カテゴリ:歴史・領土問題( 33 )


2006年 08月 08日

1945年夏

8月は、戦争により世の中が壊滅した歴史を想起し犠牲者を悼む季節。第二次世界大戦集結から61年。戦争の話は私は本などでしか知らないが、当時の日ソ関係における出来事から少々。

太平洋戦争末期まで日ソは、条約により中立を保っていた。しかし、土壇場に来てソ連は宣戦布告。この行為とその後の抑留者の問題が、日本人のソ連に対する負のイメージを決定づけたと思う。

●日ソ中立条約の破棄とソ連の参戦
日本は、北方の安全を確保するためソ連との中立条約を構想し、1941年4月、日ソ中立条約が締結された。
同条約は、日ソ友好関係の維持と両国の領土の保全・不可侵を尊重することを約束し、一方が第三国から攻撃された場合は、他方は紛争の期間中中立を守る義務があるとされた。効力は5年間で、廃棄するためには期間満了1年前の通告が必要とされ、通告のない場合は、次の5年間の自動延長が定められた。

1941年12月、日本は真珠湾、マレー湾を攻撃し米英に宣戦布告して太平洋戦争が始まった。しかし翌年、ミッドウェーで大敗してからは日本の敗色は次第に濃くなっていった。
日本との戦争終結のためにソ連の参戦を求めたのはアメリカ。交換条件は日本の領土だった。極東の戦争問題はヤルタの非公式協議で内密に処理されていた。

ソ連は、独ソ戦終了以前より極東に兵力を移動させていた。満州、朝鮮での攻撃を前提に、北海道への侵攻も念頭に置き、対日戦の準備に着手した。1945年4月、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告し、同条約は翌年4月に失効することとなった。
1945年7月、日本政府は、ポツダム宣言を「黙殺」。8月6日、アメリカは広島に原爆を投下した。8月8日、ソ連は、有効期間内であった日ソ中立条約を破って日本に宣戦を布告した。

国境での戦い
8月9日未明、ソ連は満州、南樺太に侵攻した。同日、長崎に原爆が投下された。15日、終戦の詔書が発せられ、太平洋戦争が終わった。
ソ連太平洋艦隊による千島への侵攻は15日に命令されており、16日、ソ連はカムチャツカ方面の行動を開始し、18日、千島の北端、シュムシュ島に上陸して日本軍との戦闘が始まり日本側は約千人が戦死した。戦争は終わったはずなのに戦っていたのだ。
停戦協定成立後、ソ連軍は千島各島に駐屯する日本軍の武装解除を行いながら南下し、9月5日、歯舞に至るまでの占領を完了した。

ソ連は、樺太には国境と西海岸北部から侵攻し、8月20日、真岡に上陸、日本軍との間で砲撃戦となり、22日には豊原が空爆された。同日、停戦の協定が成立したが、ソ連の潜水艦による引き揚げ船攻撃の死者を含め、戦闘終結まで約4千人の日本人が犠牲になったといわれる。

1946年2月、南樺太と千島はソ連最高会議幹部会令によりソ連領に編入され、翌年、それに伴いソ連憲法が改正された。

スターリンの北海道分割要求
日本の無条件降伏に対し、各地域における日本軍の降伏先等の指示を定める「一般命令第1号 」案が1945年8月、トルーマン大統領からスターリンに送られた。この案では、日本軍がソ連に対して降伏すべき地域を「満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太」としていた。
両者の交渉は秘密の電報で行われた。

スターリンは、ソ連に明け渡される領域にヤルタ会談に基づき千島列島全土を含めること、また北海道の留萌から釧路を結ぶ線を境とする北半分も同区域に含めることを要望した(8月16日付)。トルーマンは、ソ連の北海道北部占領は拒否したが、クリルの全てがソ連に明け渡される領域に含むよう命令案を修正することに同意した(8月18日付)。

スターリンがトルーマンの回答を受ける以前に、ソ連太平洋艦隊による千島への侵攻は既に命令されており、一般命令第1号が降伏文書とともにミズーリ艦上で調印された9月2日には、色丹までのソ連の占領が完了していた。

*************
 
ロシアは、日本の領土である「北方領土」の占有について、第二次大戦の結果である(だからあきらめなさい)と言い続けている。
ソ連はサンフランシスコでの対日平和条約に調印しなかったので、いまだに日露の間には先の戦争を終結した平和条約がないままである。

【参考】
日露(ソ連)基本文書・資料集(ラヂオプレス)
日本外交史辞典(山川出版社)
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by itsumohappy | 2006-08-08 00:43 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2006年 07月 22日

日本から見える「ロシア」

北海道の納沙布岬や宗谷岬の向こうはロシア。日本とロシアの交流は1792年10月、ラクスマンの根室来航にはじまる。ラクスマンは、漂流民大黒屋光太夫を伴い通商を求めるためにやってきた。江戸幕府からの返答が来るまでの約8か月間、ラクスマン一行は根室沖の弁天島に船をつけて上陸し、根室で生活した。日本で最初のロシア語辞典が作られたのもこの時。一行は翌年6月、幕府と交渉のため松前に向かうが、長崎入港を許可する「信牌」を受け取って8月、箱館から帰国した。日本の対ロシア開国は、1855年2月のことである。(2001年12月29日 読売オンライン)
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     ラクスマン根室冬営の図(天理大学図書館蔵)


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根室港。右上が弁天島。根室の町は、かつてはいわゆる北方領土(歯舞、色丹、国後、択捉)への玄関口だった。納沙布岬などからロシアが実効支配する島々を見ることができる。今は目の前の海で漁を自由に行えない。ロシアと毎年交渉して結ばれる協定の範囲内で操業が可能となるまでは、周辺海域での漁業は常にロシア警備艇からの銃撃、拿捕の危険にさらされていた。

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納沙布岬から見る北方領土、歯舞群島のひとつである水晶島(左)。右端に小さく見えるのは1937年に日本がかつて立てた貝殻島の灯台。貝殻島は、灯台がやっと立つ位の大きさの島(というより岩)で、岬から3.7キロメートルのところにある。灯台との間が日ロ中間ライン(「国境」とは言わない)。そこを越えるとロシアの警備艇に捕まる。灯台周辺はコンブの漁場で、シーズン中はロシアに「協力費」を払って入漁する。歯舞群島にはロシア国境警備隊がいるだけで、住民はいない。

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   納沙布岬と歯舞群島の上空写真(2006年1月9日 海上保安庁ヘリ撮影)
   (第一管区海上保安本部のHPより) 


d0007923_2382575.jpg根室は領土返還運動発祥の地でもある。エゾカンゾウの咲く海岸沿いの道路のところどころに立つ看板。右上には「こどもたちのために新たな決意で燃やそう返還の火」というスローガン。イラストの少しゆるい感じが気になる?



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納沙布岬にある「四島のかけはし」(左)。右側に「祈りの火」。島が返還されるまで燃やし続けるそうだ。


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奥にうっすらと見えるのが標津町から30キロメートル先にある国後島。根室海峡に面する町、泊(ゴロブニノ)では日本のTVも映る。戦前はこの島に約7300人の日本人が住んでいた。現在ロシア人が約4300人住む。

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   国後で一番大きい町、古釜布(ユジノクリリスク)。(内閣府HPより)
   鈴木宗男議員ゆかりの「友好の家」はここにある。

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   標津町にある領土返還を叫ぶモニュメント。国後を臨む海沿いにある。

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択捉島にある「水産会事務所」(左)と「紗那郵便局」。(内閣府HPより) ともに、現存する戦前の日本建築。ソ連上陸後、日本の建造物は多く破壊されたため貴重である。水産会事務所は、1922年に建てられた当時唯一の2階建て建築物。戦後はソ連人が使っていたが、現在は空き家。紗那郵便局は1885年開局、その後建て替えられた。電信局もあり、ソ連の択捉上陸(1945年8月28日)はここから根室に打電された。建物は今でも使われている。

北方領土へはサハリンから船や飛行機で行くことはできる。しかし、パスポートを使うことは外国領と認めることになり、日本の国策に反するので一般国民は北方領土への渡航は自粛することになっている。北方領土の元島民や関係者は国の制度を使って、かつての故郷の訪問や墓参りをすることができる。その際、所定の身分証明書で入域(入国ではない)する。四島在住ロシア人との交流事業もある。来日したロシア人達のお気に入り買い物スポットは100円ショップらしい。
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by itsumohappy | 2006-07-22 23:50 | 歴史・領土問題 | Trackback(1) | Comments(8)
2006年 07月 11日

皇帝一家の最期

ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世は、1917年3月2日、臨時政府の樹立に伴い退位し、8月、皇帝一家はシベリアのトボリスク、次にオムスクに流された。10月革命後は、エカテリンブルクに送られたが、18年7月17日深夜、幽閉先のイパチェフ家の地下で4人の侍従とともにボルシェビキにより銃殺された。死体の行方は長く不明だったが、79年に郊外の沼地から発見された。91年になってその事実が公表され、ソ連崩壊後、ロシア政府は英米の科学者の協力も得て遺骨のDNA鑑定を行った。その結果、遺体は、皇帝、アレクサンドラ皇后、皇女3人(オリガ、タチアナ、マリア)、侍徒4人のものであるとされた。皇太子アレクセイと第四皇女アナスタシアは確認されなかった。

   待望の皇太子が誕生した1904年頃の皇帝一家
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DNA鑑定の結果に疑問を持つ研究者もおり、またロシア正教会も皇帝一家の遺骸と認めなかったが、一家は受難者として列聖され、歴代皇帝が眠るサンクトペテルブルクのペテロパヴロフスク聖堂に98年7月、埋葬された。

歴代皇帝が眠るペテロパヴロフスク聖堂(左)
d0007923_024303.jpg埋葬式に当時のエリツィン大統領は欠席を表明していたが、直前になって翻意。私人の立場で出席して皇帝の処刑という蛮行を反省し、国民の融和を求める式辞を述べ、新生ロシアをアピールした。正教会総主教アレクシー2世は式典に出席せず、セルギエフ・ポサードで「エカテリンブルクの遺骸」に祈りを捧げた。

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   98年7月、ペテロパヴロフスクに運ばれる皇帝夫妻とされる遺骸
   (AP通信Dmitri Lovetsky氏撮影)

一家が銃殺された民家は、皮肉にもエリツィン氏が旧ソ連共産党のスベルドロフスク州(現エカテリンブルク)第一書記だった時代に破壊されていたが、跡地に皇帝追悼のための教会が03年に建設された。

(2003年7月17日北海道新聞、2000年4月7日産経新聞、1998年7月18日日本経済新聞より)

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【アナスタシア伝説】

皇女アナスタシアは生き延びた―という説があり、映画にもなった。皇女を自称する人物もいたが、DNA鑑定により事実無根とされた。

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1956年のアメリカ映画「追想」(原題「アナスタシア」)
大女優H・ヘイズとI・バーグマンの火花散る演技は見ごたえあり。
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by itsumohappy | 2006-07-11 00:41 | 歴史・領土問題 | Trackback(1) | Comments(0)
2006年 04月 30日

樺太と戦争の悲劇

先日、63年ぶりにウクライナから帰郷し、弟、妹と再会を果たした元日本陸軍兵士、上野石之助さんのことが大きく報道された。1943年に出征して樺太の歩兵部隊に所属し、終戦後もしばらくは樺太にいたそうだ。
1945年8月15日のポツダム宣言受諾後にソ連は南樺太と千島に侵攻した。上野さんも戦闘に参加し、その後抑留されていたのかもしれないが、帰国までの間の苦労については「運命」としか語らなかった。

終戦時、南樺太(北緯50度以南)の人口は約40万人。戦争が終結したのにもかかわらず、ソ連の侵攻で多くの民間人が犠牲となった。

   1945年8月の樺太の区画(地理のページより作成。カッコ内は現在の地名)
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『ダスビダーニャ、わが樺太』(道下匡子著)という本がある。(「ダスビダーニャ」は「さようなら」の意味) 当時3歳だった樺太真岡市生まれの翻訳家が、終戦後、樺太在住の日本人(韓国人もだが)を襲った悲劇を父親のメモや親類、関係者などの話を基にまとめたノンフィクションである。ソ連軍兵士が家々に押し入って略奪を行う中、作者の一家はまさに兵士たちに相対しつつも間一髪生き延びた―3歳の作者がなぜ一家を救えたか、という冒頭のエピソードから8月20日の真岡への無差別爆撃、集団自決、引揚げ船への潜水艦攻撃など戦争の惨禍が静かに展開されていく。読んでいて楽しい本ではないが、樺太からの引揚げ体験などは満州ほどにはあまり聞かないので印象に残る。

  現存する日本時代の建物のひとつ、旧樺太庁博物館 
  現サハリン州郷土博物館
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樺太での日ソの戦闘の死者数は兵士、民間人合わせて約6000人とされるが、公式記録はない。また、空襲の死者数約1000人、潜水艦爆撃の死者数約1700人という数についても正確なところは不明である。
ソ連は、南樺太、千島を占拠して1946年、自国領に編入したが、日本がサンフランシスコ平和条約で放棄した南樺太、千島の部分は帰属先が未確定のまま今に至っているので、ロシアの領有に法的な根拠はないとされる。

戦後、千島の住民も樺太に移送され、収容所で抑留されていた民間人は順次北海道などに引揚げた。兵隊はシベリアなどの収容所へ送られた。
引揚げずに今もサハリンに暮らす70、80代の「一世」は約250人いるそうだ。なお、強制移住で樺太に来て、戦後、帰国の道を失い残留した韓国の人々は最大の犠牲者かもしれない。

現在、「日本サハリン同胞交流協会」などの団体がサハリン在住日本人の一時帰国の支援活動を行っている。上野さんの報道に隠れてしまったが、先日の新聞で、同協会の支援する一時帰国団員として、11年間シベリアに抑留されそのまま現地で亡くなった日本人とロシア人女性の間に生まれた姉弟が肉親を捜すため来日し、「日本の土を父の墓に供えたい」と語った記事があった(4月26日 毎日新聞)。父親の戸籍は、上野さんと違って残っていたそうだが親戚を見つけることはできただろうか。その後の報道は今のところないようだ。

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日露国境に置かれていた石。双頭の鷲の裏側(日本側)は菊紋である。 (サハリン州郷土博物館所蔵)







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【サハリン】
北緯50度以南は1905年、ポーツマス条約の締結により日本領となった。中心都市は豊原で樺太庁が置かれていた。

面積は北海道の約1.1倍。最南端のクリリオン岬から宗谷岬までは43km。(東京~千葉くらい)全島の約5割が針葉樹林(タイガ)地帯。
現在、100以上の民族から構成され、そのうち約80%がロシア人。州の人口は約58万人(02年12月)。島だけで構成される州である。千島列島、北方領土も管轄区域。(在ユジノサハリンスク日本国総領事館のデータ)
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by itsumohappy | 2006-04-30 23:16 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(4)
2006年 03月 19日

2月革命と臨時政府の成立

ロシア革命は世界史上の大・大・大事件であるから大筋を追うだけでも困難だ。人や党の名前が入り乱れてわけがわからない。しかし、ペテルブルクのエルミタージュ美術館などを見てきて、革命の歴史に対する関心が少しは大きくなったように思う。
では超簡単に、血の日曜日事件の続きを。

【第一次革命(血の日曜日事件)後】
1905年の革命後、皇帝の「十月詔書」に基づき国会(ドゥーマ)が翌年開かれ、憲法(国家基本法)も制定されたが、皇帝に最高権力が属するという規定であり、専制体制は実質維持されていた。農村改革を巡って政党は政府と対立し、また急進化した資本家や富農層と無産階級との対立が生じていた。

そのような状況下、14年、ドイツがロシアに宣戦布告、ロシア軍は同年のタンネンベルクの闘いで大敗し翌年ポーランド戦線から退却した。
第一次世界大戦により物資は欠乏、各地で労働者のストライキが相次いでいたが、国政面ではラスプーチンの介入による混乱で皇帝の権威は失墜していた。

【2月革命】
1917年3月10日(ロシア暦2月25日)、ペトログラード(14年、第一次世界大戦中にペテルブルクより改名)の労働者は、8日に始まった婦人労働者の「パンよこせ」デモに呼応してゼネストに入った。軍隊が発砲し死者も出たが、近衛連隊の一部が反乱し、労働者とともに政治犯を解放、その後国会に集結して12日、「ペトログラード労働者・兵士代表ソヴィエト」を創設した。

一方、同日、国会はロジャンコ議長を委員長とする「国会臨時委員会」を成立させ、国家権力を掌握、各省庁を接収し、皇帝の専制は倒された。(2月革命)

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大正6年3月17日の東京朝日新聞。ロンドンやベルリン電から得たロシア革命の日本での第1報である。「(ミハエル大公)摂政任命」「現皇帝多分退位」などの文句から、状況がまだ正確に伝わっていない様子がわかる。右端の「欧州大戦乱」は第一次世界大戦のこと。 連日のように戦況が報道されていた。


【2重権力状態】
国会臨時委員会は、ソヴィエトの承認のもとに3月15日、リヴォフ公を首相とする臨時政府を発足させた。中心になったのはブルジョワの立憲民主党(カデット)。ペトログラード・ソヴィエトからは副議長のケレンスキーが入閣した。

   エルミタージュ宮殿内 孔雀石の間
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     ニコライ1世の妻、アレクサンドラが造らせたもの。
    ウラル産の孔雀石(マラカイト)が 2.2トン使われた。ニコライ2世の退位後は、
    臨時政府の会合場となった。


ニコライ2世は退位したが、弟のミハイル公は帝位を拒否し、約300年続いたロマノフ朝は断絶した。臨時政府が戦争の続行を訴える一方で、ソヴィエトは「パンと平和」を求め双方が対立する状態となった。
これ以降、ソヴィエト政権設立に至るまでまだまだ革命のストーリーは続く。

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(上・下)3月18日の東京朝日新聞。革命が「諸工場労働者の同盟罷工(ストライキ)」に端を発し、その原因は「麺麭(パン)の欠乏」云々と概要がかなり詳しく出ている。莫斯科はモスクワのこと。
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目撃者の談や関係者のエピソードも当時の新聞に出ているので、いくつかを現代かなづかいにし読点を入れて引用する。
 
(在露大使付武官 小田切少将談 3月19日)
交通運転機関が敵国程には備わっていないから・・・物資の配当が平等にできない事情がある露国では総て物価が大騰貴して、日本で一足ニ三十銭の靴足袋がニ円五六十銭もする・・・食物店の前では毎日午前四時から夜明けの九時迄・・・パンの一片をあがなわんとして詰め掛けて居る。戦争の災害がここ迄及んで来るかと思うと同情の念に堪えない。しかも此食物配給減の結果、国民の体力を減殺してデブデブと肥満していた連中も次第々々痩せっこけてみすぼらしくなって居た。・・・北海の交通は、ドイツの潜航艇戦(Uボートのこと)に依りてイギリスとの間は交通全く途絶し・・・露都に足を留めて居る日本人もある。

(三井物産社員 上柳氏談 3月20日)
ペトログラードに滞在中の一箇月は、実に殺風景を極めたものです。・・・子ブスキー街(ネフスキー大通り)を歩いて第一に驚かれたのは、如何なる大商店でも並べた品物はしばしば店晒し物ばかりで、これを土産にと欲しくなる品物は遂に見当たりませんでした。・・・パン屋の前には・・・朝は暗い頃から粉雪のちらちら降る零下三十何度という極寒の街路に立ちつくして、三四町の行例(一町は約100m)を作って居た・・・夫が戦場に出た為妻は、夫の代わりに労働して居るのに四時間くらいは毎朝パンを買う為に費やさなければならぬというのです。・・・何か一騒動起こらずば止むまいとは一般の観測だったのです。ところが、果然二月二十七日の朝夜が明けるとペトログラードの街々は一町毎に貼り付けられた大同盟罷工(ゼネスト)の辻ビラに忽ち殺気立って仕舞いました。

(本野外相夫人談 3月18日)
皇后陛下には・・・開戦以来ツァールスコエ・セロ離宮に病院を設け、親しく負傷将士の御看護にいそしみ給い・・・第一王女に渡らせらるるオルガ・ニコラエヴナ内親王殿下には・・・救護事業に携わり、服装等も常の看護婦と異ならないので、或時他の看護婦と一緒に包帯巻を遊ばして居られるのを見て居た兵隊さんが、「貴嬢は非常に包帯巻が上手だが、貴嬢の様な上手な看護婦が戦地に行ってくれるとよいのですが」とほめますと内親王は、「私も戦地へ参りたいと思ってるのですが、父(皇帝のこと)が許しませんものですから」とお答えになった、其の兵隊さんはもとより内親王とは存じませんから「貴嬢のお父さんは馬鹿ですね」と申しましたので、大笑いをなされたと云うことを聞きました・・・この度国内に起こりました政変は・・・ただただ悲しいことと思って居ります。
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by itsumohappy | 2006-03-19 11:42 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(2)
2006年 02月 25日

「スターリン批判」50周年

d0007923_17501624.jpg1956年2月25日、ソ連共産党第20回大会の最終日深夜、大会がいったん閉会したところ代議員に再召集がかけられ、フルシチョフ第一書記によるスターリン弾劾演説が行われた。その中でフルシチョフは、53年に死去したスターリンが大戦前に行った同志大量粛清のような恐怖政治を批判し、個人崇拝を指弾した。神格化されていたスターリンに対する公の場での批判に出席者は動揺し、心臓発作を起こした代議員もいたらしい。

この演説は、部外秘で速記もとられなかったので「秘密報告」とも呼ばれるが、その内容はポーランド経由で西側に伝わり、数ヵ月後、米国務省が全文を公表した。
ロシアで演説の全てが明らかにされたのは89年、ゴルバチョフの時代になってからである。

スターリン批判は大変な事件だったようだ。今と違ってネットどころかTVも無いような時代だけに衝撃も大きかったのだろうがちょっと想像がつかない。

スターリン体制を支える一員であったフルシチョフが、裏切り行為ともいえる演説をあえて行った政治的意図は、国内問題にあったとされる。スターリン期から続く農業政策の失敗や粛清等による国民の不満の爆発をさけるため、何らかの方策が必要だったということで民主化が主眼だったわけではない。演説をきっかけに、ポーランドでは暴動が起き、ハンガリーでは人民が蜂起した。ソ連はハンガリーに軍事介入し、自由化運動を阻止した。(ハンガリー動乱)

61年の第22回党大会では、フルシチョフは再度スターリン批判を行い、レーニン廟からスターリンの遺体を撤去することを決定した。フルシチョフは64年10月に失脚したが、スターリン批判による混乱がその一因とも言われる。

ゴルバチョフは、フルシチョフ秘密報告に関して、第20回党大会なしにペレストロイカの理念は生まれなかったと語ったそうだ。
                         (2006年2月17日北海道新聞、19日毎日新聞ほか)

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d0007923_1756569.jpgノヴォデヴィッチ修道院にあるフルシチョフの墓

歴代指導者が眠るクレムリンには葬られなかった。なんだかモダンなデザインのお墓であるが、エルンスト・ネイズヴェストゥヌィという前衛芸術の彫刻家・画家の作品。
フルシチョフは62年、モスクワで行われた美術展に出品されたアバンギャルドな作品を「ロバの尻尾で描いた下らぬ絵」と酷評した。名指しで非難された芸術家その人がネイズヴェストゥヌィ。墓のデザインは共産党の指示だったのかはわからないが・・・。
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by itsumohappy | 2006-02-25 18:12 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 08日

ヤルタ会談 ― ロシアとの領土問題 2

2月8日は、今で言うところの「北方領土」の運命が決められた日。ヤルタ会談(1945年2月4日~11日)の5日目に行われたスターリンとルーズベルト大統領の2人だけの非公式な話し合いで、対日参戦と引き換えに南樺太の返還と千島列島の引渡しなどがソ連に約束された。チャーチル首相も署名したこの合意事項がヤルタ協定である。
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 会談場所のリヴァディア宮殿(ニコライ2世の夏の宮殿)

d0007923_22572667.jpgヤルタ会談は、第二次世界大戦後の世界体制や協調関係が米英ソの指導者で協議されたもので、ヤルタ協定は、46年、アメリカが発表するまで存在が知られていなかった。協定では、南樺太はソ連へ「返還」(shall be returned)、千島列島はソ連へ「引渡し」(shall be handed over)と言葉が使い分けられている。(当時その地域の日本領は、樺太千島交換条約とポーツマス条約により千島列島〔歯舞~シュムシュ〕と樺太の北緯50度以南の部分となっていた)

ヤルタ協定によりソ連は、日本のポツダム宣言受諾直前の45年8月8日、日本に宣戦布告し、翌日満州、南樺太に侵攻した。千島への侵攻が始まったのは、終戦後。北端のシュムシュから歯舞まで順次ソ連軍により占領されていった。当時千島に約1万7千人、樺太に約40万人いた日本人は引き揚げざるを得なかったが、その最中に数千人の人々がソ連軍の爆撃等の犠牲になった。
46年、南樺太と千島はソ連領に編入された。歯舞等4島はサンフランシスコ平和条約で放棄した千島には含まれないとする日本の主張もむなしく、今もロシアは4島を占拠中である。
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会談直後の4月に死去するルーズベルト(中)は判断力が低下していたとも言われる


d0007923_23222751.jpgロシアはヤルタ協定を北方領土占有の根拠のひとつにしているが、当事国の議会の承認もされず、他の連合国すらその存在を知らなかった秘密協定に第3国である日本は拘束されない。のち、56年、日本はソ連との平和条約交渉の際、米英から、ヤルタ協定はポツダム宣言の基礎をなすものではないと回答を得ている。

05年5月、ブッシュ大統領は、対独戦勝60周年記念式典に出席する途上で、(欧州の東西分断も招いた)ヤルタ協定は歴史上最悪の不正であったと発言した。当然ロシアの見解は異なるわけで、歴史認識の相違を埋めるのは容易ではない。そこに領土問題の難しさがあるのかもしれない。

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ヤルタはクリミア半島(ウクライナ)の有名なリゾートで、貴族の別荘などがあったところ。チェーホフ『犬を連れた奥さん』の舞台でもある。(結核を病んでいたチェーホフは晩年ここで療養した)
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by itsumohappy | 2006-02-08 23:26 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2006年 02月 07日

北方領土の日 ― ロシアとの領土問題 1

2月7日は「北方領土の日」。新聞1面にも政府広報が出ている。西暦1855年のこの日、日魯通好条約(日露和親条約)が筒井正憲・川路聖謨とプチャーチンにより下田で調印された。露暦では1月26日、旧暦では安政元年12月21日、ペリーによる開国から約9ヶ月後のことである。
この条約で日露の国境は択捉とウルップの間とされ、樺太の国境は設けず、両国民の雑居状態のままとされた。

川路とプチャーチン
d0007923_2235341.jpg政府は、81年、第二次世界大戦後からソ連(ロシア)に不法占拠されている北方領土(歯舞〔諸島〕、色丹、国後、択捉の4島)の返還を訴えていくため、「北方領土の日」を制定した。例年この日には、返還要求のための全国大会が九段会館(昔の軍人会館)で行われる。

日魯通好条約が調印された下田の長楽寺
d0007923_2236167.jpg北方領土問題に対する日本の主張は、1855年の日魯通好条約で国境が平和的に画定されたように北方領土は日本固有の領土であり、サンフランシスコ平和条約(51年)で日本が南樺太とともに放棄した千島列島には含まれず、ロシアによるこの地の占拠は不当というものである。
日魯通好条約は、日露の国交を樹立した記念すべき条約であるが、現在、この条約は失効しており領土主張の直接の根拠とはならない。

日ソ共同宣言(56年)による日ソ国交回復から現在まで、歴代の日ソ(露)の指導者同士で北方領土問題に関する交渉・解決促進のための政治文書が多く作成された。これらは指導者間の重大な約束ではあるが強制力はない。現在、日露双方を法的に拘束するのは日ソ共同宣言であり、領土交渉でのロシアの主張は、共同宣言に基づき平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を引き渡す、という内容から一歩も進むことがない。

プーチン大統領は、ロシアの北方領土領有は戦争の結果であり、国際法でも決まったことである、などと語っている。国際法、とはどうやらヤルタ協定のことらしいが、ロシアには北方領土、千島列島、南樺太を占有する法的な根拠があるとは言えない。
当時のソ連は、サンフランシスコ平和条約への調印をボイコットした(従って同条約による権利や利益は受けられない)が、その平和条約では、千島列島の範囲や日本が放棄した領土の最終的な帰属先が何故か規定されなかったことが今日の不法占拠へとつながったと考えられる。

そういうわけで、教科書など日本の公的な地図は、4島は日本本土と同一色、千島列島と北緯50度以南の樺太は国際法上は帰属未定地(でもユジノサハリンスク〔旧:豊原〕には日本総領事館がある!)なので白地色とし、国境線の表示も指定の箇所が決められている。で、下の図が政治的に正しい地図(のつもり)。千島付近の地名はアイヌ語に由来している。つまり、もともとはアイヌの住んでいた土地である。
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地図上で北方領土は日本領と主張しても現実は厳しく、同地には約1万4千人のロシア人が住んでいる。(歯舞は国境警備隊のみ) ソ連時代は、辺境地域として給料や年金が優遇されていたので移住してきた人々も多い。国後には50以上の民族がいるらしい。プーチン政権は、今後10年間で246億ルーブル(984億円)の予算を投入する「クリル経済社会発展計画」を打ち出し、4島などへの発電所、港湾、道路整備など行っていく予定である。(北海道新聞2005年10月14日) つまり日本に返す気など全然ない。
主権問題が決着していないので、日露共同でこの地の開発を推進するというのも(日本側には)難しい。

政府は、国民に、領土問題解決まで北方領土に入域(入国ではない)することを控えるよう指導している。そのため日本の旅行業者の北方領土ツアーなどはない。ただし、サハリンを経由すれば訪れることは不可能ではない。写真で見ると自然の美しい島々で、温泉もありちょっと行ってみたい気もするが…。
北方領土を訪問できるのは墓参りをする旧島民など。ほか、関係者や専門家等を対象に4島在住ロシア人との交流などもロシア政府との合意のもと政府の事業として行われている。
今年の北方領土の日でも領土返還がアピールされたが、小泉首相は去年に続き欠席した。今年は挨拶の代読すらなかったそうで、靖国と違ってあまり関心がなさそうだ。
全然進展しないこの領土問題、指導者が解決への決意を示さないとますますロシアにうやむやにされてしまうかもしれない。
平均年齢70歳を超える元島民をはじめ関係者の人々はさぞもどかしい思いであろう。

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(注)ロシアはソ連の承継国家であり、日ソ間の全ての条約や国際約束は、日露間に引き続き適用されることが確認されている。
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by itsumohappy | 2006-02-07 23:15 | 歴史・領土問題 | Trackback(1) | Comments(0)
2006年 01月 22日

血の日曜日事件

1905年1月22日(ロシア暦9日)は血の日曜日事件が起きた日である。
神父ガポンを先頭に、ペテルブルクの冬宮を目指して皇帝への請願行進をしていた労働者と軍隊が、冬宮前広場(宮殿広場)を含め10箇所以上で衝突し、多数の人が死んだ。

宮殿広場
d0007923_1657853.jpg公式には死者約100人らしいが、実際は数百とも千以上とも言われ本当のところはよくわからない。皇帝の軍隊の発砲により、当時のロシア人民に伝統的にあったというツァーリ信仰は揺らぎ、その後のロシア革命への端緒となった。

行進のきっかけとなったのは、ガポンが組織した労働組合「ペテルブルク市ロシア人労働者の集い」の組合員の解雇事件である。解雇された4人の組合員は、当時ロシア最大の工場、プチロフ重機械工場の労働者であった。解雇撤回、労働条件の改善を訴えてストライキに入り、市内約380の工場が同調した。

ガポン
d0007923_1714677.jpgガポンは、労働者の無権利状態は我慢の限界を超えたと訴え、8時間労働の実施、日露戦争の中止、政治的自由等を要求する皇帝への嘆願書を書き、22日、イコン、ツァーリの肖像を掲げて労働者とその家族の請願行進を率いた。行進には市内労働者の半数を超える約10万人が参加した。
当時、ロシアの工場労働者は平均11時間働き、労働者の健康や安全への対策はないがしろにされていた。戦争の影響による物価高で生活は困窮していたという。



プチロフ工場は現在キーロフ工場(下)として操業している
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皇帝ニコライ2世は、発砲事件の時、冬宮ではなくペテルブルク郊外のツァールスコエ・セローの離宮にいた。日記に「軍の発砲で大勢の死傷者がでた。なんとつらく悲しいことか」と記した。
血の日曜日事件以後、ストライキは全国に拡大し、反政府運動が高まることとなった。

          冬宮 現エルミタージュ美術館
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by itsumohappy | 2006-01-22 17:20 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2005年 12月 23日

元シベリア抑留者最後の訴え

戦後60年経って未だに解決していない元シベリア抑留者の補償問題。今夏、平均年齢を80歳を超えている元抑留者たちが、政府の補償を求め国会前で座り込みをした。参加者は、体力的に今回が最後になるだろうと語ったそうだ。

戦後、旧満州や樺太からシベリア、モンゴル等に移送され強制労働させられた人々は約57万人。その1割が死亡し、行方不明者は4万7千人。「我々は過去最大の拉致被害者」という訴えはもっともだ。先日、厚労省が、今年ロシアから提供された、シベリアから北朝鮮への移送者名簿の公開を検討するという報道があった。(12月16日 朝日新聞)この名簿からは1人しか身元が特定されていない。なんて悲しい話だろう。

東南アジアなど南方からの帰還者は、英米の労働証明により政府から労働賃金相当額が支払われた。対し、ソ連は労働証明を発行しなかったため、労賃を支払うことはできないとされた。しかし、ロシア時代になって近年、労働証明書が発行されるようになったらしい。それでも政府はシベリア帰りの人達に南方組と同様の補償を行わない。

この問題について、国に補償責任はないという最高裁判決が出ており、立法による救済しかない。また、ロシアに対しては、56年の日ソ共同宣言により日本は補償の請求権を放棄している。

今、政府の行っている対策は、「独立行政法人 平和祈念事業特別基金」による慰藉事業。この基金から過去、慰労金(補償金ではない)10万円と銀杯が被抑留者に贈られた。また、新宿の住友ビルの一室にある展示資料館で、強制抑留者の労苦を伝える活動を行っているというのだが、実際その展示室に行ってみると何だか中途半端で、税金が本当に元抑留者のために有効に使われているのか?という印象だった。

この独立行政法人を解散して、取り崩した基金を被抑留者への補償に充てるという法案が民主、共産、社民の議員立法で今年7月、衆議院に提出された。解散総選挙のあおりでいったん廃案になったが、再提出されいちおう審査中になっている。一方で、解散前に与党からも出されていた法案は取り崩した基金の一部から旅行券(!)を支給するというものであった。

生存する抑留体験者は10万を切ったらしい。なぜシベリア抑留者だけ差別されるのか、奴隷の汚名を着せられたまま死にたくない。我々には戦後70年はない。そう訴える人々の声に政府は冷たい。政府は、年月の経過による「自然解決」を待っているのかもしれない。
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by itsumohappy | 2005-12-23 23:04 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)