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2010年 09月 30日

映画 『カティンの森』

d0007923_23262958.jpgアンジェイ・ワイダ(1926~ )監督作品(2007年)。1943年、独ソ戦のさなかにドイツ軍が、スモレンスクの森で約4千名の射殺されたポーランド人将校が埋められているのを発見した事件をテーマにしている。ワイダ監督の父も犠牲者の一人。監督は、1957年、カンヌ映画祭でフランスを訪れた際に読んだ、西側で出版されたカティン事件に関する文献で真相を知り、以来、事件の映画化を構想していた。

1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が勃発。17日にはソ連がポーランドに侵攻した。独ソ不可侵条約の秘密議定書(モロトフ・リッベントロップ協定。39年8月)で、独ソは、ポーランドとバルト三国を分割占領することを取り決めていた。映画は、突然のソ連侵攻により、東西からの敵に挟み撃ちされた避難民が右往左往するシーンから始まる。ソ連軍の捕虜となりやがて虐殺されることになるポーランド将校と残された家族たちの運命を、複数の主要人物のストーリーが交錯する形で描いている。

戦後、ソ連の体制に組み込まれた「新生ポーランド」では、カティンの事件はナチスの仕業であるとして、真相の究明は封印された。この映画では、「カティン後」の描写が印象的である。事件を巡って、家族でも新体制に与して生きる者とソ連に背を向ける者とに分かれる。抵抗する者は反ソ活動で逮捕される。演出は淡々と抑えているが、事件のリサーチを重ねて再現したという将校処刑のシーンはおぞましい。また、映画ではさほど説明がないので、多少歴史的な事項をふまえないとわかりにくい部分があるかもしれない。ポーランド人将校の妻子の逃避行を手助けする、家族を失くしたソ連軍人がやや唐突に登場するが、その軍人もまたスターリニズムの犠牲者である、と示唆する場面など。

大戦中、英米はドイツとの戦闘を優先し、カティンの件で、連合国の一員であるソ連を糾弾することをあえて行わなかった。
ポーランド国内で公然とカティン事件の解明を求める声が上がったのは1980年代後半になってからである。88年、ソ連のグラスノスチ政策に伴い、ソ連・ポーランド両国合同の歴史委員会が発足して事件の見直しが進められた。1990年、ゴルバチョフは、事件はソ連の犯行であると公式に認めた。
ソ連により銃殺されたポーランド人将校らは、カティンの犠牲者も含めて約2万2千人と言われる。

2010年4月7日、プーチン首相は、ポーランドのトゥスク首相らポーランド首脳を初めてカティンに招いてカティン事件の追悼式典を開き、ワイダ監督もこれに出席した。この式典に招待されなかった、親米派とされるカチンスキ大統領らが、別に開いたポーランド主催のカティン追悼式典に出席のためスモレンスクに向かう途中、政府高官約90人とともに飛行機事故の犠牲となった出来事(4月10日)は記憶に新しい。


【参考】
2010年9月12日・8月11日・5月7日・4月8日、1988年3月29日朝日新聞ほか
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by itsumohappy | 2010-09-30 23:32 | 映画 | Trackback | Comments(0)
2009年 03月 06日

映画 『バレエ・リュス 踊る歓び、生きる歓び』

d0007923_22251873.jpg2007年公開作品。制作・監督のデイナ・ゴールドファインとダニエル・ゲラーは著名なドキュメンタリー映画作家だそうだ。

この映画は、2000年、ニューオーリンズで開催された「バレエ・リュス」(ロシア・バレエ団)の同窓会に集合したかつてのダンサーたちが語る思い出の数々を、当時の映像も交えて紹介しながら、バレエ・リュスの歴史を振り返る構成となっている。

「バレエ・リュス」は、興行師セルゲイ・ディアギレフがマリインスキー劇場などの若手ダンサーを集めて結成したバレエ団で、特定の劇場に所属せず、パリを中心にモンテカルロ、ロンドンなどロシア外で公演していた。09年は、リュスのパリデビューから100周年にあたる。

セルゲイ・ディアギレフの肖像(レオン・バクスト画
/国立ロシア美術館所蔵)
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このバレエ団は、舞台装置や音楽、脚本に、ピカソ、マティス、ミロ、ルオー、バクスト、ローランサン、シャネル、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラヴェル、ドビュッシー、コクトー等々の芸術家たちが関わったことでも有名である。

29年のディアギレフ死去に伴い、バレエ団は解散したが、31年、ド・バジル大佐らにより「バレエ・リュス・ド・モンテカルロ」として再建された。バレエ・リュスでダンサー、振付をしていたジョージ・バランシンが振付師としてこれに参加したが、その後、レオニード・マシーンに交代した。34年には米国公演を敢行し成功をおさめたが、バジル大佐とマシーンの争いにより、団はモンテカルロと「オリジナル・バレエ・リュス」に分裂した。

映画は、ディアギレフ死後、後継バレエ団経営者たちの内紛に翻弄されつつも、バレエ・リュスの遺産を伝え続けたダンサーらのバレエに対する深い思いに焦点を置いている。

分裂した団はそれぞれに米国やオーストラリア、南米などを巡業した。ダンサーの出身国が一時17ヶ国にわたったという「モンテカルロ」が周った米国で、団に初めての黒人や少数民族ダンサーが加わったり、米国人振付師アグネス・デ・ミル(映画監督セシル・B・デミルの姪)による新感覚のバレエ『ロデオ』を上演したりといったエピソードなどにも映画では触れられている。

d0007923_22273519.jpg「バレエ団はもうからないもの」というダンサーのコメントにあるように、資金難で組織が弱体化し、「オリジナル」は48年、「モンテカルロ」は62年に活動を停止した。

「報酬なんてほんのわずか。でも『これが踊れるなら』『あのデザイナーと仕事ができるなら』と、そういう思いが財産だった」と映画撮影当時80歳を過ぎていたアリシア・マルコワ(右:14歳でディアギレフに見出されたバレエ・リュスの「ベイビー・バレリーナ」のひとり。故人)が生き生きと語る言葉が印象に残った。



バレエ・リュス草創期のダンサー
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  ヴァーツラフ・ニジンスキー(左) 相手役をつとめたリディア・ロポコヴァ(右)は、のち経済学者のケインズ夫人となった 

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  レオニード・マシーン(右:映画『赤い靴』(1948年)より)
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by itsumohappy | 2009-03-06 22:57 | 映画 | Trackback | Comments(4)
2009年 01月 18日

映画 『チェチェンへ アレクサンドラの旅』

d0007923_22334531.jpgアレクサンドル・ニコラエヴィッチ・ソクーロフ監督の最新作。原題『アレクサンドラ』。
往年のソプラノ歌手、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(1926~)がタイトルロールを演じている。2004年、戦下のチェチェンの首都グローズヌイなどでロケが行われた。

物語は、アレクサンドラ・ニコラエヴナ(ソクーロフ監督の名前の女性形になる)が、カフカスのロシア軍駐屯地で活動する将校である孫に会いに行き、駐屯地(本物だそうだ)の兵士や周辺の地域住民と触れ合うというシンプルなもの。映画では「カフカスでの長い戦争」という言葉や破壊し尽くされた建物で、チェチェンが舞台であることを示唆している。戦闘を暗示するシーンがちらっと出てくるだけで、武器を実際に使っている場面はない。砂ぼこりの絶えない駐屯地で、劣悪とも言える汚いテント生活を送り、掃討作戦に携わるまだあどけない顔の兵士たちを見たらどう感じるか。街を破壊したロシア兵たちを地元民はどのように思っているか。アレクサンドラは、周辺をよたよたと歩き回りながら観察する。映画は、普通の人が自然に持つであろう感情を表現していて、反戦を声高に訴えるといった政治的な意図はあまり感じられない。

d0007923_22271755.jpg場面に余計な説明はなく、観客の想像に委ねている部分も多い。アレクサンドラは、たった2日間の滞在ではごく表層的なものにしか気づいておらず、日々戦闘に従事して、人もおそらく殺し、明日の命も知れない孫や、親しくなったロシア語の堪能な優しいチェチェン人女性の複雑な気持ちまで理解しきれていないのでは、と思わせる。

ソクーロフ監督は、『アレクサンドラ』を制作した理由を「単純な話は普遍的であり、誰にでも起きることだから」とし、「舞台がイラクでも通じる」と語っている。この映画は、プーチン大統領(当時)のお気に召さず、当局の嫌がらせによりロシアの上映館では、公開時十名弱の観客しか集まらなかったそうだ。

画面の色が意図的なのかかなり茶色く褪せていて、暑苦しさが伝わってくるよう。ところどころにうっすらとヴィシネフスカヤの1940年代の歌声が流れる。

現在、ユーロスペース(東京)で公開中。順次全国公開の予定

  ガリーナ・ヴィシネフスカヤ。右は夫の故ロストロポーヴィチと
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(参考:2007年12月16日北海道新聞、Proline Filmのサイト、文藝春秋『本の話』2008年)
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by itsumohappy | 2009-01-18 22:42 | 映画 | Trackback | Comments(2)
2008年 08月 28日

映画 『12人の怒れる男』

ニキータ・ミハルコフ監督作品の感想です。原題『12』。160分。

d0007923_22434535.jpg法廷ドラマの名作『十二人の怒れる男』(シドニー・ルメット監督デビュー作品;1957年米国)のリメイク。リメイクというとどうも安直なイメージが先立つ。オリジナルを超えるリメイクなどあまりない気がするし。迫力あるおじさんたちが居並ぶチラシを見ると何だか疲れそうな映画にもみえる。映画館で、前回の上映が終わって出てくる人たちが、話もせず一様に硬い表情だったので、どんなものかなぁ?とあまり期待しなかったのだが、重厚で、心にずっしり響く作品だった。

配給会社が、来年始まる裁判員制度と絡めて宣伝しているため、この映画は、ルメット作品と同じく正義を導こうとする陪審員のドラマ、という印象を持つ。たしかにスタイルは本歌どおりだが、陪審員の審議の中でミハルコフ監督があぶりだしたのは、ロシア人及び現代ロシア社会の抱える諸問題。それらをヒューマニズムとエゴイズムのドラマの軸と平行して描いた。審議の終了で話が終わるのではなく、新たな始まりがあるという展開が面白い。なので、RemakeというよりReborn作品だ。

最初はやる気がなくて早く帰りたい陪審員らが、徐々に自分たち自身について語りだす。一見何気ないせりふのひとつひとつの裏に、痛烈な批判が込められている。「テロリスト」となったおじさんのエピソードからは、チェチェン問題に対する監督の見解も伺えるように思う。

d0007923_22441189.jpgこの映画のサイトによれば、監督は審議の部分の綿密なリハーサルを行った後に、順撮りで撮影したそうだ。チェチェンのシーンは、クラスノダール地方(北カフカス)でセットを組んで撮られた。黒澤明作品へのオマージュと思しき場面もある。

ルメット作品を観ていない方は、このミハルコフ作品のあとで観るとよいでしょう。話を予測しないまま鑑賞するほうが面白いですから。ル作品を観ていても十分楽しめます。
東京に続き、京阪地区ほか各地で公開予定。
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by itsumohappy | 2008-08-28 22:50 | 映画 | Trackback | Comments(4)
2008年 02月 20日

A・ペトロフ監督のアニメーション

ロシアのアレクサンドル・ペトロフ監督(1957~)は、アニメーションを、ガラス板に油絵を指で描きコマ撮りして制作する数少ない作家である。描いて撮影し、動かす部分を描き直してまた撮影、を繰り返すスタイルは、技術と忍耐のほか記憶力も要し、他の技法でこれをまねることはできない。
ペトロフ監督は、『老人と海』(1999)で、第72回アカデミー賞短編アニメーション部門賞を受賞した。また、過去『雌牛』、『水の精』で同部門にノミネートされた。

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昨春公開の最新作『春のめざめ』Моя любовь(2006)は、19世紀のモスクワを舞台に、16歳の少年の愛の葛藤を描いたストーリー。素朴な使用人の少女と上流階級の隣家の令嬢に対する、純な、或いは悩ましい感情がファンタジックに交錯する。1920年代に出版されたシメリョフ『愛の物語』が原作。監督は、インタビューで「愛とは奇跡であり、性は神秘的で壊れやすいもの、と伝えたかった」と語っている。ツルゲーネフに奉げた作品である。

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上映時間27分で、制作に3年半かけた。制作費100万ドルで、日本も出資している。数人の助手が別々のガラス板に描いた人物や背景をデジタルカメラで撮影し、編集した。
画面は、モネやルノワールのタッチに似た質感と独特の動きがあり、登場人物の息遣いが伝わってくる。現在、第80回アカデミー賞にノミネートされている(2月24日発表)。

【ペトロフ監督作品】
『雌牛』 Корова 1989(原作:プラトーノフ)10分 
ほとんど暗い画面からロシアの土くささが感じられる。闇できらっと光る子牛の大きな瞳が美しい。牛の全てが役に立ってくれた、と静かに語るブラックジョーク?が面白かった。

『おかしな男の夢』Сон смешного человека 1992(原作:ドストエフスキー)20分
私は原作を読んでいないので、映像化にあたって工夫された部分がわからないが、主に茶色いトーンで描かれた世界は奇想天外。砂の表現など目をひくが、手間のかかるアニメーションなら、もう少し美しい、或いは見ていて楽しい話を題材にしてもいいのでは~とも感じた。

『水の精 -マーメイド-』 Русалка 1996(原作:プーシキン)10分
原作のプーシキンの戯曲は、粉屋の娘が王子と恋に落ちたが裏切られて身投げし、水の精(ルサルカ)となって王子に復讐するという話らしい。
老人の心象風景(鐘の音を聞いて過去の出来事がフラッシュバックするシーンなど)や水のはねる描写がよい。短いが話に引き込まれ、見応えがある。

『老人と海』 Старик и море 1999(原作:ヘミングウェー)23分
d0007923_22222789.jpg海のうねりと空の刻々と変化する様子がみどころ。冒頭、アフリカを回想して動物が出てくるシーンも印象的。有名な小説なので、ストーリーの展開はあまり楽しめない。
この長さで、約29,000枚のガラス絵が描かれた。日本・カナダが出資し、70㎜フィルムで撮影され、制作に2年半かけた。

いずれの作品でも、人の表情より自然や動物の描写のほうがだんぜん美しく感じた。

ペトロフ監督は、ユーリー・ノルシュテイン
監督に師事した。

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(1999年7月26日、2007年3月20日朝日新聞、2008年2月8日ロシア・トゥデー、スタジオジブリのサイト他より)
 
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by itsumohappy | 2008-02-20 22:44 | 映画 | Trackback(1) | Comments(9)
2007年 05月 03日

映画 「ロストロポーヴィチ 人生の祭典」

d0007923_17593355.jpgA・ソクーロフ監督の新作ドキュメンタリー映画(2006年)で、先だって亡くなったロストロポーヴィチ氏とボリショイのオペラ歌手だったヴィシネフスカヤ夫人の物語。2人の超豪華な金婚式の模様から始まる。デジタル撮影の画面が鮮やかで、はじめTVを大画面で観ているような錯覚がした。

映画は2部構成。夫妻の生い立ちと出会い、芸術家として大成するまでの歩み、16年間の亡命生活と故国への帰還を淡々と紹介し、次に、ポーランドの作曲家が献呈したチェロ協奏曲をウィーン・フィルと初演する巨匠と、後進の指導に情熱を注ぐ夫人の様子を描く。

ペテルブルクにある美術品に囲まれた邸宅で、ソクーロフ監督のインタビューに答える2人の話は興味深い。監督の語り口は静かだが、カメラは2人の表情をがっちり捉えて離さない。ロストロポーヴィチ氏のユーモア溢れるお茶目さは、故米原万里氏の著作などで紹介されていたとおり。ヴィシネフスカヤ夫人の表情はやや険があり、幼時からの苦労がしのばれるようだ。

夫妻が作家ソルジェニーツィン氏をダーチャに匿い擁護した(地下出版の手助けなどをした)ことは、当然映画で説明されているが、観に来ていた10代・20代位の人たちはソルジェニーツィン氏を知らないだろうなぁ。

ロシアのオペラ(私はよくわからない)や音楽がお好きな方は、より楽しめると映画だと思う。東京・渋谷のイメージフォーラムで公開中。少なくとも5月25日までは上映するとのこと。地下の映画館は、椅子はふかふかですが、スクリーンの位置が高いのであまり前に座らないよう注意!です。

なお、ヴィシネフスカヤ夫人はソクーロフ監督のチェチェン問題に関する次作に出演。現地グローズヌイでのロケもこなされたそうです。
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by itsumohappy | 2007-05-03 18:15 | 映画 | Trackback | Comments(8)
2006年 08月 12日

映画 「僕の村は戦場だった」/「ひまわり」

戦争の残酷さを描いた2作品について。

アンドレイ・タルコフスキー「僕の村は戦場だった」(1962年、ソ連) 

d0007923_12482579.jpgなんとなく苦手なタルコフスキー監督だが、この映画はわかりやすい。冷徹なまでにリアルなドラマで、観ていてつらい。独ソ戦で村が戦場となり、家族を失った少年のひきつった顔ばかりが印象に残っている。芸術的という形容は戦争映画にはふさわしくないが、白黒の精緻なコントラストの画面に、怒りと悲しみが静かに広がる。自ら志願して対独パルチザンに協力し、戦地を駆け回って斥候活動をするこの少年は12歳の設定。独ソ戦の開始は1941年なので、少年は1930年前後の生まれである。つまりタルコフスキー(1932年生まれ)自身の少年時代にあたる。同世代にはゴルバチョフ、エリツィン両元大統領(1931年生まれ)がいる。

観るべき映画のひとつであると思うが、救われない、いたたまれない気分になる作品である。制作された1962年はキューバ危機が起きた年。冷戦の時代、この映画はあまり当局に受けなかったかもしれない。タルコフスキーは、表現の自由を求めて亡命したが、その後ほどなくして1986年、病没した。


ヴィットリオ・デ・シーカ「ひまわり」(1970年、イタリア)

d0007923_12491486.jpgどこまでもどこまでも続く画面いっぱいのひまわり畑が心に残る。私の、ウクライナのイメージが決定づけられた映画。イタリア映画らしく情感、哀感たっぷりで、有名なテーマ音楽も印象的。私が観たのは再上映時だが、ソ連は「悪の帝国」などと呼ばれている時代で、まだまだ謎の国だった。西側初のソ連ロケが行われた記念すべき作品で、映画を観ながら、これがモスクワの地下鉄、赤の広場・・・と感嘆した覚えがある。

スターリンが死んだことだしと言って、出征したまま帰らない夫を単身捜しに行くソフィア・ローレンの、存在感のある演技はすばらしい。スターリンの死は1953年、戦争が終わってしばらく経ってもさまざまな事情でソ連から帰還できない人々がいたのは日本人の場合と同じ。共演のソ連女優、リュドミラ・サベリーエワの、ローレンとは対照的な清楚な美しさも心に残る。
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by itsumohappy | 2006-08-12 12:58 | 映画 | Trackback(1) | Comments(4)
2005年 12月 24日

「戦艦ポチョムキン」80周年

1925年12月24日、モスクワのボリショイ劇場で映画「戦艦ポチョムキン」が、血の日曜日事件に始まる第1次ロシア革命20周年を記念して初めて上映された。この時エイゼンシュテイン監督27歳。上映が始まっても、まだ終わりのほうのフィルム編集がすんでおらず、つばでとりあえずくっつけて劇場に運び、辛うじて間にあわせたというすごい作品である。

1925年は、日本では治安維持法、普通選挙法が制定された年である。翌年に、フィルム「戦艦ポチョムキン」は横浜港まで来たが検閲の結果、輸入禁止となり送り返されたそうだ。

日本で初めて上映されたのは1959年になってからで、ソ連などで検閲カットされたものだった。もともと制作当時のフィルムですらソ連は、自国にネガを残さないでドイツにそのものを輸出してしまったというのだからおそろしい。今も各国で、残されたフィルムを探索し、「完全版」を編集する試みがなされているとか。

1959年、日本で初上映されたときのポスター
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この映画の誕生を記念して24日、神保町で上映会&講演会があった。新藤兼人氏、朝倉摂氏などがこの作品への思いを語っていた。会場となった岩波ビルの1室は満員で立ち見がでるほど。お客さんの平均年齢は67.5歳といったところか。まぁクリスマスイブにポチョムキンを観に来る若者は少ないかもしれない。

無声映画時代にいかに説得力ある表現を追求したか、それを感じてほしいといったことを93歳の新藤監督は話していた。確かに、映像がひたすら垂れ流されていることに慣れきってしまった今日では、この作品の偉大さを十分理解しきれない気はする。 


d0007923_2315675.jpgこの映画を観るのは2回目だが、オデッサの階段シーンがやはり印象的。不気味に後ろから機械じかけのように近づき市民を次々と殺戮する軍隊と恐怖にかられて逃げ惑う群集とその苦悶の表情、そして滑り落ちる乳母車。映画人ならデ・パルマ監督でなくともこのシーンいただき!と思うだろう。


    ロケ地オデッサのリシュリュー階段
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by itsumohappy | 2005-12-24 23:24 | 映画 | Trackback(1) | Comments(0)