。革命前のモスクワで、ブルジョワジーの豪壮な屋敷から死体の埋まる下水道の中まで、好奇心の赴くまま街のあちこちをつぶさに見て歩いた記録の集大成である。 この本でやはり印象的なのが貧民街や泥棒市場のルポ。強盗、脱走犯など「人生のルビコン河を渡ってしまった人たち」のうごめく「ヒトロフカ」の魔窟ぶりを仔細に紹介している。 モスクワ芸術座が「どん底」の上演に際し、演出家、俳優一同はギリャロフスキーに引き連れられてスラムを見学した。スラムの人々に「ぶんやさん」と呼ばれ一目置かれたギリャロフスキーのおかげで全員無事に出てこられた、とある。 スラムの他、銭湯、レストラン、床屋、パン屋、競馬場、骨董市場などのルポが載っている。骨董市場の上客は有名なコレクター、シチューキンであった。60軒あった銭湯はモスクワっ子たる以上、「絶対素通りできない場所」で、どこにも固定客がいた。 庶民の暮らしぶりだけではなく、シベリアに徒刑となり、女子供も含む囚人たちが市中引き回されたうえ送られていく姿や専制政治打倒を訴え学生運動が先鋭化していく様子など、帝政末期の不穏な社会状況にも言及している。 本書で数多く出てくる地名は、巻末に索引となっていて、現存する場所は今の地名が併記されている。モスクワの街や歴史に関心があれば興味深い本だろう。 レーピン画 『トルコのスルタン宛に手紙を書くザポロジェ・カザークたち』に登場するカザークのモデルになった ![]() アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918-2008)の代表作のひとつ。8年間のラーゲリ生活の後、カザフスタンに追放された著者は、追放生活の間、悪性腫瘍を患ってウズベクスタンの首都タシケントの病院で治療を受けた。その経験を基に67年に完成したのが『ガン病棟』であるが、ソ連国内の雑誌への掲載は拒絶され、海外で出版された。同書は、ソヴィエト体制が崩壊するまで『煉獄のなかで』と同様、発禁の扱いであった。タイトルどおり、ガン病棟における患者や医者たちの人間模様の話である。このタイトルでは、あまり進んで手に取る気になれないし、実際楽しい内容でもないが、本当に面白い本を読みたいときに最適だと思う。 どうして運命はこんなに不公平なのだろう。どうして、ある人間は一生涯、平穏無事に生きつづけ、ある人間は何から何までうまくいかないのだろう。それなのに人の運命はその本人次第だなどという。絶対にそんなことはない。(上巻186頁) 『ガン病棟』の時代設定は1955年で、舞台はタシケントの病院。ガン患者たちが、死をどう迎えるのか、人は何によって生きるのかを論じ合う。理不尽な病は老若男女の別なく、そして時には医者をも襲う。「死」或いは「生」にいかに向き合うかという問題は、国や時代をこえた普遍のテーマである。 「若いなんてとんでもない!・・・見かけがまだ子供っぽいということですか」 「・・・きみは嘘をつくことが少なくてすんだ。・・・屈服することが少なくてすんだ。・・・きみは判決を受けたが、私らは読みあげられる判決に拍手喝采することをやらされたのだ。」(下巻207頁) 難病の苦しみに加えて、著者が、患者達のエピソードを通じてえぐり出したのはスターリン体制下で痛めつけられた人々の悲痛な叫び。病棟では、特権階級の小官僚や反体制的とされ服役した流刑囚ら様々な階層の者たちが、単なるガン患者として一時的に平等な立場で日々過ごす。 スターリン死去とベリヤ銃殺(53年)、マレンコフ辞任(55年)、スターリン批判(56年)といった時代の移り変わりに対する彼らの反応が、当然ながらリアリティーに富んでいる。 分量もほどほど(上・下巻)であり、会話の場面が多いせいか文も自然体なので、大テロルなどスターリン時代の出来事をある程度おさえた上で読めば、中学生でもそこそこ理解できる小説だと思う。 当ブログ記事ソルジェニーツィン 『収容所群島 1918-1956文学的考察』もご参照下さい。 『ガン病棟』で言及されている、ガンに効能があるという「チャーガ」(白樺に寄生するキノコ;右)小説の、チャーガを研究する「マースレニコフ博士」は実在の人物。 内村剛介氏の選・訳による、抒情詩人セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・エセーニン(1895-1925)の作品集。(『世界の詩 53』弥生書房、1968年) リャザンの農家生まれのエセーニン(右)は、教員養成学校卒業後、1912年、モスクワで働きながら詩作を開始し、15年、ペトログラードの詩壇にデビューした。1917年の10月革命を支持、社会革命党(左派エスエル)の詩人として活躍し、イマジニズム(映像主義)運動にかかわった。農村ロシアの自然を讃えた作品で有名。18年から4年間、ソロフキ、コーカサス、クリミアなどロシア各地を放浪した。 おまえ いったい 知らないのかい? 鋼鉄の騎馬-それがもう 生き馬を負かしちゃったんだってことを? 非力な野には おまえさん いくら走ったって もう あのむかしは還らない。 (「ソロカウスト」(1920年)より;「鋼鉄の騎馬」は機関車を指す) ![]() 21年、革命政権に招かれて訪ソした舞踏家イサドラ・ダンカン(1878-1927)と結婚し、23年にかけて共にヨーロッパ、アメリカを旅行した(その後ほどなくダンカンとは離別)。アメリカの印象を「人類最良の衝動が亡ぶ」と言い、都会の機械文明とは全く相容れなかった。(左:ダンカンとエセーニン) 見果てた夢、そいつはもうよび起こさないで。 成るようにして成らなかったこと、そいつもそっとしておいて。 喪くすのも、疲れきるのも早すぎた。 そういう目にあったってこと。 (「母への手紙」(1924年)より) すべてお受けする。 万時ありのままお受けする。 穴ぼこだらけの道だって 歩いてみせるつもりはある。 洗いざらいに たましいを 十月・五月に渡してもいい。 だがしかし リラだけは 愛するこのリラだけは 渡しはせぬ。 (「ルーシ・ソヴェツカヤ」(1924年)より) エセーニンは、国内の戦闘を導き社会の荒廃をもたらした革命に次第に幻滅し、放蕩とアルコール依存のすえ、25年、レニングラードのホテル・アングレテールの一室で「さようなら友よ」を書き遺し、縊死した。死因をめぐっては、かつて秘密警察による殺害説も取りざたされたことがある。 さようなら 友よ さようなら わが友、君はわが胸にある 別離のさだめ-それがあるからには 行き遭う日とてまたあろうではないか (「さようなら友よ」(1925年)より;この詩は血で書かれていた) 訳者の内村氏は戦後、ソ連に抑留中、監獄でエセーニンの詩を読む機会を与えられないかわりに、ロシア人の囚人たちにより口移しに数限りなく教えられたそうだ。氏が56年に釈放になった際、パンと交換にまっさきに手に入れたのがエセーニンの詩集だった。 ロシア人にとってエセーニンが国民詩人といわれるゆえんは、作品の読み方が無数にあり、「エセーニンに接近する者の情念如何によって、エセーニンは無数の相貌を示す」ためであるという。本書で紹介されているのはごく一部の作品であるが、ゆっくり何度か読み直しながら進めていくと、詩人の魂の叫びがじわじわと伝わってくる。 細かい注釈はないが(あえてないのかもしれない)、付録に年表があり、詩の制作年と照らしあわせられるようになっている。 エセーニンの墓(モスクワ:ヴァガンコヴォ墓地) ![]() 【参考】 『ロシアを知る事典』(平凡社、2004年)、1998年7月6日読売新聞 ―自分が滅びた人間だということを、いったい私は理解しないのだろうか。
・・・たった一度だけでも性根を押し通しさえすれば、1時間のうちに運命を根本から引っくりかえすことが出来るのだ! 『賭博者』(1866年)は、シベリアでの刑期を満了後、作家活動を再開したドストエフスキーの、愛人とのヨーロッパ旅行中滞在先のドイツでルーレット賭博にはまった体験に基づく著作である。『罪と罰』の執筆の傍ら構想されたため、時間の節約上口述筆記で完成された。先払いの原稿料も使い果たした作家は、ホテルの宿泊料も踏み倒した。取立てから逃れるために外遊を繰り返し、賭博に熱中するという状態が1863年から1870年ごろまで続いた。 『賭博者』の舞台はドイツの架空の町、ルレッテンブルク(ルーレットの町)。25歳の家庭教師アレクセイと老伯爵婦人が熱に浮かされたように賭博にのめりこむ姿がリアルに描かれている。いかれた人々のお金をめぐる狂態は、ドストエフスキー作品お約束のモチーフである。自分で自分を滅ぼしていることを半ば自覚しながらそれでも賭博を止めることのできないギャンブラーの心理状態を知るのに格好の小説だと思う。 前半が多少もたつくが、老婦人が登場するあたりから一気に読ませる。主人公をめぐる怪しげなフランス人やイギリス人のような、隙あらばギャンブラーの懐を狙うような人々が当時の国際的なカジノにはうごめいていたのだろうか。賭博場での全然役に立たないにわか指南役たちや見物人らの描写も面白い。金額の表記がたくさん出てくるが、20万フラン勝ったとあっても、当時の貨幣価値が不明なのでぴんとこないところがもどかしい。 ドストエフスキーが滞在したドイツ・ヴィースバーデンのホテル、ナッサウアー・ホーフ ![]() ホテルに隣接するクアハウスと中にあるカジノ。『賭博者』の舞台のモデルとなったところ。 ![]() ![]() プロコフィエフが『賭博者』をオペラ化している(1916年)。ソ連で初演されたのは1990年になってからであった。
19世紀の詩人・作家ミハイル・レールモントフ(右:1814~1841)の代表作(1840年)。カフカスを舞台に主人公ペチョーリンの生き様を描いたものである。プーシキン「オネーギン」と並び、19世紀ロシア文学に現れた貴族・知識人の一典型である「余計者」を主人公にした文学作品のひとつとされる。19世紀半ばのロシアでは、デカブリストの乱、各地で起こった農民一揆、ポーランド独立運動などの不穏な動きが続き、ニコライ1世による反動的な政治が行われていた。「余計者」を特徴づける、政府や貴族社会に対する批判的な態度や知的優越感、精神の倦怠といった性格描写は、自由な表現活動を封じ込んだ当時の社会情勢の影響を受けたものである。 『現代の英雄』のペチョーリンは、他人の気持ちを弄ぶことに喜びを見出すような、およそ鼻持ちならない人物である。カフカスで関わりを持つチェルケス人女性や公爵令嬢らとのかけひきは、読んでいると心が寒くなる。主人公には共感できないが、ペチョーリン像を徐々に暴いていくストーリー構成は面白く、一気に読める。本の解説にあるように、主人公の救われない性格描写を通じて、一種の社会批判を行っているととれる。 レールモントフは、父は軍人、母は名門貴族出身で、貴族寄宿学校、モスクワ大学に学んだ。シェークスピア、バイロンらの影響を受け、詩作を始めるも教官とのトラブルから近衛士官候補生学校へ転校し、卒業後、近衛騎兵騎手となった。 崇拝していたプーシキンが決闘で死去した際に書いた詩(『詩人の死』)が評判となり、書き写されてロシア全土に広まったが、その詩に宮中の高官を誹謗した字句があったため、カフカスに転属させられた。しかし、レールモントフにとってかつて療養時に滞在したカフカスは「第二の故郷」であり、詩作の傍ら山地の風景をスケッチし、土地の伝説や民謡の研究も行った。現地での戦闘で武勲を立てたが評価されず、退役も認められず、やがて決闘沙汰に巻き込まれて死んだ。レールモントフは、わざと決闘相手を外して拳銃を撃っていたが、相手に狙い撃ちされた。この事件は謀殺と言われており、レールモントフの死の知らせを聞いたニコライ1世は、「犬には犬死が似合いだ」と嘯いたと伝えられている。 【参考:『ロシアを知る事典』 2004年平凡社】 終焉の地、ピャチゴルスクにあるレールモントフ博物館 ![]() 11年間のラーゲリ(強制収容所)経験を持つロシア文学者・評論家の内村剛介(1920~2009)の代表作のひとつと同氏へのインタビュー本の紹介です。
内村氏は、満州に住んでいた姉夫婦のもとに家庭の事情で単身赴き、14歳で満鉄育成学校に入学した自称「少年大陸浪人」。勉学の傍ら満鉄本社で見習社員をするうち、「未だ子どもの身なのに世の中の実情・カラクリが分かって」しまい、「このままでは人間が駄目になる」と決意、大連二中に転校後、30倍の難関を通って哈爾濱(ハルビン)学院に入学した。1943年、関東軍に徴用されて翻訳業務などに従事。敗戦後の45年9月、平壌で北朝鮮官憲にいったん拘束されるも釈放されたが、急病にかかった同僚事務官の治療のため、ともに収容所に戻って捕虜となった。その後、ソ連諜報機関に逮捕され、48年、25年の禁固刑を受けた。日ソ国交回復後、56年、最後の帰国者の一人として帰国。日商岩井に勤務しながら文筆活動を始め、のち北海道大学・上智大学の教授を務めた。 ●『生き急ぐ-スターリン獄の日本人』(2001年講談社(当初版:1967年三省堂)) ![]() 君の罪は、―もし君に罪があるとすれば、いや、君には必ず罪があるが―歴史に対するものだ。社会主義がこれから受けるかも知れぬ打撃をちゃんと知っているくせに、社会主義の祖国に伝えようとしないことが君の罪だ。 *********************** 獄中における内村氏こと「タドコロ・タイチ」とソ連取調官の攻防を描いた著作。タドコロは、「精神の武器」を隠し持ったまま日本に帰ろうとしていると責め立てられ、その「反ソ活動」の罪で、裁判も何もなく「組織的反ソ諜報活動」及び「国際ブルジョワジー幇助」により25年の禁固・5年の市民権剥奪(ソ連市民でもないのに)の刑を受ける。いわば「未来の歴史」に対する罪で収容所送りになるという無茶苦茶な話である。 取調官の異常な論理について、「ある思想が生まれて、人間そのものの鬼子として人間そのものを食い散らかしている」と表現している。通常なら気がふれてもおかしくない状況のなかでのタドコロの冷静な反論が読みどころである。 独房を日本人は恐れないそうだ。独房で発狂するのはほとんど決まってロシア人やドイツ人。彼らは人ごみの中にいたがる論争好き、とある。 ●『内村剛介ロングインタビュー 生き急ぎ、感じせく-私の二十世紀』 (2008年恵雅堂出版:陶山幾朗編集・構成) ![]() 内村剛介を日本に帰したことは痛恨の極みである。あいつだけは帰すんじゃなかった、とソ連に臍をかませるために僕はシベリアで11年を生き抜いたつもりです。 *********************** 内村氏の生い立ち、満州そしてシベリアでの日々から帰国後に至るまでの約400ページにわたる仔細なインタビューを内容としている。収容所で盟友となった仏作家ジャック・ロッシとの交流や同じ収容所にいて帰国直前に急死した近衛文隆のエピソードなども語られている。 進駐してきたソ連軍の通訳として立ち会った内村氏に、司令官が発した第一声は、「労働者開放の崇高なる大号令」ではなく、「玉ねぎはあるか?」だった。 氏は従来から、コミュニストの、自分たちだけが真理を握っているという一方的な自己主張に我慢ができなかったそうだ。監獄の中でレーニンやスターリンの著作を読み続けるうち、そのナロード(人民)不在の論理に、コミュニズムは必ず亡びると確信し、その間違いを徹底的に論証してやろうと決意した。25年の刑期のうちに俺が死ぬかソ連が無くなるか、そういう問題だ。この国は原理的に間違っている、くたばるのはお前のほうだ。・・という思いで11年を収容所で過ごしてきた。ただの捕虜ではない、大変な気骨の持ち主である。 失った青春の代わりに得たものは?との問いには、ロシア人という謎にじかに直面したという経験である、と答えている。ロシア人は人がいいが、それは自分に対しても無限に寛大であり、何をやってもいいという一種の無政府主義につながっていくことを意味する。ロシアとは「形無しの国」であると総括している。 満鉄育成学校時代に傲慢な満鉄エリートの姿を見て、氏は、自分は 「勇気ある人間」になりたいと思ったと語っている。ソ連からの帰国後は、自分にとって屈辱であるということが目の前で起こったときそういうものは見過ごすまいと決めたそうだ。実際、そのような信念に基づいた、傍目には過激とも見える行動の数々が語られている。 全体を通じて、勇気とは、善とは、ひいては人間とは何か、そして真理とは何かを考えさせられる本である。 立花隆著。04年8月発行(文藝春秋)。シベリア抑留をもとにした連作「シベリア・シリーズ」で有名な画家、香月泰男(1911-1974)のシベリア体験を中心とする研究書。立花氏が書いた、画家からの聞書き本「私のシベリヤ」(1970年文藝春秋)を再録している。「シベリア・シリーズ」全57点の口絵つきで、各作品が描かれた背景の解説が本文の随所にある。観念的な絵が多く、解説がなければ何の絵か知るのは難しい。香月の抑留の足跡をたどったTV番組の取材時におけるエピソードも加えて、香月に限らない日本人抑留者の苦難がしのばれる構成となっている。正確な日本人抑留者数は今でも明らかではないが、この本によれば、約60万人で、うち7万人前後が死亡したと記されている。 1936年、東京美術学校を卒業した香月泰男は、下関高等女学校で美術を教えていたところ、43年、召集され満州に出征した。終戦後、ソ連に抑留となり、冬は-40℃にもなるシベリア・クラスノヤルスク地区セーヤ収容所などで森林伐採ほか強制労働に従事させられた。 「北へ西へ」(1959年)山口県立美術館所蔵 「帰国列車」と言われ乗せられた車両が、太陽の方向から 西へ向かっていることに翌朝捕虜たちは気がついた 絵の具箱を入営来手放さず、収容所でいったん取り上げられるも職業画家であることが知られてからは、ソ連将校らの依頼で肖像画などを描いた。47年に復員してから亡くなる直前まで、満州での敗戦やシベリアでの生活をモチーフにした絵画を散発的に発表した。 「仕方がないと思って戦争がはじまるのを見ていた。仕方がないと思って兵隊となった。日本人が中国、満州でずいぶんひどいことをするのも知っていた。それでも、黙ってるより仕方がないと思っていた。だからなにかつぐないをさせられるのも仕方がないと思っていたのだ。・・・再び赤い屍体を生みださないためにはどうすればよいのか。それを考えるつけるために“シベリヤ・シリーズ”を描いてきたのかもしれない」 「シベリアのことを思い出したくなどない。絵にしようと思って絵にするのではなく、自然に浮かびあがってくる。描くたびまだまだシベリアを語りつくしていないと感じる。シベリアで真に絵を描くことを学んだ。モチーフが無限に自分のなかから湧いてくる。」 香月は、終戦時、皮を剥がれ筋肉がむき出しになった日本人の「赤い屍体」を見、戦争体験の両面、つまり被害体験ではなく加害体験をも語らなければ戦争を知ることにならない、と話している。戦後、原爆の犠牲者に代表される「黒い屍体」ばかりに目がいっているのではないかという指摘である。 「評価や名声などとは一切無関係に無性に絵を描きたかった」画家は、生き続けるためにあらゆる努力を払った。引き揚げ直前、船を待つ間中、インターを歌い、「結構ずくめ」の抑留生活の感想文を書き、アジ演説に「スターリン万歳」と唱和した。「生きることへの貪欲さ」が生死を決めたという。香月のいた部隊は、山口や広島の農家出身の、百姓仕事しか知らないような純朴な人が主体で、思いつめて絶望したあげく死ぬ者が多かった。移動先の収容所にいた江戸っ子部隊の捕虜たちが、将棋、マージャンなどで遊び、演芸会を楽しんでいるのを見て驚き、「人が生きていくためには、真面目さだけでなく遊びの精神を失わないことも必要」という感想を述べている。 「私のシベリヤは、ある日本人にとってはインパールであり、ガタルカナルであったろう。 指導者の誤りによって我々は死の苦しみを受け、今度は別の指導者が現れて、あれは間違いでしたと誤りにいく。私の知らないところで講和が決められ、私の知らない指導者という人たちがそれを結びにいく。いつのまにか私が戦場に引きずり出されていったのと同じような気がする。・・・私は、一切の指導者、命令する人間という者を信用しない。」 戦争体験を以上のように総括している。 画家にとって、「戦争と戦後」、「シベリアと日本」は、考えるほどにちぐはぐでしっくりしなかった。その部分を埋めるため、つまり、いい作品を通じて「私のシベリヤ」を「みんなのシベリヤ」にするため描き続けた。 私はこれまで数点しか香月氏の絵を実際に観たことがない。氏の絵画の特徴は、立花氏によれば「図録では再現不能な三次元性」だそうだ。残念ながら、近年まとまった作品を鑑賞できる機会は少ない。 ************************ 山口県立美術館に「シベリア・シリーズ」全点が所蔵されている。同シリーズ以外の代表作や彫刻、道具等の遺品は香月泰男美術館にある。 シベリア抑留について過去の当ブログ記事もご参照下さい。(1)(2) 内田義雄著。01年6月発行(日本放送出版協会)。著者は、元NHKの記者で現在はフリージャーナリスト。この本は、ソ連で最初にラーゲリ(強制収容所)が作られたソロフキ(ソロヴェツキー)群島の悲劇的な歴史をたどるノンフィクションである。北緯65度、北極海に通じる白海中央にあるソロフキ群島は、夏の3,4ヶ月を除くと氷に閉ざされる。世俗から隔絶された、ロシア正教の修行の地として、15世紀に修道院が作られ、17世紀半ばには修道士が約350人に達した。漁業、農業、牧畜が行われ、温室でスイカやメロンが栽培されるなど自給自足の経済が確立されていた。ソロフキは、正教徒にとって一生に一度巡礼に行きたい聖地とされていた。 ロシア革命後、1922年にソ連が成立すると、革命政権の宗教弾圧政策により国内の修道院施設は接収され、聖職者の逮捕・処刑が相次いだ。21~23年の間に約8,000人の聖職者が銃殺されたという。 ![]() ソロフキでは、23年、強制収容所が開設され、聖地から「ソロフキ特命ラーゲリ」と化した。国内各地に強制収容所が建設されたことに伴い39年に閉鎖されるまで、ソロフキには、学者、作家、聖職者などの知識人、政権と対立した革命家、富農らが送り込まれ、彼らは森林伐採、鉄道建設、レンガ造り等に従事させられた。 革命政権のラーゲリ理論とは、もとは、囚人を再教育して思想矯正するというものであったが、コストがかかるため、囚人を労働力として使い経済効果を高めるものへと変化し、やがて強制労働システムは、国の組織に不可欠な構成要素となっていった。 世界遺産・ソロフキの修道院 ![]() 強制労働から生き延びる知恵として「トゥフタ」(見せ掛けだけの仕事)という言葉が紹介されている。ソロフキでの大規模な事業としてソルジェニーツィン『収容所群島』でも言及されている、白海・バルト海運河建設では、227kmの運河を20ヶ月で完成させるのに浅く掘って仕上げられた。そのため、運河として役に立たず、現在でも使われる価値がほとんどないそうだ。 セキルナヤの丘に立つ昇天節教会。処刑場であった ![]() ソロフキから奇跡的に脱走できた囚人たちの告発により、強制労働の一端が世界に知られない訳ではなかったが、スターリンは、B・ショーなど西側知識人の一部やゴーリキーなど著名人を利用し、このような社会システムを「礼賛」することを図った。 ソロフキでは、24~39年の間に記録にあるだけで8.3万人が送り込まれ、4.3万人が死んだとされるが、正確な犠牲者数は不明である。 365階段。体に丸太や板を括り付けて上から投げ落とし処刑した場所。 裸にして蛾や蚊に刺されるがままという拷問もよく行われた。 ![]() 80年代後半、ペレストロイカ/グラスノスチ政策の下で、消息不明の肉親探しが始まり、91年ソ連崩壊の後は、KGBに対し、処刑者リストの公開を求める人々の要求が殺到した。ソロフキでは、収容所閉鎖直前の37~38年、約1,800人の囚人が大量虐殺されたが、処刑場所が次々特定されていったのは90年代に入ってからであった。しかし、現在でも、強制労働問題に関する徹底的な追及は行われていない。 「今日ソロフキで見えることは、明日全ロシアで見える」とかつて言われたそうだ。「自由にものを考える人たちはいつでも敵となりうるので抹殺」という人間を信頼しない体制の恐ろしさを十二分に伝える本である。 ********************** ![]() 『北極圏のアウシュヴィッツ 』(亀山哲郎撮影・ブッキング社2007年)という写真集に、ソロフキの壮麗な修道院の数々、美しい自然の景色と強制労働の生々しい痕跡が紹介されている。 < 前のページ次のページ >
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