カテゴリ:歴史・領土問題( 33 )


2005年 12月 04日

ロシアとの条約

d0007923_234339.jpg麻布台にある外務省外交史料館で、日露国交150年を記念して「日露関係のあゆみ:1855-1916」と題した館所蔵品の展示会をやっている。(今月27日まで)

d0007923_2343028.jpg史料閲覧する所の脇の建物にひっそりとした展示室が1室あり、普段でも吉田茂の関係資料など常設している。土日は開いていないし、閉まっている重い門をごろごろとスライドさせて入るので、とても通りがかりの人が気がついて、気軽に入って見てみようかという感じではない。

d0007923_2351758.jpg日本がロシアとはじめて調印した条約は「日露和親(通好)条約」(1855)。これにより日露国境が択捉とウルップの間とされ、箱館、下田、長崎が開港された。この条約の関係書類は関東大震災で焼失し、展示は写真だけ。今日、条約を写した文書しか残っていないのだ。うーん残念なことだ。

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1875年には「樺太千島交換条約」(右)が結ばれた。批准書は見栄えして立派。とじひもの缶(蝋缶:とじひもを押さえる赤い蝋を入れる)が妙に大きい。読んで字のごとく、日露雑居状態だった樺太をロシアへ、代わりにロシア領のウルップ以北18の千島の島々を日本へと帰属させた条約である。


最初の日露激突であった日露戦争のポーツマス講和条約の批准書も立派。下は調印書。サイン一行目に左はウィッテ、右は小村寿太郎の両全権の署名がある。
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日露戦争後、1907~1916年にかけて日露は満州や内蒙古での権益を相互に承認する「日露協約」を4回結んだ。公開協約と秘密協約がある。 (右下が秘密分)
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ロシア革命後、ソビエト政権によってこの秘密分は公開された。また、帝政時代に結ばれた条約は破棄されることとなった。

d0007923_23275758.jpg革命後国交が途絶えたが、1925年、「日ソ基本条約」でソビエトとの国交が樹立。常設展のほうに批准書(右)があった。この条約でポーツマス講和条約の有効性などが再確認された。 



そして時代は飛ぶが、第二次大戦中に結ばれた「日ソ中立条約」(1941)の調印書がこれ。
d0007923_23113410.jpg双方の中立友好、領土不可侵を約束したもの。不延長通告後一年間は有効のはずが、その期間内にソ連は日本に参戦し、満州、樺太、千島に侵攻した。

国交は日ソ共同宣言(1956)により回復したが、大戦の講和条約(平和条約)は戦後60年経過しても未だに結ばれないままだ。次にロシアと結ぶ歴史に残る条約は何だろう。たぶん平和条約なのだろうが、領土問題とのからみもあるし、一体いつまで休戦状態?が続くのだろう。
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by itsumohappy | 2005-12-04 23:34 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2005年 11月 11日

羅臼の漁船の拿捕

11月3日、国後島付近でホッケ漁をしていた羅臼の漁船がロシア国境警備隊に捕まり、取調べのため国後島のユジノクリリスク(旧地名:古釜布)に連行されてしまった。10日現在、その後どうなったか音沙汰がない。拿捕の理由は、指定区域外で操業し、許可されていない魚が船にあったためらしい。
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いくら北方領土(択捉、国後、色丹、歯舞)は日本の領土と叫んでもロシアが実効支配している地域なわけで、かつてその付近での操業は、ロシア側の銃撃など危険と隣り合わせであった。
領土問題は未解決のままであるが、98年、ロシアとの協定により、取締りの管轄権を棚上げし、一定の条件のもと安全に操業することができるようになった。毎年の交渉で魚種や漁獲量、隻数が決められる。操業中、網に入った指定外の魚は海に戻す。秋から年末まではホッケ、年始から3月初旬まではスケトウダラなどの漁ができる。協定遵守のかわりにロシアは臨検しない(のが暗黙の了解)。ロシアへの相応の見返りはあり、漁業者は2千万くらいの資源保護協力費(一応日本の領土なのだから入漁料とは言えない)を払う。その他水産研究の機材の供与とか日本政府による対ロ技術支援もある。

ちなみにこの協定ができるきっかけを作ったのが、先の選挙で返り咲いた鈴木宗男議員だ。世帯の約3分の1が漁業に従事している羅臼町では絶大な人気があるらしい。この町で鈴木氏は60%の得票率を得た。

今回の拿捕は協定締結後はじめてとのこと。日本側に目に余る行為があったのか。たまたまロシア側の警備隊の機嫌が悪かったのか。
船の中にあった禁止魚は「エビ15匹、キンキ120匹、ツブ150個」だったそうだ。キンキというのは食べたことがないのだが、一匹2~3千円位もする高級な深海魚。別名キチジ、キチジ(吉事)であるからして鯛のとれない北海道ではその代わりになるらしい。   

キンキ
d0007923_2124628.jpgロシアの目をかすめて?ちょっとくらいとりたい気持ちになっても不思議ではないなぁ。ともあれ、拿捕漁船の関係者は心配しているだろう。ロシア大統領の来日を目前にそうひどい扱いは受けないと思われるが・・。
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by itsumohappy | 2005-11-11 21:37 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2005年 10月 26日

三笠とオーロラ

横須賀の記念館三笠で、イギリスから寄贈された日露戦争当時の写真展をやっていると新聞にあったので見に行った。(10月8日) 基地が公開されているとそれなりに街に人が多いのだが、この日は寂しいくらいまばら。Yナンバーが走っていなければ普通のうらぶれた港町って感じである。横須賀は何度も行っているが三笠に入るのははじめてだった。
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甲板と中の展示室を見て回り、解説などを読んでいるとけっこう時間がかかった。ひっそりやっていた特別展示の写真展もなかなか面白く、現代の、コンピュータが操る戦争と違って、いわゆる昔ながらの戦争のイメージそのまんまであった。観戦武官なんて知らなかったし。旅順港口閉塞戦という言葉は知っていたが、船を沈めた写真を見てはじめて具体的にわかった次第。

(写真)(上)艦橋から 東郷司令官が指揮したところ。(下)「艦橋の図」(東城鉦太郎画/三笠保存会所蔵)
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展示室にT字戦法ジオラマ?みたいのがあって、沈んだロシア船の名前がずらーっと出ていた。
38隻のうち20隻も沈んでしまった。ペリーが来てから半世紀ちょいしか経っていなかったのだから、いま想像する以上に輝かしい出来事だったのだろう。

ウラジオストック艦隊の応援で遠路はるばるバルト海からアフリカを回って対馬まで来たロシア船。地図を見るとほんとよくがんばってやってきたよね・・と思う。
当時のロシア船で残っているのは巡洋艦オーロラ号だけらしい。ペテルブルグのネバ川をはさんで夏の庭園向かいに係留されている。実際見るとよくこんな小さな船がここまで帰って来られたなーと感じる。

(写真)オーロラ号 左は陸軍幼年学校
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外国の軍関係者が来ると必ずここを表敬するらしい。1917年の10月革命時には、空砲を撃って冬宮攻撃の合図を送ったそうだ。その意味でもこの船はロシア史を象徴するもののひとつなのだろう。


三笠からの帰り、観音崎をまわってペリー公園、くりはま花の国に寄って帰った。花の国はコスモスの頃おすすめです。

(写真)ペリーの久里浜上陸記念碑  くりはま花の国
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by itsumohappy | 2005-10-26 00:41 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)