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ドストエフスキー 『罪と罰』

ドストエフスキー 『罪と罰』_d0007923_22402927.jpg米川正夫、江川卓、工藤精一郎、小沼文彦、中村白葉ら著名なロシア文学者たちが訳してきた『罪と罰』の亀山郁夫氏による最新訳(2008-2009年)。
私は昔、米川訳を読んだが内容はほとんど忘れてしまっていた。字の大きさ・行間など見た目のとっつきやすさは新訳本ならでは。長大な古典文学は読むのにエネルギーが要るので、家にあるような3段組のレイアウトではもう読む気にならない。亀山氏の翻訳の良し悪しはわからないが、少なくとも一応すらすらとページが進むという点では読みやすいと言える。ただ、「バイト」など、訳語としてどうか?と感じるものがいくつかあった。

1865年夏のペテルブルクが舞台。解説によると、ペテルブルクは、1853-57年の毎年の逮捕者が4万人という犯罪都市で、農奴解放令(1861年)後は、土地を与えられない農民も流入して貧困など深刻な社会問題が生じていた。 
貧しさのゆえ学業を続けられなくなった主人公、ラスコーリニコフは、忌まわしい暮らしから逃れるため金貸し老婆の殺害を企て、「超自然的な力で引き立てられていく、服の端を機械の歯車にはさまれ引き込まれていく」ように計画を実行する。その殺人を正当化する論理がこの小説が突き付けるテーマである。

それを説明するくだりが各所に出てくるが、「ラスコーリニコフの論文」から要約すれば、
「人間は凡人と非凡人のグループに分けられる。凡人は従順に生き、法を踏み越える権利を持たない。非凡人は非凡人ゆえに、全人類にとって救済になると思えば、勝手に法を踏み越えあらゆる犯罪を犯す権利を持つ」というもの。古来、人類の恩人、立法者の大部分は多くの血を流させてきた、ナポレオンのような英雄や天才らもしかり。特別な存在であれば輝かしい事業のために殺人が許される、という論だ。

さらに小説は、罪の自覚を持たない主人公は救われるのか、救いは必要なのかと問う。そして「神の存在」の有無に言及する。
「黄の鑑札」(公娼に対して身分証明書と引換えに発行される証明書)で生きるソーニャに「神様がお許しになるはずがない」と責められたラスコーリニコフは、「ひょっとして神様なんてまるで存在していないかもしれない、神様は何をしてくれるんだい?」と応える。

『罪と罰』は「悪」「金」「神」という、ドストエフスキーの代表的エッセンスが込められている。小説では、最後に主人公の更生をにおわせているが果たして本当にそれが可能かは不明であるとも読める。
誰にでも勧められる良い小説というより危険で困った小説である。

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『罪と罰』は1865年、ドストエフスキーがドイツ保養地ヴィースバーデンに滞在中、ルーレット賭博に熱中して困窮状態に陥り、追い詰められてホテルで書き起こした作品である。同年にモスクワで起きた宝石商殺害事件などをヒントにしているという。作家は、10年間にわたるシベリアでの懲役を終了後、モスクワやペテルブルクで生活していたが、妻や兄の相次ぐ死、雑誌「世紀」の倒産などで巨額の借金を抱え、ドイツに高飛びしていた。
by itsumohappy | 2013-11-08 22:34 | 文学・本
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