福島第一原発事故をきっかけに、かつて出版されたチェルノブイリ事故関連の書籍が相次いで新装・再出版されている。そのうちの2冊の感想です。
************ 1986年4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原発で試験運転中の4号炉が爆発・炎上した。事故から36時間経過した時点で、発電所から3キロ圏内のプリチャピチ市民に避難命令が出された。28日、スウェーデン政府の問い合わせを機にソ連政府は事故を公表。5月5日~6日、原子炉火災が鎮火し、放射性物質の大量放出が止まった。飛散した放射性物質は、520京ベクレル。広島に投下された原子爆弾の200~500倍といわれる。ちなみに福島第一原発事故により今も放出されている量は37京~63京ベクレルである。 5月6日、30キロ圏内の住民に避難命令が出され、約13万人が避難した。 ソ連全域から、軍人や消防士ら作業員約60万人が、事故の詳細も知らされずに動員された。大量の放射能を浴びた作業員は、血液循環疾患をはじめとする様々な健康障害を発し、ベラルーシの専門家によれば、事故から5年間で約3万人、2011年現在まで約10万人が死亡したとされる(国連は、2005年、被爆による死者は約4千人と推定している)。 事故から25年経った現在も、許可が無ければ30キロ圏内に立ち入ることができない。強制移住させられた人々は、精神的苦痛に悩まされ続け、なかには、移住先の生活になじめずに政府の命令を無視して自宅に戻る者もいる。それらの「サマショール」(わがままな人)と呼ばれる人々は現在200人以上という。 2011年4月20日、爆発した原子炉を覆う新シェルターと放射性廃棄物保管施設の建設のため、EUなど約30の支援国や国際機関が、約650億円相当の資金拠出を表明した。 チェルノブイリの浄化プロジェクトが完了するのは2065年の予定である。 【2011年4月14日・20日日経、6月9日読売、11日日経新聞より】 ************ 『チェルノブイリの祈り-未来の物語』 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著(1998年)。著者は、ベラルーシのジャーナリスト。同国で最初にドキュメンタリーを手がけた著名な作家アレーシ・アダモーヴィチに師事した。チェルノブイリ事故当時、首都ミンスクに住んでいた。この本は、著者が3年にわたって、原発の従業員、科学者、医者、兵士、移住者、サマショール、地元政治家らにインタビューし、96年より雑誌に発表したものの集大成である。 ベラルーシ人にとってチェルノブイリは第3次世界大戦。著者は、この戦争がどう展開し、国が人間にいかに恥知らずな振る舞いをしたか、その記憶を残し、かつ、事実の中から新しい世界観、視点を引き出すために10年の歳月をかけたと語っている。 以下、主な証言の要約である。 ************ <殉職した消防士の妻> プリピャチ市では、事故は「妨害工作」と言われた。夫は、「1600レントゲン」浴びて、放射性物体、人間原子炉と化した。最後は、骨と体が離れてしまい、体はぐらぐら、肺や肝臓のかけらが口から出て、自分の内臓で窒息状態。同僚の消防士もみな2週間後死去した。これから、お金の工面をはじめ、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか、どの旗のもとに再起すればいいのかわからない。 <事故処理にあたった兵士> 34万人の兵士が生きたロボットとして投入された。原子炉の上で、バケツで黒鉛を引きずった者は「1万レントゲン」浴びた。「勇気とヒロイズムを発揮する」ため多くの命が失われた。アフガンで戦死すればよかった。そこでは死はありふれたことで、理解できることだった。 <映像ジャーナリスト> チェルノブイリの記録映画はない。撮らせてもらえなかった。悲劇を撮影することは禁じられ、撮影されたのはヒロイズムばかり。カメラマンはカメラを叩き壊された。チェルノブイリのことを正直に語るのは勇気が必要なのだ。 <住民たち> 原子炉が光っているのを見た。美しかった。ベランダに出て見物し、遠くから車や自転車で駆けつける人もいた。地上のにおいじゃないにおいがした。その後、人々は義務だと思ってメーデーの行進をしに出かけていった。情報は一切無く、政府は沈黙し、身を守るすべがなかった。 疎開した被災者はのけ者にされた。学校では「ホタル」と言われ、隣に座ると死ぬと避けられた。 <ベラルーシの核エネルギー研究所元所長> ミンスクにヨウ素剤が用意されていたが、倉庫に眠ったまま。誰も彼もが命令を待つだけで自分では何もしようとしなかった。上の怒りを買うことが原子力よりも怖かった。国家が最優先され、人命の価値はゼロに等しい。しかし、指導者連中は、ヨウ素剤を飲んでいた。彼らのために、郊外に専用の管理された農場で野菜や家畜が育てられた。 一刻も早く住民を移住させねばならないとモスクワに訴え出たら反ソ分子として刑事事件が起こされた。チェルノブイリ、これは犯罪史だ。 <同研究所技師> 食料品がむきだしのまま売られ、さらに、汚染されたものとわかっていても混ぜて売られた。もはや食料ではなく放射性廃棄物と知っていながら沈黙した理由は、共産党員だったから。わが国民は最高であると言う信念があり、命令には服従が当然だった。 <党地区委員会元第一書記> 体制の高い理想を信じていた。政治的利益が最優先され、パニックを許すなと命令されていた。住民を通りに出してはならないと言ったらメーデーをつぶしたいのかと言われ政治事件となる。市場への供出割り当て分を達成するため 、セシウム入りの牛乳を工場に運んだ。疎開、移住させられたあとも、ノルマ達成の農作業のために住民が連れてこられた。 ************ ひとつひとつの証言がそれぞれに衝撃的で一様ではない。しかしながら、根本的な構図は、福島の原発事故が引き起こした様相と似通っている。世界観の激変。情報の隠匿。打ち捨てられ、略奪にあった家々や残されたペット。チェルノブイリの汚染地域では、ペットを含め動物は次々と射殺されたということが違っているが。 以前の世界はなくなって苦悩だけが残った。人々は、何のために苦しんでいるのか。 『チェルノブイリ診療記』 菅谷昭著(2011年7月)。1998年に発行されたものの新版。副題「福島原発事故への黙示」。 著者は、信州大医学部での職を辞し、甲状腺外科の専門医として、1996年から2001年までベラルーシでNGOと協力しながら医療活動に従事した。チェルノブイリ事故で最も汚染されたベラルーシ・ゴメリ州(1㎡あたり1480キロベクレル(40キュリー)以上)などにおける甲状腺障害の増加を、住民に対する諸検査と合わせて科学的に検証し、甲状腺がんなどの治療にあたった記録である。 ベラルーシの小児甲状腺がんの患者数は、事故前の10年間は7名であったが、事故後の10年間では424名。当初、事故は伏せられていたため、人々は5月1日のメーデーのパレード練習をしたり森で遊びキノコを採って食べたりしていた。この地域の人々が事故を知らされたのは5月2日以降。その間に住民の内部被ばくが進んでしまった。 ベラルーシ一帯は内陸地のため、海藻に含まれるヨードの摂取が不足気味になる。甲状腺は無機ヨードを原料として甲状腺ホルモンを作る器官で、体は、不足しているヨードを例えそれが放射性ヨードであっても取り込んでしまい、放射線の内部照射でがんが誘発される。放射性ヨードの半減期は8日であり、事故直後から十分な無機ヨードを投与されていれば、小児性甲状腺障害は軽減されていた。菅谷氏によると、いまだに汚染地域では異常分娩や子どもの免疫能力の低下問題があるそうだ。 氏は、日本では廃棄されるような古い機材・機器を使うベラルーシの病院で、10年以上も遅れた手術形式を目にして戸惑う。職域分担が厳密に区分けされ、人繰りがつかなければその日の手術が当日急に中止になるといった、ソ連式の融通のきかない官僚的、不合理なシステムに憤る。診療実績(=手術件数)で病院に経費が配分されるため、ベルトコンベヤー式に患者が次々に短時間で手術が行われる。その結果、すぐ再発を招き、度重なる手術で合併症のリスクも負うことになる子どもたちのエピソードが痛ましい。経済状態の悪化が医療現場にもしわ寄せされており、スタッフの生活は苦しく、カジノでアルバイトするほうが稼ぎになる医者もいた。氏は、切れないメスを使えるように切れないナイフで食事して練習した。 「旧態依然の非民主的体制」にぶつかりながらも、氏は「ベラルーシの医療を何とかしよう」といった意気込みで突っ走るようなことはせず、「あせりは禁物」と同僚たちとの信頼関係を築きながら、自ら持つ技術(首のしわに沿ってメスを入れる傷跡が残らない甲状腺摘出手術)が認められるように努めた。手術を手がけた患者は750人。しかし、この本には、氏がベラルーシに伝えた手術に関する記述はない。 現在、松本市長を務める氏は、政府の福島第一原発事故対応について、放射性物質の拡散状況を公表しなかったことなど、初動の経過からは全く危機感を感じることができず、国民の立場でものを考えているとは思えなかったと記し、「大切なのは、事実を伝えること」と訴える。福島の事故が収束しないなか、氏が予感した「第2のチェルノブイリ」説は決して非現実的ではないと感じられる。
by itsumohappy
| 2011-10-30 15:12
| 文学・本
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