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カテゴリ:歴史・領土問題( 33 )


2007年 06月 03日

国後島・択捉島上陸記 -4. 日本で5番目に大きい島、択捉

択捉島は大きい。国後(沖縄より若干大きい)の倍以上。
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青字が訪ねたところ。単冠(ひとかっぷ)湾は、1941年11月、南雲中将率いる連合艦隊が、真珠湾に向けて出航した場所。

終戦時の人口は約3,600人。今はロシア人が約7,000人住んでいる。ウルップ、シムシルとともにサハリン州クリル地区に(いちおう)属す(住民がいるのは択捉だけ)。   
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どんよりした空の下、またはしけを使って上陸。はしけは、普段は人間を運ぶものではないらしく、港でやりくりつかない時は待機となる。 
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上陸後、紗那(クリリスク)のクリル地区行政府で行政府長を表敬訪問。紗那には約2,700人のロシア人が住む。
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紗那の民家。あとで、上は戦前の日本の建物、「紗那郵便局」とわかった。
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島を支える水産加工会社「ギドロストロイ」 (ピンクの屋根)

当局からこの島の産業の9割が漁業、択捉はサハリン州で出生率が一番、等々の説明を受ける。その後、行政府2階にある博物館を見学。

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考古学の資料等約6,000点を所蔵。アイヌのコーナーもあり。択捉は希少な鉱物資源が多いとのこと。

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d0007923_1742112.jpgクリル小中学校で昼食。私は訪問中、たいがいのものはおいしく食べられたが、この時出された炊いたソバの実のピラフ?(ロシアではよくある料理らしい)だけはちょっと頂けず、かなり残してしまった。スープはどこで食べてもおいしい。

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クリル小中学校の教室で対話集会が行われた。国後同様、ここでも最重要の行事。テーマは、「共住」と「島の将来」。「共住」は日本側が提案したテーマで、そのまま受け入れられた。

ロシア人住民から、まず、「共住」にどれだけ現実味があるのか、政府も我々も択捉が日本に返還されることは考えていない。中国、韓国の会社が島に進出してきていることだし、日本と経済面で協力・発展していくことが有効なのでは?という声があがった。
島に60年住むと言う年金受給者からは、自分たちの政府すら信用できないのにどうして他国民を信頼できよう?という何だかロシア人らしい?意見が出た。また、この学校の生徒の一人は、いきなり共住云々言われても心理的にまだ準備できていない、と発言。

そうなのだ、単に「共住」と言っても、ここがどちらの領土に属するかをクリアしないまま話していても雲をつかむような感じで戸惑う。お互いにだ。それでもロシア人は、少なくとも日本人よりは他民族同士暮らすことに慣れているし、日本人と一緒に住むこと自体は苦しゅうないって人はいるだろう。
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クリル小中学校の前

「経済交流は帰属の確認をはっきりさせてから」と日本側が主張しても、ロシア人住民は、領土問題はわかるけど、とりあえずここはロシアだからこうして住んでいるし、そもそも我々にいろいろ言われてもねぇ…って思ってそうだ(あくまで想像)。日本側も、「友好親善」という交流事業の大事な目的をあまりぶちこわしたくないから、不法占拠だ!島返せ!と糾弾調になるのはやはり避けたい。かと言って管轄権を棚上げし、問題なさそうな形作ってもらって、一緒に商売できるといいねーとも言えないし(少なくとも集会の場では)。
ビザなし交流の事業で「対話集会」は重要行事であるが、話し合いに手ごたえはなく、何だか難しいものだと感じた。

日本の支援による発電装置
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日本政府が、北方領土返還後の具体的プランをどう練り上げているかは知らない。(まぁ当然やっているんでしょう。) 政府は、「北方領土に対するロシアの管轄権を前提とした行為を行うこと等は、北方四島に対するロシアの領有権を認めることにつながり得るもの」と言う理由(外務省サイト参照)で、日本や第三国の経済活動、観光等は容認できないとしている。しかし、現実には中韓の製品が売られているし、カナダとか非ロシア国人が観光にやって来ている。
 
択捉の関係者によれば、人口は増えているが予算は厳しく、年金は予算削減の対象にされやすい、大陸に帰りたがっている年金生活者も多いとのこと。そして今後整備が待たれる問題は?と問われると、水道、道路、港湾、電力…というようにいくらでも出てくる。
島の人々が日本の投資を切望するのはよくわかる。日用雑貨にしてもサハリンより根室から運ぶほうが安くあがるだろうし。
 
丘に立つ聖アンドレイの像。
海の守り神らしい。 

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集会後、ホームステイ(ビジット)宅のお迎えを待つ。受入家庭の数の関係で、ビジット組は夕食後、ロサ号で宿泊となった。

私は、同行者とЗамощникさん宅で宿泊。Надеждаおばあちゃんが迎えに来てくれた。 ご主人Владимирさんの運転で、まず海岸沿い付近をドライブ。と言っても雲がたちこめ霧雨が降り、周りの景色はけぶってよくわからない。車は、ミニ湖と化した水溜りを右に左によけつつお宅に向かった。途中に日本軍の戦車?の残骸があった。ダーチャも案内したいが、雨なので行かれない、とおばあちゃん。

Замощник家のお孫さんЛизаとПаша
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夫妻はウクライナからの移民。ご主人はオデッサの何とかインスティテュートで学び、エンジニアとして1973年に択捉にやってきた。昔は、北方地域への移住を促すために、ソ連政府による高い賃金・年金などの優遇措置があったのだ(道のパンフレットより)。

ウクライナだけの大きな地図が壁に張られ、棚にはプーシキン全集が並ぶダイニングで夕食。ワイン、ビール、ウオッカとすすめられたが、飲めない私は自家製というはまなすジュースを頂いた。
Надеждаさんが、山盛りのお料理の皿をいくつもどどーんと目の前に置いて下さった。
Владимирさんは、ビーツを餌にした豚で作ったウクライナのサーラは最高なんだ!と語り、ウオッカをがんがんあおった(国後でも見た光景だ…。)。
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Надеждаさんは、日本人ビジターを受け入れるのは数年ぶりなので今回不安だったが、いい人が来て(と、言っているんだろうと勝手に解釈)よかったと喜んで、カンパイ!カンパイ!と歓待して下さった。大昔に、サハリンからやって来た日本人を長く泊めていたそうだ(…政府による渡航自粛が出る前は、北方領土に遊びに?来ていた日本人もそれなりにいたらしい)。

巡回してきた通訳さん+ロシア語辞典+知っているわずかなロシア語単語+互いの英単語+身振り手振りなどを総動員して「会話」し、互いに疲れるとカンパイ!を繰り返した宴でありました。近所に住むお孫さんのЛизаが、「なんかハイになっている人たちだなぁ」という感じのうふふ顔で私たちに付き合ってくれた。Лизаはおばあちゃんに似て人懐こく、何だかんだ話かけてくる。お互いわからない会話をし、紙ナプキンで鶴やユリを折ってやった。
室内はボイラーをごんごんたいてくれてぽかぽか。Надеждаさんに服を全部脱がされ、ムームー(ロシアンサイズだ)に着替えさせられた。

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サンルームみたいなところで野菜や花を育てていた。たまたまグラジオラスの芽が出たところであり、おみやげのグラジオラスや野菜種に喜んでくれた。

近所に住む親戚、友人たちが入れ替わり立ち代りやってきてテーブルを囲んだ。家族のアルバムをいろいろ拝見。比較的裕福な一家なのだろう、トルコなど海外旅行の写真も多かった。出身地ウクライナの風景もなかなか美しい。「戦艦ポチョムキン」を観たと言ったら、オデッサの階段他観光名所をいろいろ説明して下さった。
我々が童顔に見えたようで、Надеждаさんはchildren!を繰り返し、なでたりキスしたり抱きしめたりが続いた。

そんなこんなでくたびれてきて寝ることに。ダイニングの椅子が簡易ベッドに変身した。お風呂を使おうとしたらさっきは出た水が出ない(水道管の途中で水を抜き取ったりする人がいるとそうなるらしい。)。まぁいいや。地上で寝るのは揺れなくて最高だ。と半分ぼーっとした頭で横になったが、普段やりつけないことを経験して体が覚醒したのか、いつもならどこでもそして誰よりも早く眠れる私がなかなか寝付けなかった。

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翌朝の気温は0度。やはり雨模様。まず紗那の日本人墓地にお参りした。
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商店はこの道路両脇に点在。中は明るくきれい。
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この日は日曜だったので、ギドロストロイの工場のかわりに同社の体育館(上)を見学。ジムなどもあり、地元民は無料で使える。
その後、別飛(レイドボ)に移動。天候は回復せず、また悪路のためかなり時間がかかってしまった。四駆でないと酔ってしまいそうだった。

別飛の風景
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別飛で歓迎コンサートがあった。
ここの人口は約1,000人。ウクライナ、ベラルーシ、ウズベキスタン、タジキスタン、モルドヴィア(もうどの辺りなのかよくわからない)からやってきた人たちが多いと説明された。
別飛にもギドロストロイの工場があるそうだ。悪天候のため埠頭見学は中止になった。

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紗那に戻ってステイ宅で昼食。択捉出立まであまり時間の余裕がなく、てんてこまいのНадеждаさん。ボルシチを頂いた。ロシアのスープ料理はおいしい。きゅうりの漬物(左上)は日本のものと同じような浅漬けでおいしかった。ロシア人は酸味のあるものが好きなようだ。
出かけにおみやげとカッテージチーズを巻いたブリヌイをたくさん持たせてくれた。
天気も悪くあまり見学もできなかった択捉だったが、このホームステイは強烈な印象を残した。

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見送られてロサ号に戻る。これからはひたすら南下、次下りるときは根室だと思うと何だか気も緩む。
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行けども行けども見える択捉の姿。大きな島なのだと実感。
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阿登佐(あとさ)岳。美しい形だ。

帰りの航行は順調で、寝入ってしまったせいか、また国後水道を通過する時がわからなかった。残念。

翌朝、古釜布沖で、また係員がはしけに乗ってきて、出域手続きを行った。昼過ぎに根室に上陸。直前に植物検疫などを受けた。やはり我々は「外国」に行ってきたのだ。
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すっきり晴れた空と羅臼山

根室に上陸して、舗装道路っていいなぁとしみじみ思った。根室の町がひどく明るく見えた。

都内に戻ってからは20度くらいの差がある気温に参ってしまった。それと通勤電車。現実が飛びすぎて心身がついていかない。たった数日の北方領土訪問にもかかわらず。駅下りて「朝日名人会」の看板を目にしたら何だかほっとして、ああ、帰ってきたんだ・・・と実感できた。
船がやはりこたえたようで、数日は目を使うと揺れるようなぼんやりした感覚が続いた。

(5月12―13日)
(長くなってしまったので、続く・・・)
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by itsumohappy | 2007-06-03 22:39 | 歴史・領土問題 | Trackback(1) | Comments(4)
2007年 06月 01日

国後島・択捉島上陸記 -3. 国後の光景と択捉への決死行

前夜に団員が訪問したあちこちの家庭の様子&頂いたお土産について語り合った。付近へのドライブに連れて行かれたり、ひたすら飲みまくったりいろいろだったようだ。言葉が通じない者同士は、飲食以外には「何かを見て時間をつぶす」パターンがお互いに楽かもねー、と結論。

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朝、起きたら窓の外に牛がのんびり。誰が飼っているのかよくわからない牛が町のあちこちをうろついている。野良牛化しているのも多い。

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朝食は町のレストランで摂った。ブリヌイだけでもお腹いっぱいになる。おいしかったのでいくつも食べた。

古釜布の町から車で約1時間、羅臼山を回りこむように道路を南下し、メンデレーエフ空港に向かった。途中の道には、簡単な舗装らしきところがあったが、ごく一部のみ。

風景は、頼りなげな白樺の林、低い松の茂みが続き、道路を見なければ軽井沢みたいな日本の寒冷地の景色とよく似ている。それでも夏来ると案外暑いらしい。
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メンデレーエフ空港ビル(に相当する建物)

到着した我々を見て、ここで飼われている犬が大喜びで走り回った。空港周辺には何もなく、冷たい風が吹き抜け、ウグイスが鳴いていた。
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ユジノサハリンスク(サハリン)から40人乗位の飛行機が通年週4便飛ぶ。常に満席らしい。
サハリンまで1時間40分くらい。距離のわりに時間がかかるのは、飛行機のせいか?(アントノフ24というプロペラ機) 霧が多い夏場より寒い時期の方が欠航が少ない。この空港の自慢は、根室の中標津空港より滑走路が50メートル長いこと。その滑走路というのがこれ↑。

何という工法なのか、鉄板?がつないである平らじゃない地面。これでも路盤が交換されたあとである。悪路のため、06年10月から12月末まで閉鎖されていたのだ。クリル発展計画の一環として滑走路延長工事の予定もある。

滑走路脇移動路の地面はこれ↓  古くなると民家の塀などに再利用される。
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写真や話などに夢中になっている我々にかまってもらえず、入口でしょんぼりしていた犬にカメラを向けたら喜んで寄ってきた。犬も人懐こい。


何でメンデレーエフ空港と言うのか尋ねるのを忘れた。水兵リーベの学者メンデレーエフ或いはその息子のメンデレーエフ(報道写真家。ニコライ皇太子の世界旅行に随伴し、1891年来日。大津での写真も撮っている。)にちなんだものか。

d0007923_1735239.jpgここの道路脇にも“курильский”看板が。

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東沸にある日本人墓地へ向かった。墓地はこの池に沿って奥(写真の手前)に入ったところにある。

d0007923_17371535.jpg東沸の日本人墓地

ここもしんと静か。道からかなり奥に入った山の斜面にひっそりと墓石が集められている。
お墓前に植えてある水仙が小さいながらも花を付けていた。

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墓地の辺りの山にたくさん咲いていたエゾエンゴサク。
元島民の方が教えて下さった。蜜が甘いそうだ。根は漢方薬にもなる。花の色は青系のバリエーションでいろいろ。
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ギョウジャニンニク。
これも道の方に教わった。葉っぱをおひたしなどにする。昔はアイヌねぎと呼んだが、今はそういう言い方はあまりしないらしい。道民の皆さんは口々に、こんな立派なのは手に入らない!とやや熱くなっていた。ロシアでもきざんでピロシキの具にしたりするそうだ。

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山すその一番奥にある墓石に道民の方がギョウジャニンニクをそなえた。

東沸あたりまで来ると携帯電話の電波が届く。ただ電波を発する装置は島に基本的に持ち込めないことになっているので、おおっぴらには使えない。
雪をいだいた美しい知床の山なみを眺めながら古釜布に戻った。北海道から国後の羅臼山が見えるように、こちらからも北海道がよく見えるのだ。
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国後の風景はなだらか。まだ春先の気候で、緑が少なく殺風景に見えたせいもあるが。元島民の方々に尋ねると、川がなくなるなど地形が様変わりしていて昔の面影はないという。これまでの地震、津波で海岸付近もさらわれているらしく、昔住んでいたあたりも全然わからないと語っていた。

ウサギとか何か動物がいないか景色を見ていたが、何も目にとまらなかった。あとで専門家に聞くと、北方領土には鹿はいないとのこと。根室にはあんなにいたのに。熊は多く、山を登った跡があったそうだ。
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古釜布の音楽学校

町の子供たちが通う学校。お稽古ごとの学校とのことで、ヤマハのようなものか。小中学生位の男女が、入れ替わり立ち代わり歌や踊りを披露してくれた。これがきちんとした指導を受け、練習を重ねていると思われるものだった。
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d0007923_17413316.jpgバヤン(アコーディオンみたいの)、バラライカなどの合奏やローシカ(木さじ)を使った出し物も上手で、そのロシアらしさにまた何だか複雑な気分になった。
けーむりたなびくとまやーこそ~と「われは海の子」を披露してくれた(左)。この子達に限らず、ロシア人の発音する日本語はかなり自然に聞こえる。わーがなつかーしきすみかなれ~。なかなか意味深長な選曲であった。

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古釜布の商店街付近と店内
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商品はサハリンから運ばれるらしい。私は食料品しか見なかったのだが、衣料品などは中国製が多かったそうだ。島に来てとりあえず目にとまる日本のものと言ったら中古車くらいだ。食料品の値段は日本のに近い(安くない)。書店はないらしい。カウンター脇に雑誌が数冊のっている程度。
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簡素ながらも美しい教会

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友好の家で夕食後ほどなくして、択捉に向かうため、はしけに乗船。岸壁には、団員が昨晩お世話になった家の方々が見送りに来ていた。
女の子たちがカチューシャを歌ってくれた。我々を見物していた女の子2人組に飴をあげたらぱっと顔を輝かせてかわるがわる抱きついてきた。
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おりしも低気圧がやってきていて海は荒れ模様。はしけに乗ったはいいが、波に揺られてなかなか停泊中のロサ・ルゴサ号に平行してつけることができない。ロープがうまくかけられず、はしけが斜めになって先がどーん!とかなりな衝撃でロサ号にぶつかる。去年は、はしけに当てられてロサ号の窓が割れてしまったそうだ。

ロサ号へ渡る板がシーソーのように動いて、かなり危なかった。波の様子を見ながら、今だ、それ行け!とばかり少しずつ乗り移った。
結局、船は低気圧と一緒に北上。進むほどにアップダウンが激しくなった。翌日の択捉上陸に向け荷物の整理をしていたのだが、夕食を食べ過ぎたこともあって、だんだん気分が悪くなってきた。頭も働かず、荷物を部屋にめいっぱい広げたままで整理を中断。
そのうち坐ってもいられなくなり、間断なくぐわわぁぁんと来る波に呼吸を合わせるようにしながらベッドにじっと横たわるしかなかった。

北方領土の周辺海域は、海流の渦場であり、国後水道(エカテリーナ海峡)は暖流・寒流がぶつかり合う難所だそうだ。そこを通ると船が回るような感じですぐわかるよって事前に聞かされ、ちょっとわくわくしていたのだが、いつ通過したのか全然わからなかった。一晩中、最初から最後までがんがん揺れていたから。

あとで聞けば、海上風速25mに達したとのこと。これってもし陸上であれば、屋根瓦が飛び、木が折れ、煙突が倒れる位の暴風らしい。
そんなこんなで、予定より3時間半遅れ、約16時間かかって択捉島の内岡(なよか/キトーブイ)沖にたどりついた。ほとんどの人が朝食をとる元気もなく、よれよれ状態だった。

気温は4度で雨。気持ちも沈んでくる感じだった。

(5月11日―12日)
(続く…)
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by itsumohappy | 2007-06-01 00:30 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(2)
2007年 05月 27日

国後島・択捉島上陸記 -2.国後島上陸

国後島は、おおざっぱに言って沖縄県よりもひとまわり大きい島。現在、歯舞、色丹とともにサハリン州南クリル地区に(いちおう)属す。ロシア人住民は約6,600人、うち6,000人が行政府のある古釜布にいる。戦前は約7,300人の日本人が住んでいた。

d0007923_0233639.jpg青字の部分が今回訪れたところ。

好天に恵まれ、気温は十度前後だったろうが春の日差しで暖かく感じた。
上陸時の印象といえば… まず、見たことがない景色だなぁと。昔の小学校の校舎みたいな木造の建物(平屋か2階程度。外壁は青や緑に塗ってある)は風雪にさらされ、舗装されていない道路は、車が走ると土煙をもうもうとあげ、あまり歩いている人もなく、一見打ち捨てられた感じにみえた。地面のあちこちににょきにょき出ているふきのとうの光景は根室で見たのと同じ。
団員仲間に尋ねると、日本の田舎の港町に似ている、とか昭和30年代位まではこんなふうだった、とか言っていた。
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古釜布港付近の町並み。手前は菜園。

車で「ムネオハウス」こと「日本人とロシア人の友好の家」まで送ってもらい、しばし休憩。島民の車は四駆やワゴンなど。トヨタ、日産などの日本の中古車が大活躍。
友好の家は、日本の人道支援で建設された「緊急避難所兼宿泊施設」で、交流で訪問した日本人の宿泊施設にもなる。玄関の右側が宿泊棟。
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d0007923_11334062.jpg友好の家。玄関でパンと塩で出迎えてくれた。歓迎を表すロシアの習慣です。
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d0007923_113114100.jpg建物は、プレハブのような簡素なもの。頑丈な建物を作るような支援はできないためだろう。2階の足音や声が響いてくる。それでもこの島を訪れた日本人にとってこの施設は正直ありがたい。日本の電気製品が使えるし、シャワールームは清潔だし、トイレの心配もない。(島のトイレ事情は厳しい。私は遭遇しないようにしたが、世紀末的状況もあるとかないとか…) ただ、この程度の建物に4億円!かかったなんてちょっと信じられない。
8人部屋に泊まった。2段ベッドは上下使うとけっこう揺れる。それでも海上ではなく地上に寝るっていいものだ。
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建物脇の目立たない場所にあったパネル。「南クリル」の行政地図のような。“курильский”(クリリスキー)って強調している気がする。うーむ。

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d0007923_1627369.jpg友好の家付近では、ロシア政府による「クリル発展計画」の一環である地熱発電の工事をしていた。現在、島の電力の7割は、日本の人道支援で作ったディーゼル発電によるものらしい。

なお、友好の家の1室に、今年の1月に違法操業の容疑でロシア側に拘束され、国後に連行された羅臼の漁船「第38瑞祥丸」船長がどうやらいたようである。船長らしい人を見かけた人もいたそうだ(我々の滞在中、ずっとこの建物にいたかは不明)。当局らしき目つきのよくないロシア人が不自然にいたのは気がついたが・・・。報道によれば5月24日現在、まだ裁判は決着しておらず、気の毒な船長はさらに帰還が遅れるようである。(5月24日北海道新聞)
   (追記:↑と書いたが、5月28日に日本に戻った。おそらく自分の船はあきらめたのだろう。)
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ルィプカ幼稚園を訪問。2歳から7歳児約60名が通う。
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園児がはにかみつつも、お遊戯とアリさんの歌で歓迎してくれた。皆、カラフルな服装だ。年少の子達はお人形のよう。ここ数年子供の数が増え、設備が手狭なのが問題なのだそうだ。
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食事中に突如現れた非ロシア人集団にぱちくり。ごめんねー。建物の中の部屋は明るくきれい。
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この子たちは、戦後島にやって来たロシア人の3代目か、もしかしたら4代目もいるかもしれない。見ているうち何だか複雑な気持ちになってきた。上陸したときは死んだように見えた島だが、こうやってロシア人が代を重ね、生活を築きあげている。島で生まれた人たちはここが故郷。彼らに、この島は日本固有の領土で、日本に返還後、日本人と住みたくなければそのうち出ていくんだ、って仮にでも言えるのかと思うと・・・。

郷土博物館入口
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次に郷土博物館を見学。希少な動物が生息するクリルの島々の自然を標本などで紹介している。205種類の蝶、100の火山と、ボランティアの中学生?が懇切丁寧に解説してくれた。1.5メートルのカニが生息するそうだ。日本人が遺したものも展示されている。
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d0007923_16331942.jpgここの博物館に置いてあった怪しいパンフレット。

これが、「巣タリン」「とルマン氏」とか和訳がひどくてほとんど冗談みたいな代物なのだが、要は、クリルはロシアの不可分の領土ということをヤルタ協定、一般命令第1号、国連憲章第107条を根拠に説明したもののようだ。
これを見る日本人は、来訪する交流団位だろうから、まさに我々のためにさりげなく置いておいてくれた?

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古釜布のカフェ、「ロシンカ」(上)と「ストロイーチェリ」。店にしろレストランにしろ表から中の様子はわからない。

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日本人墓地に向かう途中の光景。こんな道路なので、ランドクルーザーが人気。
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墓地付近。水芭蕉が咲いていた。

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古釜布の日本人墓地。
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あちこちの墓碑を集めてロシア人墓地の隣に集めたという。あたりはしんと静かで時が止まったようだった。ロシア人ボランティアが整備しているそうで、ホタテの殻で縁を囲っていた。隣にはロシア人の墓地。墓石には写真がついている。墓地では日露共住だ。

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蝋燭岩。このあたりの景勝地&デートスポット。

あたりにはありとあらゆるごみが散らばっていた。たまに下着(!)も落ちているそうだ。ここに来るまでの道路沿いの空き地にも廃車や廃材がごろごろ置かれていた。ビニールがあちこちの木や草にひっかかってたくさんはためいているさまは、ちょっと異様だった。
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古釜布の町の中心付近。教会や商店が並ぶ。横断歩道も信号もない。
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カフェで昼食。黒パンは必ず出る。新鮮な野菜や果物はサハリンから来るのだろうか。
午後、この日のメインプログラムであるロシア人住民との「対話集会」がクリル行政府講堂で行われた。
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テーマは「島の将来」と「経済活動」。島側から、プーチン政権が決定した、9年間で総額約800億円投資する「クリル発展計画」における国後でのプロジェクトの説明があった。

北海道東方沖地震後の復興プログラムの継続事業、国後からハバロフスク・ウラジオストク両市への航空便開設のための飛行場工事、地熱発電の配管工事、古釜布の港湾設備充実等々。生活レベル向上のための事業が進行中というのだが、これに対して島民から、どこまで達成するのか疑問、行政の言うように発展しないだろう、というような声も出た。

ロシア側は司会者などを除いて10名ほど出席。なかなか集会に出てくれる人を集めるのも大変らしい。日本側は、「領土返還」を前提にやって来ているし、出席して楽しいものではないだろうから。
対話を、日本側の原則(四島帰属確認後に平和条約を締結)をロシア人島民が共有している前提で進めていないので、話をかみ合わせるのが難しい。と言うかかみ合わない。

個々の島民には様々な意見があるかもしれない。ただ、ここで日本人が喜ぶような過激?な意見を仮に言いたくても言えないだろう。狭い国後社会、村八分になって居づらくなるとも限らない。実際、何かのきっかけで周りの住民とうまくいかなくなった人は他の島(色丹とか)に移住することもあるそうだから。

政府の領土交渉が進まない間にも、ロシア側の開発計画がそれなりに進むことは間違いないと思う。元島民の方々は、返還が遠くになるばかりだと嘆いた。
あと、ロシア人住民から、年金が少なく公共料金を払うとほとんど残らない、生活が厳しいという声があった。好景気にわくロシアのオイルマネーはいったいどこに流れているのだろう。

d0007923_1645234.jpg夕食は、Береэюкさん宅でご馳走になった。ご主人は、島の新聞На рубеже(「国境にて」)紙の編集者・フォトグラファー、奥さんは学校の先生をされている。お2人とももの静かなインテリである。壁に本やDVD、写真がたくさん並べてあるダイニングで歓談。といっても言葉がほぼ100%通じない状況で「会話」するのは大変なのである。それでも英語が少し通じたので、助かった。『巨匠とマルガリータ』を読んだ、と言ったら喜んでくれた。
  
写真には出ていないが、サーラ(сало/豚の脂の塩漬けみたいの)というのをはじめて食べた。これを食べてウォッカを飲むのだ!とご主人はがんがん40度のお酒をあおるのでありました。。

d0007923_16453894.jpg飼い犬Гудя。食卓を見上げる潤んだ目がたまらなかった。

Береэюк家のお子さんはモスクワで勉学中。島をいったん出た住民でまた島に戻ってくるのは半々だ、と奥さん。
サハリンから空輸されたというケーキを頂きながら、色丹島のビデオ鑑賞。
そうこうしているうちにムネオハウスへ帰還の時間となり、酔っ払い運転をものともしないご主人に送っていただいた。
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Береэюкさんがお土産に下さった羅臼山の写真

(5月10日)
(続く・・・)


************
【参考】

北方領土の面積(北海道の資料)
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by itsumohappy | 2007-05-27 17:31 | 歴史・領土問題 | Trackback(2) | Comments(4)
2007年 05月 24日

国後島・択捉島上陸記 -1.いざ北方領土へ

人生初のホームステイ(非日本人家庭での滞在)を「択捉島」でするとは思わなかった。

このたび、北方領土返還運動の関係で、「北方四島交流事業(ビザなし交流)」の今年度の第1回、国後島・択捉島訪問(5月9日~14日)団に参加する機会に恵まれた。訪問といっても各島1泊2日で、つかのまの印象ですが、レポートします。

「北方領土に行く」と話したときの周りの反応は、おおむね「すごいねー」というようなものだったが、他には、
「フェリーで行くの?」 (480トンの、もと水産学校の実習船だった船です)
「日本人の家に泊まるんでしょ?」 (日本人住んでいません)
「ツンドラ地帯?」「白熊いる?」 (あの~北極圏じゃないんだから…)
はては
「銃撃されないようにねー」 (--;;)
…といったことを言われた。

北方領土って聞いて位置とか島名とかすぐ出ます?私は学校で教わった記憶もなく、経緯等ある程度知ったのはここ数年、というあまり正しくない国民だが、今はきちんと習うものなのだろうか? いちおう図示すると・・・
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 (北方領土問題対策協会の地図から作成) 

こうです↑。納沙布岬の先にある歯舞・色丹・国後・択捉の島々が北方領土、ウルップ以北が千島列島、白地の部分が国際法上帰属未定地、というのが日本政府の主張である。ウルップ以北の島で一般ロシア人住民がいるのはパラムシルだけ。

知床や野付で、海の向こうの「爺爺(ちゃちゃ)岳」(国後島)を間近に見たことがある方も多いと思う。択捉以南はわが国の領土、ということで、北方領土の面積は北海道への地方交付税の算定基礎になっている。

しかしながら、第二次世界大戦後、これら4島はロシアの実効支配下にあるわけで、海上の「中間ライン」を越えればロシア国境警備隊のお世話になってしまう。(歴史的経緯は当ブログ記事を参照下さい)

北方四島への訪問事業は、今年で16年目。領土問題解決に向けた環境づくりということで開始された。歯舞以外の島々の住民との相互訪問を行う(歯舞は国境警備隊しかいない)。友好を深め、次世代の理解(北方領土は日本の領土という認識)を得るのが目的である。

日本政府としては、四島を外国と認めるわけにいかないので、訪問に際し、パスポートやビザは使わない。代わりに「身分証明書」及び「挿入紙」というものを持っていく。どちらもA4位のペーパーで、住所、氏名、職業等最低限の項目に写真を添付したもの。訪問団の係の人がまとめて持っているので団員は目にしない。

訪問前気がかりだったのは気候。どれ位寒いのか見当がつかない。事前に、根室と同じくらいかやや寒い程度と聞いたが、ぴんとこないものだ。根室は5月中旬頃、日本で最後に桜が開花するような寒冷地。都内の真冬のつもりで、いくらでも重ね着できるようにした。

d0007923_2381588.jpgお世話になるロシア人家庭へのおみやげも何にしてよいか迷った。家族構成は出発の時まで不明だったので、とりあえず家族3人分を想定した。ロシア人といえばダーチャでしょ、ってことでサカタのタネで枝豆やかぼちゃ等の野菜と菊の種、セール中だったグラジオラスの球根を調達。ただ「北方領土」で育つのか心配で、お店の人に気温など言うと「育つ!」と力強いお言葉。子供用にはサンリオステーションで菓子袋。消耗品ばかりじゃ残るものがないので、観光客向け土産店で派手めな和柄の札入れを買った。
このように袋の中身はたいしたことないが、2軒分なのでけっこうかさばってしまった。

…と、前置きが大変長くなってしまったが――
5月9日、根室の北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)で団員69名の紹介と事前研修のあと、根室港から「ロサ・ルゴサ号」で16時ごろ出発した。
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出港の前。旗を振りあってしばしのお別れ。
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団員は20~70代。元島民、返還運動関係者、国・自治体職員、通訳、医師、記者などである。ロシア側訪問の際の受入をしている団員の場合、今回で2、3度目の北方領土訪問という方々も多かった。
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こうして見ると根室もちょっと寂しい港。やがて日が落ちた。
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行きの航路(帰りも同じ)。まず古釜布(ふるかまっぷ/ユジノクリリスク)に向かう。10.5ノット(時速20キロ位)で4時間半程度かかる。

通過点(北緯43度28分、東経145度46分)を越えると、そこから先はサマータイム時のサハリン時間となる。悔しいけれど2時間進む。船内の時計は日本時間なので、時々混乱した。
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船室と食堂。
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船は清潔だが、天井は低く狭い。部屋のドアを開けると通路がふさがってしまう。段差が多いので、高齢の方にはきついと思う。先方ロシア人が来る時も使われることがあるのでロシア語の注意書きもあり。d0007923_0165277.jpg

船のエンジン熱を利用したお風呂がある。海水を飲料水に変える装置があるので、飲み水には困らない。ロシアの電圧は日本と異なるので、船内でカメラ等の充電を行う。

古釜布までの航行はスムーズでほとんど揺れを感じなかった。出発当日夜11時頃には古釜布沖に着いたようである。(ぐっすり寝ていて朝になるまで気づかず。)
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古釜布沖。船から見た古釜布の町並み。くすんだような感じ。後ろの山は爺爺(ちゃちゃ)岳。

d0007923_0202197.jpgロシアの係官がはしけでやってくるまで待機。晴れていてほっとした。停泊中、船員さんがしかけた竿に大きなかれいがかかった。

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羅臼山(メンデレーエフ山)は火山なのでところどころガスが立ち上っている。

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はしけ(日本が寄贈した「希望丸」)に乗ってロシア人係官が到着。古釜布港は浚渫がされておらず、我々が乗ってきた480トンの船すら直接岸につけられない。
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船内での入域(入国ではない!)手続き(悔しいけど税関審査)終了後、船から板を渡し、このはしけに乗り移る。天気が穏やかだったので、比較的楽に移ることができた。この時は。
ロサ号がとてもきれいな船に見えた。
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はしけの端にいると危険です。
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座礁した船が沖にそのまま放置されている。
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古釜布の町が近づいてきた。
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待ち受けるロシア側のお迎えの方々。無事上陸。
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港で、ロシア人の家庭などから出してもらった車十数台に適当に分乗し、ムネオハウスこと「友好の家」に向かった。

(5月9~10日)
(続く・・・)

************
【参考】

●北方領土への訪問事業等に関するサイト
北海道 
根室支庁 
北方四島交流北海道推進委員会 
内閣府 
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by itsumohappy | 2007-05-24 01:31 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(3)
2007年 02月 26日

北方領土海域での安全操業

先月21日に、羅臼漁協所属のすけとうだら刺し網漁船「第38瑞祥丸」が、北方領土の国後島沖でロシア国境警備艇にだ捕された事件から1ヶ月が過ぎた。船長を除く5人の乗組員は、2月3日に解放されたが、船長は、2月26日現在、日本の人道支援で国後島に建設されたプレハブ「日本人とロシア人の友好の家」に依然拘束中である。
(この「友好の家」、いわゆる「ムネオハウス」は、昨夏、日本人1名がロシア側の銃撃で亡くなった「第31吉進丸」だ捕事件の際も同船長他2名が滞在した所だが、本来、北方領土訪問事業で島を訪れる日本人の宿泊所などに使われる日ロ交流のための施設。)

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すけとうだらと刺し網漁法
(網目に引っかかった魚をからめ取る)


瑞祥丸船長は、日ロ間の取り決めである「北方四島周辺水域における日本漁船の操業枠組み協定」で許可されていない国後島沖3海里以内で操業し、だ捕された。報道によれば、船長は区域外操業を認めており、2月19日、密漁の罪で起訴された。3月5日予定の初公判で罰金刑が言い渡される見通しとのことである。

北方領土は日本の領土と言っても、それを実効支配しているロシア側から見れば、この安全操業枠組み協定に基づかない同海域での操業は取り締まりの対象となる。
同協定は、日本漁船が、北方四島(歯舞、色丹、国後、択捉)周辺12海里内での操業を銃撃・だ捕されることなく行うためのもので、98年に発効した。

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この協定では、海域の管轄権は規定されず、北方領土問題解決までの暫定的な措置とされている。毎年10月頃、モスクワで日ロ政府が、協定の効力の1年間の継続を確認し、その後北海道水産会がロシア側の漁業当局と具体的な条件交渉を行う。2007年の操業条件は、昨年と同じで以下のとおり。操業の許可証が到着してから出漁する。

●漁獲量
 すけとうだら    955トン
 ほっけ       777トン
 たこ         216トン
 まだら等混獲分  232トン
 
●漁期
 すけとうだら刺し網漁業  1/1~3/15 
 ほっけ刺し網漁業      9/16~12/31
 たこ空釣り漁業       1/1~1/31、10/16~12/31
 
●隻数    48隻

●協力金等
 資源保護協力金 2,130万円 
 ロシア水産研究機関への機材供与相当分 2,110万円 


このように、「我が国の領海」内でも好きなように魚をとれないし、決まった魚をとるにもお金が要る。「協力金」の85%は「海外漁業協力財団」が補助し、残り15%を出漁漁船が負担する。たこ漁漁船の場合だと1隻あたり約43万円となる。協力金の負担が苦しい漁業者が廃業すると、さらに各船の負担金が重くなるという問題がある。

根室海峡でのすけとうだら漁獲量は、ピーク時の11.1万トン(1989年度)から、現在はその約1割以下に落ち込んでいるそうだ。水産資源枯渇の一因として、ロシアのトロール船による乱獲が指摘されている。
水揚げ高が落ちている中で、目の前の海で自由に操業できない漁業者はわりきれない思いをしていることだろう。「安全操業」は、領土問題を棚上げしており、信頼関係に基づいて行われる性格のものであるから、越境操業などルール違反が及ぼす影響は大きい。

一方、ロシアでは、98年の安全操業協定の発効後の同年に定められた新法により、国境地域の外国船操業に関する国際合意に議会の批准が義務づけられたため、同国内では、北方四島海域での安全操業協定は見直しが必要とする意見があるそうだ。

領土問題の解決に展望が見えない中、根室をはじめとする地元の経済は疲弊する一方らしい。
(2006年10月25日、28日北海道新聞、2007年2月20日北海道新聞、水産庁HPより)
参考記事 
************
【すけとうだら】
北海道周辺と三陸沿岸が主な漁場。北海道沿岸の盛期は1月~2月。産卵のために沿岸にやってくる。夏から秋は、餌をとるため分散している。冷凍すり身に加工され、かまぼこ、ちくわの原料となる。卵巣がたらこ、めんたいこ。白子を練ったものがたちかま。鍋に入れるとおいしい。フィレオフィッシュの魚もすけとうだら。
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by itsumohappy | 2007-02-26 23:50 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(2)
2007年 01月 08日

日本の守護聖人

ロシア正教会では、ユリウス暦により1月7日が降誕祭(クリスマス)。グレゴリオ暦より13日遅れる。しかし、世界中の正教会全てが7日にお祝いしているわけでもないらしい。ギリシャ正教会などはグレゴリオ暦を採用しているので、クリスマスは12月25日である。

日本正教会(日本ハリストス正教会)も25日に祝うそうだ。ただ、その他の行事(復活祭など)はユリウス暦を基に行われる。日本では、12月25日がクリスマスであることが広く定着しているため、宣教上の配慮らしい。

d0007923_22345819.jpg日本に正教を伝道したのは聖ニコライ(1836-1912)(左)。1970年列聖され、日本の守護聖人である。

司祭ニコライ(俗名イワン・カサートキン)は、アレクサンドル・ネフスキー大修道院にあるサンクトペテルブルク神学大学で学び、シベリアを馬車で横断して1861年、開港まもない函館の領事館付司祭として来日した。ゴローウニンの『日本幽囚記』を読んで日本人に愛情がわき、日本への伝道を志願したそうだ。高田屋嘉兵衛の大ファンで、遺族にも面会した。

来日の頃は維新前の激動期。前年には桜田門外の変、翌年には生麦事件などが起きている。キリスト教もご法度の時代である。司祭は、1868年、日本人3人に密かに洗礼を行った。この時が日本正教会の創立とされる。

宣教団の設立や聖堂建設の資金集めの際には、プチャーチン(1855年の日魯通好条約を締結した軍人。のち政治家となった。)も支援した。日本研究、日本語学習に努め、函館のある書店が店じまいした時は、法華経から戯作本まで全て買い取ったそうだ。

1872年、上京して神田駿河台にロシア語学校を設立し、東京を拠点とする布教活動を開始した。1891年、東京ハリストス復活大聖堂(ニコライ堂)が完成。日露戦争時にも日本に留まり、活動は半世紀に及んだ。
(2005年9月25日 朝日新聞、御茶ノ水の泉通信千代田区地域サイトより)

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d0007923_22405463.jpgニコライ堂(左)は7年がかりで建設された。工事費24万円。鹿鳴館は18万円だった。

谷中にある墓所(台東区HPより)。葬儀には明治天皇から生花が下賜された。 d0007923_2242826.jpg
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by itsumohappy | 2007-01-08 22:56 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(2)
2006年 12月 31日

元シベリア抑留者補償問題の幕引き

2006年12月15日、元シベリア抑留者に対する慰藉事業等を行う平和祈念事業特別基金を解散する内容の「独立行政法人平和祈念事業特別基金等に関する法律の廃止等に関する法律案」(自由民主党及び公明党提出)が成立した。同基金は、常勤役員が天下りポストになっていることなど、以前から非効率性が指摘されており、国の進める独立行政法人改革の一環として廃止されることとなった。

今後、慰藉事業に関しては、基金の資本金400億円の半分が元抑留者への慰労品に充てられる。その慰労品とは、銀杯や本人に限り利用できる10万円相当の旅行券(或いは食事券など)の予定である。
今回の与党法案提出者は、この措置で戦後処理問題は最終決着である旨表明した。

一方、民主、共産、社民党も基金の解散法案に加え、資本金をもとに、元抑留者に対し抑留期間に応じて30万円から200万円の特別給付金を支給する法案を提出していたが否決された。
シベリア抑留者の強制労働に対する補償については、ソ連への請求権は56年の日ソ共同宣言で放棄され、日本政府への補償要求も最高裁(97年3月13日)で退けられている。

元抑留者の平均年齢は84歳。「零下30度の世界を若い政治家は知らない、むなしい」「つらかった、ひもじかった、だけで終わるのでは死んでも死にきれない」「80過ぎた年寄りにどこへ(旅行に)行けというのか」等々生存者たちは語った。

国は、もともと強制抑留者問題、恩給欠格者問題に関しては、「これ以上措置すべきものはない」(戦後処理問題懇談会が1984年に出した結論)という立場を示している。また、「補償」として現金や国債を交付することは、死亡者の遺族にもそれらを提供しないと財産権上憲法違反になるという。生存者に限り使えるものとして、長年の検討の結果が「旅行券」らしいのだが。もう少し何とかならないものだろうか。

(12月8日 東京新聞、14日 読売新聞、15日 朝日新聞より)
前記事

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d0007923_2258597.jpg1956年7月、経済白書には「もはや戦後ではない」と表記されたが、最後の引き揚げ船でシベリア抑留者が帰国したのは、日ソ共同宣言による戦争状態の終結・国交回復直後の同年12月である。
写真は、1956年12月26日の朝日新聞。
【左】 26日、舞鶴港に入港した引き揚げ船「興安丸」で帰国した抑留者たち。



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【上】氷伝いに興安丸を追って助け上げられた犬「クマ」の記事。収容所で飼われ可愛がられていた。規則で船に乗せられず、港に置き去りにされたところ海に飛び込んだ。

d0007923_230276.jpg【左】 イワノヴォ収容所で帰国前に病死した(とされる)近衛文隆氏(自決した近衛文麿元首相の長男)の遺品を受け取る正子夫人。
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by itsumohappy | 2006-12-31 20:55 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(4)
2006年 12月 17日

岩下明裕 『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』

北方領土問題の解決案として、先日、麻生外務大臣は「択捉島の25%と残り3島(国後、色丹、歯舞)をくっつけると、ちょうど50・50(%)ぐらいの比率になる」として、面積を考慮した交渉を視野に入れるべきという認識を示したという。(12月14日北海道新聞)
麻生外相は9月にもこの問題に関し、3島返還という選択肢があることに触れている(9月28日毎日新聞)。北方領土問題は、政治的な決断以外に解決策はなく、領土解決の意欲をみせているプーチン大統領の任期中に何とかしたいという考えがあるらしい。

もはやこの問題で政治決着というのは、何らかの妥協が要求されるということであろうが、08年までの大統領の任期中までに大きく動くとは考えにくい。それとも麻生大臣は相当の覚悟を持って何か具体的な交渉を始めるのだろうか。
日本政府の方針は、「四島の帰属を解決して平和条約を締結する」である。四島の帰属とは当然日本への帰属という前提のもと、粘り強く訴えていくというもの。しかし、もう十分粘り強く訴えてきたのではないか?先も見えないままいつまで粘れるものか?と考える人たちが出てきても不思議ではない。実際、根室市長は、地元経済の疲弊を考えると、歯舞、色丹の2島先行返還を糸口とする交渉を望むという意見を述べている。(6月29日朝日新聞)

d0007923_238384.jpgそういう声もあれば、何十年、何百年かけても4島を取り戻せ、絶対妥協するな式の強硬な論もあるようだ。領土問題はナショナリズムを刺激しやすく、当事者は時には冷静さをなくす。ということで、できるだけ中立的な視点に立って、この北方領土問題の解決への提言を試みたのが本書である。

著者はスラ研(北海道大学スラブ研究センター)の教授で、専門は、ロシア外交、東北アジア地域研究。政治色の濃い(著者曰くまともな学者を目指すならそういう問題は扱わないそうだ)北方領土問題は、これまで意識的に避けてきたそうだ。
この本では、04年10月、沿海州の中ロ国境が、「フィフティ・フィフティ」で係争地を分ける形で解決された画期的事件のあらましと手法を解説し、北方領土問題解決に応用できる可能性を探っている。

四島返還を掲げ続けるなら、その覚悟を一度国民に問うべき時期が来ており、もしその覚悟がなければアプローチを変えてもいいのではないか、ロシアは今まで4島返還を一度でも本気で考えたことがあるか、相手にその気がない交渉を続けても可能性のない闘いとなるだけではないかという教授の意見には説得力がある。さらに、北方領土解決のために、何らかの妥協した際の利益と妥協を一切しない場合の利益とどちらが大きいか検討してもよいのでは、とも提言している。

中ロ国境は、過去、軍事衝突も起きた緊張感の強い地帯であり、中ロに国境問題を解決する意欲と必要性があった(解決する利益のほうが大きかった)。では北方領土の場合はどうなのか、政府が今までどんな実際的な研究をしてきたのかよくわからない。
現実的な交渉とは何かを考えさせる本。新書なので読みやすいと思う。今月、朝日新聞社の大仏賞を受賞した。

麻生大臣には歴史に残る交渉の大きな一歩を踏み出してほしいですね。

(参考:北海道大学スラブ研究センター『国境・誰がこの線を引いたのか-日本とユーラシア』)
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by itsumohappy | 2006-12-17 23:19 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(6)
2006年 10月 09日

第31吉進丸事件の謎

8月16日に起きたロシアによる根室の日本漁船銃撃・拿捕事件。死者1人を出したこの事件で、船長は、密漁と国境侵犯の罪で裁かれ罰金刑を受けた。その後帰還した船長は、無実を主張し、事件の真相はさらに藪の中となった。

何でも早く帰国するために罪を認めたそうだが、ロシア側は船長発言に反発しているそうだ。国後島民は「裁判官に謝罪を繰り返し、涙ながらに解放を訴えた船長の態度は何だったのか」「日本への信用が損なわれないか心配」などと語った。(10月6日北海道新聞)

ロシアの国境警備局によると、事件の起きた8月16日未明、中間ラインを越えていた吉進丸は、無灯火で標識もなく、警備隊が高速ゴムボートで近づくと体当たりしようとしたのでボートから警告ロケットを6回発射した。英語とロシア語による無線で停船を呼びかけても、無視して逃走を続けた。ボートから吉進丸に乗り移った警備隊員に、乗組員が刃物で向かってきたので、ボートにいた隊員が自動小銃(カラシニコフ)で2度警告射撃をしたが、波が高く、吉進丸も複雑な操船をしたため、漁具や水産物を投げ捨てていた乗組員の1人に命中した。

吉進丸船長によると、上記の話は全て間違い。中間ライン手前の漁業規則ライン(北海道海面漁業調整規則に基づく調整規則ライン)上におり、ロシア側の警告はなく、乗組員はコンブが絡まった漁具の縄を切っていた。計器の不調に気をとられていたらいきなり銃撃された。狙い撃ちだった。

どちらかがうそをついているのか?それともお互いの勘違い・思い込みと船体の不調?などの要因がたまたま重なり合って不幸な結果を招いたのか。暗闇では、パニックになってナイフを振り回している船員は、襲ってくるように見えるかもしれない。

越境の有無さえはっきりわからない奇妙な事件。拿捕地点は海上保安庁のレーダーの死角となっていて、日本側は何の証拠もない。船体は没収され競売にかけられるが、日本からの競売参加は拒否された。

越境の証明は船に積んであるGPSで可能だろうが、航跡が裁判で明らかにされたというニュースはなかったように思う。政府がロシアに事件の抗議をするにしても、あそこの海域は日本の領海というのが建前なのだから「越境はしていない」とは主張できないのがつらいところ。「拿捕は容認できない」くらいしか言えない。

極めて不運な事件だったのかもしれない。ただ少し気になるのは、ロシア側は以前から吉進丸を越境操業の常習犯とみており、船長の前歴(レポ船検挙歴(こちら参照))も知っていたという報道があったこと。
亡くなった船員はかなり撃たれていたという話がある。(何発撃たれていたかは9日現在明らかにされていない) 領土問題の犠牲になったこの方が本当にお気の毒だ。

(8月17日朝日、日経新聞、10月3日時事通信、毎日新聞、10月4日朝日新聞)
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by itsumohappy | 2006-10-09 21:54 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2006年 08月 28日

日ソ国交回復50周年

今年は日ソ国交回復50周年ということで、1年かけてロシア文化フェスティバルが行われている。(ちなみに7~9月のメインはモスクワサーカス(ボリショイサーカス)。馬グループと虎グループで公演中)
国交を回復した日ソ共同宣言(1956年)について以下、超簡単に。

日本は、サンフランシスコ平和条約(1951年)で独立を回復したが、当時のソ連は千島などの領土問題の不満からこの条約への調印を拒否したので、ソ連との国交回復はかなわなかった。

ソ連との国交回復に意欲を燃やしたのは鳩山一郎首相。1954年、日本民主党の勝利により、同党総裁として組閣し、対米一辺倒ではない「自主外交」路線を打ち出した。
当時の日本外交面での大きな目標が、シベリア抑留者の日本帰還と国際連合への加盟。戦後始まった冷たい戦争の影響もあってソ連の拒否権行使で日本は国連に加盟できないでいた。
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  東京・音羽の鳩山邸
  1955年1月早朝、元ソ連通商代表部主席代理ドムニツキーが日ソ関係正常化
  を申し入れる書簡を直接鳩山邸に持参し、交渉は非公式な形で開始された。



1953年のスターリンの死後、ソ連で「平和共存」の気運が高まったこともあり、日本との国交回復交渉が55年スタートした。交渉の争点は領土問題となった。
6月に始まったロンドン交渉で、日本は歯舞・色丹の返還を訴えた。意外にもソ連は2島の返還を申し出たので、日本はさらに2島(国後、択捉)含めた4島返還を求めた。ソ連は態度を硬化させ交渉は中断した。

その後ソ連は北洋海域にブルガーニン・ラインを設定して日本のサケ・マス漁船を締め出した。水産業界は政権維持に無視できない存在だったこともあり、56年5月、交渉再開を条件に日ソ漁業条約が調印された。
56年7月、今度はモスクワで交渉が再開。ソ連の、2島は返還するが、残りの帰属未定地はソ連への主権を明示するという条件を、日本側全権(重光葵外相)が受け入れかけた時、米国務長官ダレスが、日本が千島へのソ連の主権を認めれば、アメリカは沖縄を占領し続けると警告した。

 1956年10月20日の朝日新聞
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鳩山首相は、平和条約を結ばず、領土問題を棚上げする形での国交回復を決意。訪ソして56年10月、ブルガーニン首相との間で日ソ共同宣言が調印された。
折り合いがつかなかった領土問題を継続交渉することについては、その旨が記された公文書簡(松本・グロムイコ書簡)の公表で妥協し、条約には明示されなかった。同年末に批准書が交換された直後、日本は国連加盟がかない、抑留者も帰還できた。

戦後の日ソ(日露)の領土交渉の出発点となった日ソ共同宣言。ここに規定されたように平和条約が結ばれていたら歯舞、色丹は日本に返っていた。しかし、2島の返還で終結してしまうので、いまだに平和条約は結ばれない。国境が定まっていないため先般のような日本漁船銃撃事件が起きる。50年間実質進歩がなかった(1島も帰ってこない)領土交渉だが、今後、政府はどんな手を打っていくのだろう?

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【日ソ共同宣言第9条】
日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

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【参考】
●松本俊一 『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』朝日新聞社
  国交回復交渉を務めた全権の回顧録。交渉の様相が詳しい。

●原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点 アジア太平洋地域の冷戦と
 「戦後未解決の諸問題」』
  北方領土問題は冷戦によって誕生したことが詳しく解説されている。
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by itsumohappy | 2006-08-28 00:09 | 歴史・領土問題 | Trackback(1) | Comments(0)