カテゴリ:文学・本( 51 )


2016年 09月 28日

アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』

2015年にノーベル文学賞を受賞したベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作。ともに、体験者を取材して集めた証言から構成するスタイルである。ベラルーシでは、20年以上ルカシェンコ大統領による独裁体制が続いており、アレクシエーヴィチは、大統領から「祖国を中傷する裏切り者」などと非難され、国外での生活を余儀なくされた時期もある。

『戦争は女の顔をしていない』
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1978年から2004年までの間、500人以上の退役女性軍人に取材した成果である。政治的な圧力により、完成後2年間出版できなかった。

ソ連では、第二次世界大戦に15~30歳の100万を超える女性が従軍した。軍医、看護婦、 料理・洗濯係ばかりではなく、狙撃兵、機関銃射手、高射砲隊長、工兵、飛行士などもいた。しかしながら、女性兵士たちの活躍は世に知られず、もっぱら語られるのは「男の言葉」による戦争である。著者は、女たちの戦争の物語を数年にわたって調査した。


「幸せって何か」と訊かれるんですか?私はこう答えるの。殺された人ばっかりが横たわっている中に生きている人が見つかること… (アンナ・イワーノヴナ・ベリャイ/看護婦)

私たちが前線に出ていくとき、女の人、老人、子供たちが沿道に人垣を作っていました。「女の子が戦争に行く」とみんな泣いていました。(タマーラ・イラリオノヴナ・ダヴィドヴィチ/軍曹)


地上戦の悲惨な体験が数多く語られるが、この本で印象に残るのは、戦後の物語。勝利後、男たちは英雄になり理想の花婿になったが、女たちの勝利は取り上げられてしまった。

戦地にいたということで敬遠され、時にはあばずれ呼ばわりされるなど、戦場体験のない女性たちからあらゆる侮辱を受けた。前線にいたことを隠し、褒章も身に着けなかった。支援を受けるのに必要な戦傷の記録を捨てた。 …等々の証言はいたましい。

さらに著者は、4年間で2千万人という多大な犠牲は誰の責任だったのか指摘する。すでに戦前、もっとも優秀な司令官たち、軍のエリートは殺されていた。戦地で後退したら収容所入りか銃殺。捕虜経験を持つ者は人民の敵。富農の子が流刑地から帰ると、ドイツ軍に仕えて「親の仇うち」をするという味方同士の殺し合いもあった。
1937年のスターリンの大粛清がなければ1941年も始まらなかっただろう、と著者は記している。

伝えなければ。世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ。あたしたちの泣き叫ぶ声が。 …一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。(タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ/赤軍伍長)



『ボタン穴から見た戦争』
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原題『最後の生き証人』。1985年、ペレストロイカ政策を受けて雑誌『オクチャーブリ』誌に発表されたベラルーシの子供たち(2~14歳)101人の証言がもととなっている。
1941年、ドイツ軍の侵攻によりベラルーシでは、600余りの村々で村人が納屋に閉じ込められて焼き殺されるなどし、人口の4分の1が失われた。

おかあさん、みんなが宙に浮いているよ(ピョートル・カリノーフスキイ/12歳)
あたしたち、公園を食べたんです (アーニャ・グルービナ/12歳)


ドイツ軍による銃殺、焼殺その他あらゆる残虐行為の証言は読んでいて苦しい。ドイツの軍用犬は人間の血肉を覚えさせられていた。
両親をなくし、パルチザンに引き取られて、読み書きを教わりながら斥候や通信・食事係となる子ども。姓も言えないくらい幼い孤児。人間らしさを失ってはいけないと洗濯をし、祝日を祝う親。恐怖と飢餓のなかでもユダヤ人の子を匿う人もいた。


先に亡くなったのはあのすばらしいお母さんです。それからお父さんも亡くなりました。そこで実感したんです。私たちはあの時期の、あの地方の生き残りの最後だって自覚したんです。今、私たちは語らなければなりません。最後の生き証人です……。 (ワーリャ・ブリンスカヤ/12歳)

あるとき著者は、「大祖国戦争」の映画を、アイスを食べしゃべりながら見ている女の子に気づき、他人の痛みを共有するところのない態度に不安を覚えたそうだ。自分の本は、映画を見てアイスをなめていた女の子が読んでくれなければ、と語っている。
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by itsumohappy | 2016-09-28 19:11 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 31日

中村逸郎 『シベリア最深紀行』  

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中村逸郎著(2016年)。副題「知られざる大地への七つの旅」。2011年から14年にかけて、政治学者の著者がシベリアの僻村を訪ねた記録である。

シベリアは、広義にはウラル山脈から太平洋岸までの東西7,000キロの範囲(西シベリア・東シベリア・極東ロシア)を指すが、著者によると、人々が「シベリアっ子」と自認する東端は、「シベリアの縮図」と言われるバイカル湖東のチター(チタ)市である。チターのあるザバイカーリエ地方の民族数は120以上。学校ではロシア語使用でも、生活の場では様々な言葉が行き交う。

16世紀、ストロガノフ家に雇われたコサック、イェルマークの部隊が征服したのが「アバラーク村」。ロシア人の先祖がシベリアを切り拓いた最初の地である。
17世紀初めにロシア人のシベリア入植が始まるまで、西シベリア一帯はタタール人(イスラム教徒)の占有地だった。タタール人ら先住民族は、先祖からの宗教、風習を堅持し、ロシア人と真っ向からの対立を避け、微妙な距離をとりながら生活してきた。

第二次大戦後、シベリアはロシアに統合された。ソ連が崩壊すると、「シベリアの天然資源がモスクワに収奪される」というような、ロシアによるシベリアの植民地化を懸念する議論が生じた。モスクワからの分離、自治拡大を求める声もある。 
しかし、著者は、シベリアはロシアと折り合い、交じり合ってきた、という観点から、ロシアのなかのシベリアという枠組みでシベリアを理解するには限界がある、と語る。

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著者が訪ねたシベリアの村を含むロシア地図(本書より)

広大なシベリアの地では、住民の把握もなかなか容易ではない。定住者以外はロシア国家の構成員と認められないが、トナカイを放牧しながら移動するツンドラの遊牧民はロシア人としてみなされるのか。また、人々の幸福度がロシア全土で最も高い「トゥヴァー共和国」で、シャマーン(「シャーマン」のロシア語アクセント表記。シャーマンは、シベリアが発祥の地とされる)の治療を受けた著者に何が起きたか。

取材地はごくごく一部の地域でも、自然と人間が一体となって暮らす「お金や物への欲望とは無縁の精神世界」の様相が大変興味深い。
なかでも、17世紀半ばにロシア正教から分裂した古儀式派のロシア人村(エルジェーイ集落)が印象に残る。ニコン総主教の改革(世界標準の祈祷方式に合わせることを訴えた)に反対した数百万の信者は、シベリア奥地に逃避した。今もその末裔がおり、国家から身を隠して生活しているのである。

道なき道を走破し、おそるおそる村を訪問した著者が出会ったのは、古儀式派でも司祭非容認派の人々。彼らは、宗教者の存在も認めず、神と自然への慈しみのなかで自律的に暮らしている。世俗社会との接触を断ち、法律、徴兵、戸籍、貨幣経済も受けつけない。

国有地であっても、人々が自力で開墾して(勝手に)住んでいるのを国は把握しきれない。ロシア国内でも、国家も法律も意識しない暮らしがある。「シベリアよりもよいところはない」と人々は語る。

「シベリアのなかのロシア」という視点で見た、「ロシアに染められることのない、多彩なシベリア」の一端を知る本である。

d0007923_15462723.jpg森林で育つミネラルの豊富な食料だけで生きているので身体が磁力を帯びてくる、のだそうだ。(岩波書店の本書紹介サイトより)
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by itsumohappy | 2016-07-31 16:00 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 11日

ケストラー『真昼の暗黒』

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アーサー・ケストラー(1905-1983)(右)作。
スターリンによる大粛清の犠牲となったオールド・ボリシェヴィキ(古参の共産党員。オールド・ガード)の悲劇を描くもので、「モスクワ裁判」の犠牲者に捧げられている。この作品は同裁判の3回目(38年のブハーリンの粛清裁判)を題材にしている。

ブダペスト生まれのケストラーは、大学中退後、パレスチナでのシオニズム運動参加を経てフリーのジャーナリストとなった。31年、ドイツ共産党に入党し、コミンテルンの指示でソ連各地を視察。37年、内乱下のスペインで逮捕され、死刑判決を受けるが英国政府に助けられた。モスクワ裁判を機に脱党。『真昼の暗黒』は、40年、反ナチスのかどでフランスで獄中にいる間に、友人による英訳がロンドンに送られて出版された。もとのドイツ語原稿は失われたとされる。
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40年間党に仕えた主人公ルバショフは、「反革命活動に対する自白」を強要され、「犠牲になった者たちの悲しみの声に耳を傾けたこと、彼らを犠牲にする必要性を証明する議論に耳を貸さなかったこと」で罪を認める。スターリン(小説では「ナンバー・ワン」と表記)の独裁体制を固めるための陰謀の犠牲になった人々が、処刑室にひきずられていく様子を、収監者が部屋から部屋へ「壁通信」で伝えていくシーンが怖ろしい。

恐怖政治を暴き、ソ連型社会主義の消滅をいち早く分析した作品として世界的に注目を浴びた。「ナンバー・ワン」の体制とヒトラーの体制はどちらも全体主義国家として同一のものであるとの指摘に、フランス共産党は怒り、フランス語版をすべて買い上げて焼き捨てようとしたという。



【モスクワ裁判】
1936-38年にかけて、革命時代のボリシェヴィキの最高幹部らが「反革命分子」として裁かれた公開裁判。3回行われた。大粛清を正当化し、国内の引き締めをねらったものとされる。犠牲となったジノヴィエフ、カーメネフ(第1回)、ラデック(第2回)、ブハーリン(第3回)らはゴルバチョフ時代のペレストロイカで名誉回復された。


【方形アルファベット】
d0007923_16252723.jpg5×5の正方形にアルファベット25文字を入れたもの。壁通信の際に使う。この本によれば、「H」を表すには、「2回・3回」と壁を叩く。2回でF-Jの第2列、次の3回でその列3番目のHとなる。 

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by itsumohappy | 2016-07-11 19:20 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2016年 04月 20日

嶌信彦 『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』

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著者によれば、第2次大戦後、ソ連各地に抑留された人々は23か国350万人以上とされる。日本人捕虜は約60万人で、そのうち約3万人がウズベキスタン(ソ連時代はウズベク)共和国各地で道路・住宅や発電所建設などの労役についた。なかでも日本兵が首都タシケントに建てた壮麗なアリシェル・ナボイ劇場は、ウズベキスタンに限らず周辺のカザフスタン、タジキスタンなど中央アジア各地に「日本人伝説」を広めるものとなった。この本は、劇場建設に携わった日本人将兵や現地の人々、ソ連将校らのエピソードを紹介するものである(2015年)。

ウズベキスタンで最も愛されている15世紀の詩人の名を冠するナボイ劇場は、ロシア革命30周年記念として建設が計画され、ソ連時代は、モスクワ、レニングラード、キエフとともに四大劇場のひとつとされていた。


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ナボイ劇場(上)は、ソ連にある約80の劇場のうち最高の「ボリショイ」の称号を持つ7劇場のひとつでもあった。


「日本人伝説」が広まったきっかけは、1966年4月26日、タシケント市で起きたM5.2の直下型大地震。60年代までは世界で起きた大地震の5指に入る規模だった。街のほとんどの建物が倒壊するなかで、日本兵が完成させたこの劇場は崩れなかった。それは、捕虜たちが、将来笑いものになる劇場を作ったら日本人の恥、との思いで建てたからである。

戦前、基礎工事の段階で中断されていた劇場建設に投入されたのは、主に、満州から移送されてきた、永田行夫隊長以下457名の旧陸軍航空部隊の18歳~30歳の工兵たちだった。満州の野戦航空部隊の中隊長だった永田氏は当時24歳。他の将校らとともに第4ラーゲリで工兵を指揮した。全員の無事帰国を目指し、ソ連側将校と交渉して食事や作業が公平になるよう努め、抑留生活のストレス発散のため学芸会なども企画した。工兵たちは、バイオリンや演劇衣装、囲碁将棋、トランプ、麻雀など何でも作ってしまった。

ソ連に抑留された者の中でも、比較的恵まれていた背景には、部隊の性格(大学出たてで階級意識が強くない将校、人柄のよい下士官、職人気質の兵)や物分かりの良いソヴィエトの収容所長の存在があった。

永田隊長は、ソ連の政治将校から秘密情報員の疑いをかけられるも、尋問の席で一式戦闘機の図面を書いて見せるなどして危機をくぐり抜けた。劇場完成後、別のラーゲリに移送されたが、旧知の収容所長の計らいで48年に帰国した。帰国の前に、第4ラーゲリの457人の名前・住所を、スパイ容疑を避けるために暗記し、舞鶴に着いても宿をとって、忘れる前に紙に書き写した。

基本的にノンフィクションでも、小説仕立てのような表現があって少し慣れなかったが、日本、ソ連ともにこんな将校たちもいたのだと知り、感銘を受けた。 

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2015年10月25日、タシケントを訪問した安倍首相夫妻。ナボイ劇場を視察し、日本人墓地に献花した。【首相官邸のサイトより】


d0007923_188918.jpg 上の写真で首相夫妻が見つめていた劇場壁面のプレート。かつては、「日本人捕虜が・・」と書かれてあったが、ソ連から独立後、就任まもないカリモフ大統領は、ウズベキスタンは日本と戦ったことも日本人を捕虜にしたこともないと発言し、「日本国民が‥」に書き換えさせた。

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by itsumohappy | 2016-04-20 18:55 | 文学・本 | Trackback(1) | Comments(0)
2016年 02月 21日

高杉一郎 『極光のかげに』

d0007923_14521097.jpg高杉一郎(1908-2008)は、ジャーナリスト・翻訳家。戦後は、静岡大学教授なども務めた。「シベリアぼけを清算するため」に、4年間の抑留の体験を記した『極光のかげに』(1950)は、日本で最初の「スターリン批判」と言われた。しかしながら、「ソヴィエトの人々の人間性やこの国についてのひとつの真実を伝えたい」という言葉のとおり、終始、客観的な視点で書かれている。 

高杉氏は、出征前は改造社で雑誌『文藝』を編集しており、三木清、中野重治、宮本百合子、中野好夫、竹内好らと交流があった。(改造社は、神奈川県警による複数の言論弾圧事件(いわゆる横浜事件)で有名)1944年、会社が解散させられた直後に氏は召集され、ハルビンで敗戦を迎えた。45年10月、夏服のままで乗せられた「帰国列車」の行き先はイルクーツク州だった。

収容所生活は、シベリアタイガの田舎町、ブラーツクから始まった。ブラーツクとそこから300キロ先のバム鉄道(第2シベリア鉄道)の起点、タイシェトとの間の鉄路建設に、約4万人の日本人捕虜が投入されており、氏は、書記兼通訳として収容所の労務管理に当たった。ここでの2年間は、収容所長をはじめとする周囲の心温かいロシア人のおかげで、比較的幸運に過ごした。
英、仏、独、エスペラント語のほかロシア語も多少理解したため、政治部員(軍隊内の政治指導・思想取締まりを任務とする)から目をつけられたときは、奥地に追いやられないよう所長が庇ったというエピソードが記されている。
しかし、結局、所属する部隊ごとタイシェトの懲罰大隊へ送られ、まくら木製材、原木引き上げの重労働に就いた。

親切なロシア人に、「19世紀ロシア文学に流れるロシア正教に根ざしたヒューマニズムの伝統」を見る一方で、彼らが表情暗くソヴィエト・ロシアの否定面を語ることに混乱する場面がある。密林の中に、ロシア人の囚人を含め、囚人があまりにも多い――やがて、コミュニズムはファシズムと同一物であると氏は悟る。
当時、シベリアには24か国420万人の俘虜がおり、日本人はドイツ人(約240万人)に次いで約60万人とされる。

帰還が間近になった頃、収容所内で始まった奇妙な政治運動にも触れている。帰還に心煩わせるものは、「ダモイ民主主義者」や反ソ分子としてつるし上げられ、「スターリン大元帥に対する感謝署名運動」なども起き、革命歌が合唱された。

49年に帰国後まもなく出版されたこの本は、ベストセラーになったが、「真実をゆがめる」或いは「ソ連に甘すぎる」と左右両方から当時批判されたそうだ。

シベリア生活の様相よりも、戦前の知識階級の奥の深さが印象的である。「先ずなによりも人間であればいい」というメッセージが心に残る。
ペレストロイカをきっかけに91年、高杉氏は、ブラーツクの収容所長だったジョーミン元少佐と再会を果たした。


【参考:2005年2月26日読売新聞、1999年5月23日朝日新聞、1991年8月19日朝日新聞】
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by itsumohappy | 2016-02-21 00:03 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2013年 12月 27日

クロポトキン 『ある革命家の思い出』

d0007923_21271392.jpg公爵家出身の革命家・地理学者ピョートル・クロポトキン(1842-1921)の回想記(1899年)。もとは1898年から約1年間、雑誌「アトランティック・マンスリー」に連載されたものである。幼年期から、革命思想に目覚めアナーキズム運動に携わる20~30代頃までを中心に記されている。特に、冒頭の子ども時代の部分が、当時の上流階級の生活が伺えるもので興味深い。

幼少時のクロポトキンは、モスクワ貴族の習慣に倣い、ナポレオンの軍隊の生き残りであるフランス人の家庭教師から教育を受けた。早くに母親と死別しており、召使たちに気遣われながら成長。1858年、近衛連隊の将校として皇帝に仕えるべく「近習学校」に入学した。近習となって、宮廷で大舞踏会や大接見式などを見るうちに、宮廷生活の見世物的な側面に疑問を抱き、皇帝アレクサンドル二世が些事に夢中になりすぎて重要な問題を考慮しないことにも気付く。当時のロシア社会は、中途半端な農奴解放令(1861年。農奴は身分的には解放されたが、土地取得税が課せられたため、「自由でもあり自由でもないあいまいな宣言」となった)の影響で農民が都市に流入し、不安定な状況となっていた。

d0007923_21274186.jpgクロポトキンは、近衛連隊で一生を閲兵と宮廷の舞踏会に捧げるのはやめようと決意。シベリア・アムール地方のカザーク騎兵連隊への勤務を願い出て周囲を驚かせた。1862年、ミハイル大公の口添えでシベリアに異動し、軍務のほかアムール川流域や満州を探査するなどして5年を過ごした。その間、「最善、最悪、最上層、最下層のあらゆる種類の人間」と接触し、人生と人間の性質を学んだ。

このシベリア生活で、「国家的な規律に対する信念をなくし、アナーキストとなる下地ができた」とある。ポーランド人流刑者の反乱(1866年)がきっかけとなったようだ。ポーランド人流刑者は、バイカル湖周辺の断崖を切り開く道路作りに従事していた。ロシア人の政治犯が運命に服従し抵抗しなかった一方、ポーランド人は成功の見込みのない反乱を公然と起こした。
クロポトキンは自らの将校としての地位が虚偽であると感じ、1867年、軍籍を離れてペテルブルク大学に入学した。

本の後半は、一般大衆に社会革命の理想を広げる運動に努めた1870~1880年前後が主体である。その頃、欧州各地では勤労者の権利向上を求める労働者の組織が次々と誕生していた。
クロポトキンは、「周囲にあるものが貧困とかび臭いパンのための戦いであるとき自分だけが高い喜びを経験できない」、「人々のために、民衆のそばに立って知識を広め、民衆と運命を共にしたい」など恵まれた者ならではの純粋な感情を記している。もともと革命思想はこのようなごく単純な理想から始まったものなのだろう。クロポトキンは、国際労働者協会のひとつに参加し、民衆教化のためのパンフレットづくりや書籍の頒布などを行った。

1870年代、ロシアでは、自由のための闘争が先鋭的な性格を帯びていった。1874年、クロポトキンは逮捕され、政治犯としてペトロパヴロフスク要塞に収監された。その後、病気のために移された医療刑務所から脱獄し、フィンランドなどを経てイギリスに亡命した。
皇帝の専制が倒された二月革命(1917年)を機にロシアに帰国するが、無政府主義、反権威主義の立場から、後のボリシェビキ革命政権には係わらなかった。

アレクサンドル二世を「政治家としての勇気に欠け、凶暴性を隠した生まれつきの専制君主」「ロシアの事態を改善することなく一切を投げ出そうとしている」と自身の目で見て分析したクロポトキンにとって、専制の主体が変化したかのようなボリシェビキ革命は受け入れられなかったということだろう。

『ある革命家の思い出』は亡命中の著作のため、ロシア革命に関する考察はない。
1921年、モスクワで死去し、ノヴォデヴィッチ修道院に葬られた。
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by itsumohappy | 2013-12-27 21:37 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2013年 11月 08日

ドストエフスキー 『罪と罰』

d0007923_22402927.jpg米川正夫、江川卓、工藤精一郎、小沼文彦、中村白葉ら著名なロシア文学者たちが訳してきた『罪と罰』の亀山郁夫氏による最新訳(2008-2009年)。
私は昔、米川訳を読んだが内容はほとんど忘れてしまっていた。字の大きさ・行間など見た目のとっつきやすさは新訳本ならでは。長大な古典文学は読むのにエネルギーが要るので、家にあるような3段組のレイアウトではもう読む気にならない。亀山氏の翻訳の良し悪しはわからないが、少なくとも一応すらすらとページが進むという点では読みやすいと言える。ただ、「バイト」など、訳語としてどうか?と感じるものがいくつかあった。

1865年夏のペテルブルクが舞台。解説によると、ペテルブルクは、1853-57年の毎年の逮捕者が4万人という犯罪都市で、農奴解放令(1861年)後は、土地を与えられない農民も流入して貧困など深刻な社会問題が生じていた。 
貧しさのゆえ学業を続けられなくなった主人公、ラスコーリニコフは、忌まわしい暮らしから逃れるため金貸し老婆の殺害を企て、「超自然的な力で引き立てられていく、服の端を機械の歯車にはさまれ引き込まれていく」ように計画を実行する。その殺人を正当化する論理がこの小説が突き付けるテーマである。

それを説明するくだりが各所に出てくるが、「ラスコーリニコフの論文」から要約すれば、
「人間は凡人と非凡人のグループに分けられる。凡人は従順に生き、法を踏み越える権利を持たない。非凡人は非凡人ゆえに、全人類にとって救済になると思えば、勝手に法を踏み越えあらゆる犯罪を犯す権利を持つ」というもの。古来、人類の恩人、立法者の大部分は多くの血を流させてきた、ナポレオンのような英雄や天才らもしかり。特別な存在であれば輝かしい事業のために殺人が許される、という論だ。

さらに小説は、罪の自覚を持たない主人公は救われるのか、救いは必要なのかと問う。そして「神の存在」の有無に言及する。
「黄の鑑札」(公娼に対して身分証明書と引換えに発行される証明書)で生きるソーニャに「神様がお許しになるはずがない」と責められたラスコーリニコフは、「ひょっとして神様なんてまるで存在していないかもしれない、神様は何をしてくれるんだい?」と応える。

『罪と罰』は「悪」「金」「神」という、ドストエフスキーの代表的エッセンスが込められている。小説では、最後に主人公の更生をにおわせているが果たして本当にそれが可能かは不明であるとも読める。
誰にでも勧められる良い小説というより危険で困った小説である。

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『罪と罰』は1865年、ドストエフスキーがドイツ保養地ヴィースバーデンに滞在中、ルーレット賭博に熱中して困窮状態に陥り、追い詰められてホテルで書き起こした作品である。同年にモスクワで起きた宝石商殺害事件などをヒントにしているという。作家は、10年間にわたるシベリアでの懲役を終了後、モスクワやペテルブルクで生活していたが、妻や兄の相次ぐ死、雑誌「世紀」の倒産などで巨額の借金を抱え、ドイツに高飛びしていた。
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by itsumohappy | 2013-11-08 22:34 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)
2012年 10月 12日

グロスマン 『人生と運命』

「自分の人間である権利のための、善良で高潔な人間である権利のための闘いを続けなければならない。・・・もし恐ろしい時代に、どうにもならない時がやってきても、人は死を恐れてはならない。人間であり続けたいと望むのであれば、恐れてはならない。」 
(『人生と運命』 第三部369頁)


d0007923_1775839.jpgワシーリー・グロスマン(1905-1964)は、ウクライナ・ベルディーチェフ生まれのユダヤ人ジャーナリスト・作家。
代表作『人生と運命』は、1960年代、スースロフ(ソ連共産党のイデオロギー担当書記)が300年後でないと出版されまいとコメントした問題作である。2012年2月、初めて邦訳が出版された。全3巻、1,400頁の大作で、登場人物リストでも数頁にわたる。

もともと化学者の著者は、『文学新聞』に執筆した短編がゴーリキーに認められ、文学活動に専念するよう助言された。1941年6月の独ソ戦勃発に際し、ソ連の軍新聞『赤い星』の従軍記者となり、記事を定期的に掲載した。44年、トレブリンカ絶滅収容所(ポーランド)を取材し、ホロコーストの実態に関する世界初の報道を行った。なお、著者の母は、故郷に侵攻したドイツ軍によるユダヤ人殲滅作戦で死亡している。次第に著者は、全体主義国家における暴力と人間性の破壊という点で、スターリニズムとナチズムの本質は同じであるとの見解に至り、50年代後半から『人生と運命』の執筆を始めた。

『人生と運命』は、スターリングラード戦中の1942~43年の様相を扱ったもので、ユダヤ系物理学者ヴィクトルをはじめとするシャーポシニコフ一家を中心に展開される。スターリングラード戦での独ソの攻防、スターリニズムの犠牲となり粛清される人々、ナチス占領地域におけるユダヤ人虐殺といった、20世紀ソヴィエト・ロシアの悲劇の集大成のような作品である。201の各小節において舞台が、戦場、ラーゲリ、ユダヤ人絶滅収容所などとめまぐるしく転換し、次々と新たな人物が登場するので、慣れないうちは混乱する。
ヴィクトルが粛清の恐怖と闘いつつ、人間としての良心をどのように貫くか悩んだあげく出した結論が、冒頭の引用部分である。
 
著者は、1960年に完成した『人生と運命』をソヴィエト作家同盟機関誌『ズナーミヤ』に持ち込んだが、翌年、KGBの家宅捜索により、草稿を含む原稿のみならずタイプライターのインクリボンまで没収された。作品を反ソ的とみた『ズナーミヤ』編集長がKGBに通報したとされている。64年、著者は、外国ででもよいから本書の出版を遺言で望み、病死した。生前、複数の友人に託されていた原稿が、マイクロフィルムで持ち出され、80年にスイスで出版された。本国で出版されたのはペレストロイカ初期の88年である。
  
翻訳した齋藤紘一氏は、通産省の審議官も務めた元官僚。米川哲夫氏にロシア語を学んだそうだ。『人生と運命』の存在を知ったのは数年前で、邦訳がないのを不思議に思い、取り組み始めた。各小節にある、膨大で精緻な注釈にも圧倒される。
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by itsumohappy | 2012-10-12 17:11 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2011年 10月 30日

『チェルノブイリの祈り-未来の物語』 『チェルノブイリ診療記』

福島第一原発事故をきっかけに、かつて出版されたチェルノブイリ事故関連の書籍が相次いで新装・再出版されている。そのうちの2冊の感想です。

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1986年4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原発で試験運転中の4号炉が爆発・炎上した。事故から36時間経過した時点で、発電所から3キロ圏内のプリチャピチ市民に避難命令が出された。28日、スウェーデン政府の問い合わせを機にソ連政府は事故を公表。5月5日~6日、原子炉火災が鎮火し、放射性物質の大量放出が止まった。飛散した放射性物質は、520京ベクレル。広島に投下された原子爆弾の200~500倍といわれる。ちなみに福島第一原発事故により今も放出されている量は37京~63京ベクレルである。
5月6日、30キロ圏内の住民に避難命令が出され、約13万人が避難した。

ソ連全域から、軍人や消防士ら作業員約60万人が、事故の詳細も知らされずに動員された。大量の放射能を浴びた作業員は、血液循環疾患をはじめとする様々な健康障害を発し、ベラルーシの専門家によれば、事故から5年間で約3万人、2011年現在まで約10万人が死亡したとされる(国連は、2005年、被爆による死者は約4千人と推定している)。

事故から25年経った現在も、許可が無ければ30キロ圏内に立ち入ることができない。強制移住させられた人々は、精神的苦痛に悩まされ続け、なかには、移住先の生活になじめずに政府の命令を無視して自宅に戻る者もいる。それらの「サマショール」(わがままな人)と呼ばれる人々は現在200人以上という。
2011年4月20日、爆発した原子炉を覆う新シェルターと放射性廃棄物保管施設の建設のため、EUなど約30の支援国や国際機関が、約650億円相当の資金拠出を表明した。
チェルノブイリの浄化プロジェクトが完了するのは2065年の予定である。

【2011年4月14日・20日日経、6月9日読売、11日日経新聞より】
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『チェルノブイリの祈り-未来の物語』

d0007923_14591510.jpgスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著(1998年)。著者は、ベラルーシのジャーナリスト。同国で最初にドキュメンタリーを手がけた著名な作家アレーシ・アダモーヴィチに師事した。チェルノブイリ事故当時、首都ミンスクに住んでいた。この本は、著者が3年にわたって、原発の従業員、科学者、医者、兵士、移住者、サマショール、地元政治家らにインタビューし、96年より雑誌に発表したものの集大成である。

ベラルーシ人にとってチェルノブイリは第3次世界大戦。著者は、この戦争がどう展開し、国が人間にいかに恥知らずな振る舞いをしたか、その記憶を残し、かつ、事実の中から新しい世界観、視点を引き出すために10年の歳月をかけたと語っている。

以下、主な証言の要約である。
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<殉職した消防士の妻>
プリピャチ市では、事故は「妨害工作」と言われた。夫は、「1600レントゲン」浴びて、放射性物体、人間原子炉と化した。最後は、骨と体が離れてしまい、体はぐらぐら、肺や肝臓のかけらが口から出て、自分の内臓で窒息状態。同僚の消防士もみな2週間後死去した。これから、お金の工面をはじめ、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか、どの旗のもとに再起すればいいのかわからない。

<事故処理にあたった兵士>
34万人の兵士が生きたロボットとして投入された。原子炉の上で、バケツで黒鉛を引きずった者は「1万レントゲン」浴びた。「勇気とヒロイズムを発揮する」ため多くの命が失われた。アフガンで戦死すればよかった。そこでは死はありふれたことで、理解できることだった。

<映像ジャーナリスト>
チェルノブイリの記録映画はない。撮らせてもらえなかった。悲劇を撮影することは禁じられ、撮影されたのはヒロイズムばかり。カメラマンはカメラを叩き壊された。チェルノブイリのことを正直に語るのは勇気が必要なのだ。

<住民たち>
原子炉が光っているのを見た。美しかった。ベランダに出て見物し、遠くから車や自転車で駆けつける人もいた。地上のにおいじゃないにおいがした。その後、人々は義務だと思ってメーデーの行進をしに出かけていった。情報は一切無く、政府は沈黙し、身を守るすべがなかった。 
疎開した被災者はのけ者にされた。学校では「ホタル」と言われ、隣に座ると死ぬと避けられた。

<ベラルーシの核エネルギー研究所元所長>
ミンスクにヨウ素剤が用意されていたが、倉庫に眠ったまま。誰も彼もが命令を待つだけで自分では何もしようとしなかった。上の怒りを買うことが原子力よりも怖かった。国家が最優先され、人命の価値はゼロに等しい。しかし、指導者連中は、ヨウ素剤を飲んでいた。彼らのために、郊外に専用の管理された農場で野菜や家畜が育てられた。
一刻も早く住民を移住させねばならないとモスクワに訴え出たら反ソ分子として刑事事件が起こされた。チェルノブイリ、これは犯罪史だ。

<同研究所技師>
食料品がむきだしのまま売られ、さらに、汚染されたものとわかっていても混ぜて売られた。もはや食料ではなく放射性廃棄物と知っていながら沈黙した理由は、共産党員だったから。わが国民は最高であると言う信念があり、命令には服従が当然だった。

<党地区委員会元第一書記>
体制の高い理想を信じていた。政治的利益が最優先され、パニックを許すなと命令されていた。住民を通りに出してはならないと言ったらメーデーをつぶしたいのかと言われ政治事件となる。市場への供出割り当て分を達成するため 、セシウム入りの牛乳を工場に運んだ。疎開、移住させられたあとも、ノルマ達成の農作業のために住民が連れてこられた。
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ひとつひとつの証言がそれぞれに衝撃的で一様ではない。しかしながら、根本的な構図は、福島の原発事故が引き起こした様相と似通っている。世界観の激変。情報の隠匿。打ち捨てられ、略奪にあった家々や残されたペット。チェルノブイリの汚染地域では、ペットを含め動物は次々と射殺されたということが違っているが。
以前の世界はなくなって苦悩だけが残った。人々は、何のために苦しんでいるのか。


『チェルノブイリ診療記』

d0007923_1502516.jpg菅谷昭著(2011年7月)。1998年に発行されたものの新版。副題「福島原発事故への黙示」。
著者は、信州大医学部での職を辞し、甲状腺外科の専門医として、1996年から2001年までベラルーシでNGOと協力しながら医療活動に従事した。チェルノブイリ事故で最も汚染されたベラルーシ・ゴメリ州(1㎡あたり1480キロベクレル(40キュリー)以上)などにおける甲状腺障害の増加を、住民に対する諸検査と合わせて科学的に検証し、甲状腺がんなどの治療にあたった記録である。

ベラルーシの小児甲状腺がんの患者数は、事故前の10年間は7名であったが、事故後の10年間では424名。当初、事故は伏せられていたため、人々は5月1日のメーデーのパレード練習をしたり森で遊びキノコを採って食べたりしていた。この地域の人々が事故を知らされたのは5月2日以降。その間に住民の内部被ばくが進んでしまった。

ベラルーシ一帯は内陸地のため、海藻に含まれるヨードの摂取が不足気味になる。甲状腺は無機ヨードを原料として甲状腺ホルモンを作る器官で、体は、不足しているヨードを例えそれが放射性ヨードであっても取り込んでしまい、放射線の内部照射でがんが誘発される。放射性ヨードの半減期は8日であり、事故直後から十分な無機ヨードを投与されていれば、小児性甲状腺障害は軽減されていた。菅谷氏によると、いまだに汚染地域では異常分娩や子どもの免疫能力の低下問題があるそうだ。

氏は、日本では廃棄されるような古い機材・機器を使うベラルーシの病院で、10年以上も遅れた手術形式を目にして戸惑う。職域分担が厳密に区分けされ、人繰りがつかなければその日の手術が当日急に中止になるといった、ソ連式の融通のきかない官僚的、不合理なシステムに憤る。診療実績(=手術件数)で病院に経費が配分されるため、ベルトコンベヤー式に患者が次々に短時間で手術が行われる。その結果、すぐ再発を招き、度重なる手術で合併症のリスクも負うことになる子どもたちのエピソードが痛ましい。経済状態の悪化が医療現場にもしわ寄せされており、スタッフの生活は苦しく、カジノでアルバイトするほうが稼ぎになる医者もいた。氏は、切れないメスを使えるように切れないナイフで食事して練習した。

「旧態依然の非民主的体制」にぶつかりながらも、氏は「ベラルーシの医療を何とかしよう」といった意気込みで突っ走るようなことはせず、「あせりは禁物」と同僚たちとの信頼関係を築きながら、自ら持つ技術(首のしわに沿ってメスを入れる傷跡が残らない甲状腺摘出手術)が認められるように努めた。手術を手がけた患者は750人。しかし、この本には、氏がベラルーシに伝えた手術に関する記述はない。

現在、松本市長を務める氏は、政府の福島第一原発事故対応について、放射性物質の拡散状況を公表しなかったことなど、初動の経過からは全く危機感を感じることができず、国民の立場でものを考えているとは思えなかったと記し、「大切なのは、事実を伝えること」と訴える。福島の事故が収束しないなか、氏が予感した「第2のチェルノブイリ」説は決して非現実的ではないと感じられる。
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by itsumohappy | 2011-10-30 15:12 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)
2010年 07月 30日

ギンズブルグ 『明るい夜暗い昼』 

d0007923_0345894.jpgスターリン時代の強制収容所生活を生き抜いた学者エヴゲーニヤ・ギンズブルグ(1904-1977;右)の回顧録。(中田甫訳;集英社/続編、続々編の3冊構成。現在は絶版のもよう)

カザンの大学で教鞭をとっていた著者は、共産党に「全生涯を捧げる決意」をしていたほど忠実な党員であったが、1934年12月のキーロフ暗殺をきっかけに始まった大粛清に巻き込まれ、37年、逮捕された。逮捕理由は、反党的として逮捕された同僚学者の著作や論文の「過ち」を指摘しなかったことだった。逮捕に納得せず、自らを地下テロ組織のメンバーとした「自白調書」へのサインを拒否した著者は、軍事裁判で禁固10年、公民権剥奪5年の判決を受けた。

家族(カザン市ソヴィエト議長の夫・アクショーノフと男児2人)と離れ離れになり、監獄で取調べを受ける日々からこの記録は始まる。収容された者同士が壁を叩く音やオペラのアリアで情報交換を行うなどの獄中生活の様子が詳しい。
教養があり信頼もされていた同僚が、取調官のいいなりのままに密告で他人の命を次々と犠牲にしたり、著者を断罪した取調官もその後逮捕・粛清されたり、といったエピソードが前半は続く。著者は、取調べで「自分だけのことについて真実を述べる。作りごとについては一切サインせず、誰の名も挙げない」という姿勢を貫いた。
判決後、中継監獄を経て、鉄道と船で極寒の地コリマ(「12ヶ月が冬で残りが夏」の地)に移送され、様々な労働に従事した。囚人を牢獄に閉じ込めておくより強制労働させるほうが「効率的」であるという国の方針転換による。
タイガでの作業は零下50度にならないと中止にならない。過酷な環境の中で、著者は何度も生存を脅かされる危機に陥ったが、頑健さと才気で乗り切った。ロシア・インテリゲンチャの精神、即ち、世紀はじめの賢者や詩人の遺産が自らを支えたと記している。

著者は刑期を満了するも、49年再逮捕され、東部シベリア地域に終身移住の判決を受けた。しかし、大陸から呼び寄せた次男(後の作家ワシーリー・アクショーノフ。長男は独ソ戦中にレニングラードで餓死)や囚人時代に知り合ったドイツ人医師との生活を願い、引き続きコリマに住むことを許された。追放処分が解かれたのは、スターリンの死後。18年ぶりに開放され、56年、名誉回復を受けた。

解放後は、回想記の作成に打ち込んだが公の出版はかなわず、国内にはサミズダート(私製版/地下出版)で流れ、やがて欧州、米国でも読まれるようになった。母国で完全な姿で出版されるという願いは、著者の存命中果たされなかったが、ペレストロイカ期の1990年、モスクワで公刊された。

平穏な時代であれば、一生表に出てくることはなかったかもしれない、個人の奥に潜む悪性に関して、著者は以下のように記している。
「・・・(他人を貶めた)人間はいかに良心の呵責にさいなまれるものか・・・苦しみの中で許しを請う人を見れば、「わが過ちなり」がそれぞれの人の心の中に鼓動しているのがわかる」
この本に描かれている生き地獄と、その究極の状況下にして初めてあらわれる、人間のさまざまな本性や生き様はあまりにすさまじく、言葉では説明し難いほどの衝撃を受ける。
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by itsumohappy | 2010-07-30 00:40 | 文学・本 | Trackback | Comments(2)