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エリセーエフの生涯

『エリセーエフの生涯 -日本学の始祖』(倉田保雄著)及び『赤露の人質日記』(エリセーエフ著)の感想です。
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ロシアの日本学・東洋学者セルゲイ・エリセーエフ(1889-1975)は、明治時代に来日、東京帝国大学で学んだ後帰国し、大学で日本語を教えた。ロシア革命後、亡命してフランスに移住。ハーバード大学に招かれ渡米し、同大で教鞭をとった。当時の教え子にのち駐日大使となるライシャワー氏がいた。

『エリセーエフの生涯』(1977年)はエリセーエフの評伝。
エリセーエフは当時のロシアの大ブルジョワ、「エリセーエフ商会」の御曹司だった。家庭や学校でフランス語、英語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語を学習。パリの別荘に滞在しているときにパリ万博(1900年)で東洋文化に魅了されたのが、日本学に進むきっかけである。ベルリン大学で学んでいる時、日本人留学生たちの助力を得て、日本に留学。1908年、シベリア鉄道で40日かけて東京にやってきた。

モスクワ・トベルスカヤ通りにあるエリセーエフの店(左)。この食料品店の
発展は、エリセーエフの祖父がペテルブルクで始めたワイン販売が大当たり
したことに始まる。右はサンクトペテルブルク・ネフスキー通りの店。

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 (写真:Елисеевский магазинほか) 

東京帝大の入学許可を得、留学生活を送るなかでの数々のエピソードが面白い。お金に不自由しないので、女中付きのしもた屋に住み、日本語・日本文学研究の傍ら漢文や習字、特に草書の稽古に励んだ。寄席や歌舞伎にも親しみ、日舞、清元も習っていた。六代目菊五郎など当時の歌舞伎役者との交流もあった。新橋、柳橋、時には先斗町まで遠征して盛大に遊んだ。日常、和服姿で江戸弁を話し、女装も得意だったユーモアあるエリセーエフは、上流階級の令嬢たちに大人気だったそうだ。

夏目漱石に心酔し、遊び仲間の小宮豊隆(漱石の弟子)の縁で「木曜会」にも度々出席。漱石に俳句を書き付けてもらった『三四郎』を宝物にしていた。卒論は芭蕉研究で、優秀な成績で帝大大学院を卒業した。

左:小宮豊隆と歌舞伎の真似事 右:着物もかつらも特注 
(『エリセーエフの生涯』より)

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ロシアに帰国後、ペトログラード大(サンクトペテルブルク大)で日本文学・日本語を講義していたが、1917年のロシア革命で生活が一変した。
革命勃発後、不動産を没収され、竹の子生活に陥ったエリセーエフが、妻子とともに無事亡命を果たすまでの経緯を記したのが『赤露の人質日記』(1976年。当初版は1921年)。

同書には、「ウリツキー執政官暗殺後、各区ソヴィエトに千人の銃殺が許可され、一晩に7千人殺害された」「船に5,6千人の士官を乗せて沖で沈没させた」等々、恐怖政治の始まりのエピソードが記されている。労農政府は、「1人の共産主義者のために1万人の反革命者と資本階級を銃殺する」と表明した、とある。物不足で、学者も次々と餓死し、エリセーエフは、「露文明の破壊」を目の当たりにした。エリセーエフの親類にも銃殺されたり餓死した者がいた。

エリセーエフは有産階級だったため拘引されたが、勤め先の大学のはからいで銃殺されずに出所できた。拘留中は、家から持ち出した『三四郎』『それから』『門』等を読みふけった。大学に復帰したが、外国での研究願いが却下されて亡命を決心し、美術品を売り払い、宝石を詰めた牛乳瓶などを隠し持って1920年、フィンランドへの密輸船で出国した。逃亡計画が一度では成功せず、無事出帆するまでの展開がスリリングだ。

『赤露の人質日記』は、古風ながらもテンポのよい日本語で書かれている。拘置所でエリセーエフと同室になった労働者が、労農政府に対して憤るくだりは落語調になっていた。

フランスに移住したエリセーエフは、ギメ博物館や日本大使館で働き、ソルボンヌ大の高等研究院教授に就いた。1932年に渡米したのはハーバードの高給が大きな理由だったようだが、アメリカにはなじめず「野猿坊の国」と言っていた。ライシャワー教授が大使となった際は、学問の聖域を汚したと嘆いたそうだ。
1969年、日本政府より叙勲(勲二等瑞宝章)される。75年、パリで死去した。

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粋なロシア人学者の興味深い話なのだが、両書とも絶版になっているのか中央公論新社の目録では見当たらず。大きい図書館ならあるかもしれません。
by itsumohappy | 2008-03-12 22:58 | 文学・本
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