2006年 01月 22日

血の日曜日事件

1905年1月22日(ロシア暦9日)は血の日曜日事件が起きた日である。
神父ガポンを先頭に、ペテルブルクの冬宮を目指して皇帝への請願行進をしていた労働者と軍隊が、冬宮前広場(宮殿広場)を含め10箇所以上で衝突し、多数の人が死んだ。

宮殿広場
d0007923_1657853.jpg公式には死者約100人らしいが、実際は数百とも千以上とも言われ本当のところはよくわからない。皇帝の軍隊の発砲により、当時のロシア人民に伝統的にあったというツァーリ信仰は揺らぎ、その後のロシア革命への端緒となった。

行進のきっかけとなったのは、ガポンが組織した労働組合「ペテルブルク市ロシア人労働者の集い」の組合員の解雇事件である。解雇された4人の組合員は、当時ロシア最大の工場、プチロフ重機械工場の労働者であった。解雇撤回、労働条件の改善を訴えてストライキに入り、市内約380の工場が同調した。

ガポン
d0007923_1714677.jpgガポンは、労働者の無権利状態は我慢の限界を超えたと訴え、8時間労働の実施、日露戦争の中止、政治的自由等を要求する皇帝への嘆願書を書き、22日、イコン、ツァーリの肖像を掲げて労働者とその家族の請願行進を率いた。行進には市内労働者の半数を超える約10万人が参加した。
当時、ロシアの工場労働者は平均11時間働き、労働者の健康や安全への対策はないがしろにされていた。戦争の影響による物価高で生活は困窮していたという。



プチロフ工場は現在キーロフ工場(下)として操業している
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皇帝ニコライ2世は、発砲事件の時、冬宮ではなくペテルブルク郊外のツァールスコエ・セローの離宮にいた。日記に「軍の発砲で大勢の死傷者がでた。なんとつらく悲しいことか」と記した。
血の日曜日事件以後、ストライキは全国に拡大し、反政府運動が高まることとなった。

          冬宮 現エルミタージュ美術館
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by itsumohappy | 2006-01-22 17:20 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
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