2006年8月16日に根室の漁船がロシア国境警備隊に銃撃され、乗組員1名が死亡した事件を受けて、当時の根室市長は、ビザなし交流や人道支援の一時中止を政府に申し入れた(2006年8月17日毎日新聞)。 市長は、領土返還のためにビザなし訪問事業を続けても、領土交渉に進展はない上、こんな事件まで起きたことにいらだったのかもしれない。
結局、政府の方針でビザなし事業等は予定通り行われることになり、銃撃事件直後の18日、択捉へ向けビザなし訪問の船が出立した。 1992年にゴルバチョフ大統領の提案で始まったビザなし交流も今年16年目ということで、相互理解、友好、親善といった目的はそこそこ達成されているのでは?と思う。 交流事業なので、色丹・国後・択捉在住ロシア人もやってくる。ただし来日するのは富裕層で、繰り返し訪問できる人々と参加できない一般層とのあつれきがあるという。(06年8月19日北海道新聞) また、この事業で来日したロシア人が、家電、自転車、芝刈り機、リビング用品など買い物する姿にビザなしが「買い物ツアー」「観光」と化しているという批判もあるそうだ。 ロシア政府に四島を返す気はない。 プーチン大統領は、かつて日ソ共同宣言(1956年)に基づく解決を考慮したと伝えられたが、今は、「四島の帰属性がロシア側にある点に議論の余地はない」(07年6月)と発言している。今年4月にはイワノフ第一副首相が択捉を、6月にはラブロフ外相が国後、色丹、歯舞(水晶島)を訪問し、これらの島々が「ロシアの領土」であることをアピールした。 これまでの政府交渉のほか、自治体、民間団体、個人がいろいろな形で、もうやりつくした位に返還運動をしていても、事態が変わらないというのは何だか空しい。領土問題は何十年かかっても原則を粘り強く訴え続けるべきと言われればそうなのだろうが。 今年度のビザなし交流事業に関して、地元紙に以下のような記事があった。 ― ビザなし交流では、受け入れ側が滞在費を負担する「相互負担」が原則だが、実際には島の財政難に配慮し、日本側が車の移動経費、食事代など一回60-100万円分を負担。四島側は4月の日ロ代表者間協議で、物価高でロシア側の実質的な負担が増えたため、日本側の負担増を求めた。(中略)交流事業費などを交付する内閣府も、日本側の負担増に伴う予算要求を検討する方針だ。 (2007年5月19日北海道新聞) なんだか、事業を継続させたい日本の足許見られているような感じである。島返す気もないのに・・・。 あと半世紀後、事態はどうなっているだろう。今と同じ状態だろうか。それともある日突然解決したりするのか。 島で移動中、同じ車になった元島民の方に「返還されたら島に帰りたいですか?」と尋ねかけてやめた。今の島の状態、そして「返還」というゴールが全然見えない状況では、非現実的で空しい質問のような気がしたからだ。元島民1世は平均年齢74歳位。こう言ってはなんだが、もうそんなに残された時間はない。 好景気を背景に四島での生活レベルは向上したといっても、快適すぎる日本の生活になれてしまうと、たとえすぐ島が返還されたところで、住むには相当インフラ整備しないと無理だ。 訪問を終えてやや落ち着いてからは、ロシア人住民にもっとあれこれ聞けばよかった、と思った。島にいるときは、とりあえずのコミュニケーションに必死で、心情を問う余裕がこちらになかった。 ロシア人住民は、集会だステイだと1年に何度となく来る日本人たちの相手をして、似たような話を聞かされ、うんざりすることもあるだろう。何度も四島訪問する日本人はあまりいないが、迎える側は変わらない。それでも我々団員に暖かく接してくれた。 先日、ロシア人家庭へお礼の手紙や写真などを送る前に、料金など確認しようと思い郵便局で尋ねた。 「本などを択捉島に送りたいんですが」「は?」「北方領土です」「…」 帝都の郵便局員でも反応が鈍い。私としてははじめから「ロシア」というのは何だか悔しかったのだが、会話が成りたたず残念。現実的な妥協をし、おばあちゃんの筆記体をコピーした封筒宛名の中にあるРоссия Сахалинская обл.(ロシア・サハリン州)じゃあまりに不親切なので英語で「Russia」、ロシア本土に空輸されないよう「サハリン州」と漢字で書き加え、ちょっと考えて「択捉島」と続けた。漢字で島名を書くと返送されるという噂がある(うそだと思うけど)。カチカさまのおかげで何とか送ることができたんだし、あとは無事、届くといいなぁ。 ・・・以上、とりとめもなくいろいろ書きましたが、一言で言えば、何かにつけて複雑な気分になった、というのが北方領土訪問の感想です。ここまでお目通し頂きありがとうございました。 ************ 【参考】 北海道のサイトによると、終戦時、北方領土には、17,291人が住んでいたが、強制退去させられた後はその約8割が北海道に居住した。元島民の生存者は、8,251 人(平成17年3月末現在)で、半数以上亡くなっている。 最も島からの引揚者が多かった根室は、北方領土返還運動の原点の地。1945年12月、当時の根室町長が、マッカーサー元帥に宛てた領土返還の陳情書が、四島返還に関する陳情の第1号である。 根室市内では、「四島(しま)の家」という名の民宿も見かけた。 06年2月、根室をはじめとする北方領土に隣接する町などが、領土問題が未解決であるため地域が疲弊しているとして、「未来に希望の持てる取り組み」の提言を国などに対して行った。 その中には、「自由貿易ゾーン(経済特区)の形成」「四島在住ロシア人労働力の活用検討」他たくさんの要望項目がある。
by itsumohappy
| 2007-06-06 00:28
| 歴史・領土問題
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