ロシアが気になる

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2006年 08月 08日

1945年夏

8月は、戦争により世の中が壊滅した歴史を想起し犠牲者を悼む季節。第二次世界大戦集結から61年。戦争の話は私は本などでしか知らないが、当時の日ソ関係における出来事から少々。

太平洋戦争末期まで日ソは、条約により中立を保っていた。しかし、土壇場に来てソ連は宣戦布告。この行為とその後の抑留者の問題が、日本人のソ連に対する負のイメージを決定づけたと思う。

●日ソ中立条約の破棄とソ連の参戦
日本は、北方の安全を確保するためソ連との中立条約を構想し、1941年4月、日ソ中立条約が締結された。
同条約は、日ソ友好関係の維持と両国の領土の保全・不可侵を尊重することを約束し、一方が第三国から攻撃された場合は、他方は紛争の期間中中立を守る義務があるとされた。効力は5年間で、廃棄するためには期間満了1年前の通告が必要とされ、通告のない場合は、次の5年間の自動延長が定められた。

1941年12月、日本は真珠湾、マレー湾を攻撃し米英に宣戦布告して太平洋戦争が始まった。しかし翌年、ミッドウェーで大敗してからは日本の敗色は次第に濃くなっていった。
日本との戦争終結のためにソ連の参戦を求めたのはアメリカ。交換条件は日本の領土だった。極東の戦争問題はヤルタの非公式協議で内密に処理されていた。

ソ連は、独ソ戦終了以前より極東に兵力を移動させていた。満州、朝鮮での攻撃を前提に、北海道への侵攻も念頭に置き、対日戦の準備に着手した。1945年4月、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告し、同条約は翌年4月に失効することとなった。
1945年7月、日本政府は、ポツダム宣言を「黙殺」。8月6日、アメリカは広島に原爆を投下した。8月8日、ソ連は、有効期間内であった日ソ中立条約を破って日本に宣戦を布告した。

国境での戦い
8月9日未明、ソ連は満州、南樺太に侵攻した。同日、長崎に原爆が投下された。15日、終戦の詔書が発せられ、太平洋戦争が終わった。
ソ連太平洋艦隊による千島への侵攻は15日に命令されており、16日、ソ連はカムチャツカ方面の行動を開始し、18日、千島の北端、シュムシュ島に上陸して日本軍との戦闘が始まり日本側は約千人が戦死した。戦争は終わったはずなのに戦っていたのだ。
停戦協定成立後、ソ連軍は千島各島に駐屯する日本軍の武装解除を行いながら南下し、9月5日、歯舞に至るまでの占領を完了した。

ソ連は、樺太には国境と西海岸北部から侵攻し、8月20日、真岡に上陸、日本軍との間で砲撃戦となり、22日には豊原が空爆された。同日、停戦の協定が成立したが、ソ連の潜水艦による引き揚げ船攻撃の死者を含め、戦闘終結まで約4千人の日本人が犠牲になったといわれる。

1946年2月、南樺太と千島はソ連最高会議幹部会令によりソ連領に編入され、翌年、それに伴いソ連憲法が改正された。

スターリンの北海道分割要求
日本の無条件降伏に対し、各地域における日本軍の降伏先等の指示を定める「一般命令第1号 」案が1945年8月、トルーマン大統領からスターリンに送られた。この案では、日本軍がソ連に対して降伏すべき地域を「満州、北緯38度以北の朝鮮、樺太」としていた。
両者の交渉は秘密の電報で行われた。

スターリンは、ソ連に明け渡される領域にヤルタ会談に基づき千島列島全土を含めること、また北海道の留萌から釧路を結ぶ線を境とする北半分も同区域に含めることを要望した(8月16日付)。トルーマンは、ソ連の北海道北部占領は拒否したが、クリルの全てがソ連に明け渡される領域に含むよう命令案を修正することに同意した(8月18日付)。

スターリンがトルーマンの回答を受ける以前に、ソ連太平洋艦隊による千島への侵攻は既に命令されており、一般命令第1号が降伏文書とともにミズーリ艦上で調印された9月2日には、色丹までのソ連の占領が完了していた。

*************
 
ロシアは、日本の領土である「北方領土」の占有について、第二次大戦の結果である(だからあきらめなさい)と言い続けている。
ソ連はサンフランシスコでの対日平和条約に調印しなかったので、いまだに日露の間には先の戦争を終結した平和条約がないままである。

【参考】
日露(ソ連)基本文書・資料集(ラヂオプレス)
日本外交史辞典(山川出版社)
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by itsumohappy | 2006-08-08 00:43 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
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