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2017年 07月 11日

帰国を望むシベリア抑留された元日本兵

20176月、戦後シベリアに抑留され、その後も日本に帰国せず、ソ連/ロシアにとどまった元日本兵・田中明男さん(89歳・右)が、サンクトペテルブルク近郊のポギ村で生存していることが報道された。
(写真は2017年6月5日毎日新聞)d0007923_16202672.jpg


北海道遠別村(現遠別町)出身の田中さんは、1944年、10代で陸軍に志願し、満州の関東軍で1年余りにわたって前線で戦った。大戦末期、日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したソ連軍に捕まり、ハバロフスクの収容所で約10年間、森林伐採の労働を強いられた。


50
年代から抑留された人々の日本への帰国が本格化したが、田中さんは、収容所幹部から、「帰国すれば裏切り者として迫害される」と言われ、ソ連に残った。その収容所では、約80人の日本人が残留を決めたという。なお、外務省によれば日本に帰還しなかった抑留者は、約1,000人とされる。


収容所からの解放後、60
年代にソ連国籍を取得。ウラジオストクで船員となったのち、レニングラード州に移住し、集団農場の牛の飼育係や電気工として働き、優秀な労働者として何度も表彰された。


田中さんは、80
年代に、レニングラードの日本総領事館に帰国の相談をした結果、登別温泉で旅館経営をしていた父が死去したこと、妹が所在不明であることを告げられた。日本で受け入れ先がないことに不安を覚えたのか、帰国を断念した理由はよくわからない。


私生活について多くを語らなかったという田中さんは、現在、年金暮らしで一人住まい。近所の人が身の回りの世話をしている。日本語はほとんど忘れてしまった。日本に移住するつもりはないが、桜の咲く頃、もう一度日本を見たいと希望している。


2017
年6月5日・6日毎日新聞、20日日本経済新聞より】









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# by itsumohappy | 2017-07-11 20:42 | その他 | Trackback | Comments(0)
2016年 09月 28日

アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』

2015年にノーベル文学賞を受賞したベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著作。ともに、体験者を取材して集めた証言から構成するスタイルである。ベラルーシでは、20年以上ルカシェンコ大統領による独裁体制が続いており、アレクシエーヴィチは、大統領から「祖国を中傷する裏切り者」などと非難され、国外での生活を余儀なくされた時期もある。

『戦争は女の顔をしていない』
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1978年から2004年までの間、500人以上の退役女性軍人に取材した成果である。政治的な圧力により、完成後2年間出版できなかった。

ソ連では、第二次世界大戦に15~30歳の100万を超える女性が従軍した。軍医、看護婦、 料理・洗濯係ばかりではなく、狙撃兵、機関銃射手、高射砲隊長、工兵、飛行士などもいた。しかしながら、女性兵士たちの活躍は世に知られず、もっぱら語られるのは「男の言葉」による戦争である。著者は、女たちの戦争の物語を数年にわたって調査した。


「幸せって何か」と訊かれるんですか?私はこう答えるの。殺された人ばっかりが横たわっている中に生きている人が見つかること… (アンナ・イワーノヴナ・ベリャイ/看護婦)

私たちが前線に出ていくとき、女の人、老人、子供たちが沿道に人垣を作っていました。「女の子が戦争に行く」とみんな泣いていました。(タマーラ・イラリオノヴナ・ダヴィドヴィチ/軍曹)


地上戦の悲惨な体験が数多く語られるが、この本で印象に残るのは、戦後の物語。勝利後、男たちは英雄になり理想の花婿になったが、女たちの勝利は取り上げられてしまった。

戦地にいたということで敬遠され、時にはあばずれ呼ばわりされるなど、戦場体験のない女性たちからあらゆる侮辱を受けた。前線にいたことを隠し、褒章も身に着けなかった。支援を受けるのに必要な戦傷の記録を捨てた。 …等々の証言はいたましい。

さらに著者は、4年間で2千万人という多大な犠牲は誰の責任だったのか指摘する。すでに戦前、もっとも優秀な司令官たち、軍のエリートは殺されていた。戦地で後退したら収容所入りか銃殺。捕虜経験を持つ者は人民の敵。富農の子が流刑地から帰ると、ドイツ軍に仕えて「親の仇うち」をするという味方同士の殺し合いもあった。
1937年のスターリンの大粛清がなければ1941年も始まらなかっただろう、と著者は記している。

伝えなければ。世界のどこかにあたしたちの悲鳴が残されなければ。あたしたちの泣き叫ぶ声が。 …一つは憎しみのための心、もう一つは愛情のための心ってことはありえないんだよ。人間には心が一つしかない、自分の心をどうやって救うかって、いつもそのことを考えてきたよ。(タマーラ・ステパノヴナ・ウムニャギナ/赤軍伍長)



『ボタン穴から見た戦争』
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原題『最後の生き証人』。1985年、ペレストロイカ政策を受けて雑誌『オクチャーブリ』誌に発表されたベラルーシの子供たち(2~14歳)101人の証言がもととなっている。
1941年、ドイツ軍の侵攻によりベラルーシでは、600余りの村々で村人が納屋に閉じ込められて焼き殺されるなどし、人口の4分の1が失われた。

おかあさん、みんなが宙に浮いているよ(ピョートル・カリノーフスキイ/12歳)
あたしたち、公園を食べたんです (アーニャ・グルービナ/12歳)


ドイツ軍による銃殺、焼殺その他あらゆる残虐行為の証言は読んでいて苦しい。ドイツの軍用犬は人間の血肉を覚えさせられていた。
両親をなくし、パルチザンに引き取られて、読み書きを教わりながら斥候や通信・食事係となる子ども。姓も言えないくらい幼い孤児。人間らしさを失ってはいけないと洗濯をし、祝日を祝う親。恐怖と飢餓のなかでもユダヤ人の子を匿う人もいた。


先に亡くなったのはあのすばらしいお母さんです。それからお父さんも亡くなりました。そこで実感したんです。私たちはあの時期の、あの地方の生き残りの最後だって自覚したんです。今、私たちは語らなければなりません。最後の生き証人です……。 (ワーリャ・ブリンスカヤ/12歳)

あるとき著者は、「大祖国戦争」の映画を、アイスを食べしゃべりながら見ている女の子に気づき、他人の痛みを共有するところのない態度に不安を覚えたそうだ。自分の本は、映画を見てアイスをなめていた女の子が読んでくれなければ、と語っている。
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# by itsumohappy | 2016-09-28 19:11 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 31日

中村逸郎 『シベリア最深紀行』  

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中村逸郎著(2016年)。副題「知られざる大地への七つの旅」。2011年から14年にかけて、政治学者の著者がシベリアの僻村を訪ねた記録である。

シベリアは、広義にはウラル山脈から太平洋岸までの東西7,000キロの範囲(西シベリア・東シベリア・極東ロシア)を指すが、著者によると、人々が「シベリアっ子」と自認する東端は、「シベリアの縮図」と言われるバイカル湖東のチター(チタ)市である。チターのあるザバイカーリエ地方の民族数は120以上。学校ではロシア語使用でも、生活の場では様々な言葉が行き交う。

16世紀、ストロガノフ家に雇われたコサック、イェルマークの部隊が征服したのが「アバラーク村」。ロシア人の先祖がシベリアを切り拓いた最初の地である。
17世紀初めにロシア人のシベリア入植が始まるまで、西シベリア一帯はタタール人(イスラム教徒)の占有地だった。タタール人ら先住民族は、先祖からの宗教、風習を堅持し、ロシア人と真っ向からの対立を避け、微妙な距離をとりながら生活してきた。

第二次大戦後、シベリアはロシアに統合された。ソ連が崩壊すると、「シベリアの天然資源がモスクワに収奪される」というような、ロシアによるシベリアの植民地化を懸念する議論が生じた。モスクワからの分離、自治拡大を求める声もある。 
しかし、著者は、シベリアはロシアと折り合い、交じり合ってきた、という観点から、ロシアのなかのシベリアという枠組みでシベリアを理解するには限界がある、と語る。

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著者が訪ねたシベリアの村を含むロシア地図(本書より)

広大なシベリアの地では、住民の把握もなかなか容易ではない。定住者以外はロシア国家の構成員と認められないが、トナカイを放牧しながら移動するツンドラの遊牧民はロシア人としてみなされるのか。また、人々の幸福度がロシア全土で最も高い「トゥヴァー共和国」で、シャマーン(「シャーマン」のロシア語アクセント表記。シャーマンは、シベリアが発祥の地とされる)の治療を受けた著者に何が起きたか。

取材地はごくごく一部の地域でも、自然と人間が一体となって暮らす「お金や物への欲望とは無縁の精神世界」の様相が大変興味深い。
なかでも、17世紀半ばにロシア正教から分裂した古儀式派のロシア人村(エルジェーイ集落)が印象に残る。ニコン総主教の改革(世界標準の祈祷方式に合わせることを訴えた)に反対した数百万の信者は、シベリア奥地に逃避した。今もその末裔がおり、国家から身を隠して生活しているのである。

道なき道を走破し、おそるおそる村を訪問した著者が出会ったのは、古儀式派でも司祭非容認派の人々。彼らは、宗教者の存在も認めず、神と自然への慈しみのなかで自律的に暮らしている。世俗社会との接触を断ち、法律、徴兵、戸籍、貨幣経済も受けつけない。

国有地であっても、人々が自力で開墾して(勝手に)住んでいるのを国は把握しきれない。ロシア国内でも、国家も法律も意識しない暮らしがある。「シベリアよりもよいところはない」と人々は語る。

「シベリアのなかのロシア」という視点で見た、「ロシアに染められることのない、多彩なシベリア」の一端を知る本である。

d0007923_15462723.jpg森林で育つミネラルの豊富な食料だけで生きているので身体が磁力を帯びてくる、のだそうだ。(岩波書店の本書紹介サイトより)
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# by itsumohappy | 2016-07-31 16:00 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2016年 07月 11日

ケストラー『真昼の暗黒』

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アーサー・ケストラー(1905-1983)(右)作。
スターリンによる大粛清の犠牲となったオールド・ボリシェヴィキ(古参の共産党員。オールド・ガード)の悲劇を描くもので、「モスクワ裁判」の犠牲者に捧げられている。この作品は同裁判の3回目(38年のブハーリンの粛清裁判)を題材にしている。

ブダペスト生まれのケストラーは、大学中退後、パレスチナでのシオニズム運動参加を経てフリーのジャーナリストとなった。31年、ドイツ共産党に入党し、コミンテルンの指示でソ連各地を視察。37年、内乱下のスペインで逮捕され、死刑判決を受けるが英国政府に助けられた。モスクワ裁判を機に脱党。『真昼の暗黒』は、40年、反ナチスのかどでフランスで獄中にいる間に、友人による英訳がロンドンに送られて出版された。もとのドイツ語原稿は失われたとされる。
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40年間党に仕えた主人公ルバショフは、「反革命活動に対する自白」を強要され、「犠牲になった者たちの悲しみの声に耳を傾けたこと、彼らを犠牲にする必要性を証明する議論に耳を貸さなかったこと」で罪を認める。スターリン(小説では「ナンバー・ワン」と表記)の独裁体制を固めるための陰謀の犠牲になった人々が、処刑室にひきずられていく様子を、収監者が部屋から部屋へ「壁通信」で伝えていくシーンが怖ろしい。

恐怖政治を暴き、ソ連型社会主義の消滅をいち早く分析した作品として世界的に注目を浴びた。「ナンバー・ワン」の体制とヒトラーの体制はどちらも全体主義国家として同一のものであるとの指摘に、フランス共産党は怒り、フランス語版をすべて買い上げて焼き捨てようとしたという。



【モスクワ裁判】
1936-38年にかけて、革命時代のボリシェヴィキの最高幹部らが「反革命分子」として裁かれた公開裁判。3回行われた。大粛清を正当化し、国内の引き締めをねらったものとされる。犠牲となったジノヴィエフ、カーメネフ(第1回)、ラデック(第2回)、ブハーリン(第3回)らはゴルバチョフ時代のペレストロイカで名誉回復された。


【方形アルファベット】
d0007923_16252723.jpg5×5の正方形にアルファベット25文字を入れたもの。壁通信の際に使う。この本によれば、「H」を表すには、「2回・3回」と壁を叩く。2回でF-Jの第2列、次の3回でその列3番目のHとなる。 

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# by itsumohappy | 2016-07-11 19:20 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2016年 04月 20日

嶌信彦 『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』

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著者によれば、第2次大戦後、ソ連各地に抑留された人々は23か国350万人以上とされる。日本人捕虜は約60万人で、そのうち約3万人がウズベキスタン(ソ連時代はウズベク)共和国各地で道路・住宅や発電所建設などの労役についた。なかでも日本兵が首都タシケントに建てた壮麗なアリシェル・ナボイ劇場は、ウズベキスタンに限らず周辺のカザフスタン、タジキスタンなど中央アジア各地に「日本人伝説」を広めるものとなった。この本は、劇場建設に携わった日本人将兵や現地の人々、ソ連将校らのエピソードを紹介するものである(2015年)。

ウズベキスタンで最も愛されている15世紀の詩人の名を冠するナボイ劇場は、ロシア革命30周年記念として建設が計画され、ソ連時代は、モスクワ、レニングラード、キエフとともに四大劇場のひとつとされていた。


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ナボイ劇場(上)は、ソ連にある約80の劇場のうち最高の「ボリショイ」の称号を持つ7劇場のひとつでもあった。


「日本人伝説」が広まったきっかけは、1966年4月26日、タシケント市で起きたM5.2の直下型大地震。60年代までは世界で起きた大地震の5指に入る規模だった。街のほとんどの建物が倒壊するなかで、日本兵が完成させたこの劇場は崩れなかった。それは、捕虜たちが、将来笑いものになる劇場を作ったら日本人の恥、との思いで建てたからである。

戦前、基礎工事の段階で中断されていた劇場建設に投入されたのは、主に、満州から移送されてきた、永田行夫隊長以下457名の旧陸軍航空部隊の18歳~30歳の工兵たちだった。満州の野戦航空部隊の中隊長だった永田氏は当時24歳。他の将校らとともに第4ラーゲリで工兵を指揮した。全員の無事帰国を目指し、ソ連側将校と交渉して食事や作業が公平になるよう努め、抑留生活のストレス発散のため学芸会なども企画した。工兵たちは、バイオリンや演劇衣装、囲碁将棋、トランプ、麻雀など何でも作ってしまった。

ソ連に抑留された者の中でも、比較的恵まれていた背景には、部隊の性格(大学出たてで階級意識が強くない将校、人柄のよい下士官、職人気質の兵)や物分かりの良いソヴィエトの収容所長の存在があった。

永田隊長は、ソ連の政治将校から秘密情報員の疑いをかけられるも、尋問の席で一式戦闘機の図面を書いて見せるなどして危機をくぐり抜けた。劇場完成後、別のラーゲリに移送されたが、旧知の収容所長の計らいで48年に帰国した。帰国の前に、第4ラーゲリの457人の名前・住所を、スパイ容疑を避けるために暗記し、舞鶴に着いても宿をとって、忘れる前に紙に書き写した。

基本的にノンフィクションでも、小説仕立てのような表現があって少し慣れなかったが、日本、ソ連ともにこんな将校たちもいたのだと知り、感銘を受けた。 

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2015年10月25日、タシケントを訪問した安倍首相夫妻。ナボイ劇場を視察し、日本人墓地に献花した。【首相官邸のサイトより】


d0007923_188918.jpg 上の写真で首相夫妻が見つめていた劇場壁面のプレート。かつては、「日本人捕虜が・・」と書かれてあったが、ソ連から独立後、就任まもないカリモフ大統領は、ウズベキスタンは日本と戦ったことも日本人を捕虜にしたこともないと発言し、「日本国民が‥」に書き換えさせた。

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# by itsumohappy | 2016-04-20 18:55 | 文学・本 | Trackback(1) | Comments(0)
2016年 02月 21日

高杉一郎 『極光のかげに』

d0007923_14521097.jpg高杉一郎(1908-2008)は、ジャーナリスト・翻訳家。戦後は、静岡大学教授なども務めた。「シベリアぼけを清算するため」に、4年間の抑留の体験を記した『極光のかげに』(1950)は、日本で最初の「スターリン批判」と言われた。しかしながら、「ソヴィエトの人々の人間性やこの国についてのひとつの真実を伝えたい」という言葉のとおり、終始、客観的な視点で書かれている。 

高杉氏は、出征前は改造社で雑誌『文藝』を編集しており、三木清、中野重治、宮本百合子、中野好夫、竹内好らと交流があった。(改造社は、神奈川県警による複数の言論弾圧事件(いわゆる横浜事件)で有名)1944年、会社が解散させられた直後に氏は召集され、ハルビンで敗戦を迎えた。45年10月、夏服のままで乗せられた「帰国列車」の行き先はイルクーツク州だった。

収容所生活は、シベリアタイガの田舎町、ブラーツクから始まった。ブラーツクとそこから300キロ先のバム鉄道(第2シベリア鉄道)の起点、タイシェトとの間の鉄路建設に、約4万人の日本人捕虜が投入されており、氏は、書記兼通訳として収容所の労務管理に当たった。ここでの2年間は、収容所長をはじめとする周囲の心温かいロシア人のおかげで、比較的幸運に過ごした。
英、仏、独、エスペラント語のほかロシア語も多少理解したため、政治部員(軍隊内の政治指導・思想取締まりを任務とする)から目をつけられたときは、奥地に追いやられないよう所長が庇ったというエピソードが記されている。
しかし、結局、所属する部隊ごとタイシェトの懲罰大隊へ送られ、まくら木製材、原木引き上げの重労働に就いた。

親切なロシア人に、「19世紀ロシア文学に流れるロシア正教に根ざしたヒューマニズムの伝統」を見る一方で、彼らが表情暗くソヴィエト・ロシアの否定面を語ることに混乱する場面がある。密林の中に、ロシア人の囚人を含め、囚人があまりにも多い――やがて、コミュニズムはファシズムと同一物であると氏は悟る。
当時、シベリアには24か国420万人の俘虜がおり、日本人はドイツ人(約240万人)に次いで約60万人とされる。

帰還が間近になった頃、収容所内で始まった奇妙な政治運動にも触れている。帰還に心煩わせるものは、「ダモイ民主主義者」や反ソ分子としてつるし上げられ、「スターリン大元帥に対する感謝署名運動」なども起き、革命歌が合唱された。

49年に帰国後まもなく出版されたこの本は、ベストセラーになったが、「真実をゆがめる」或いは「ソ連に甘すぎる」と左右両方から当時批判されたそうだ。

シベリア生活の様相よりも、戦前の知識階級の奥の深さが印象的である。「先ずなによりも人間であればいい」というメッセージが心に残る。
ペレストロイカをきっかけに91年、高杉氏は、ブラーツクの収容所長だったジョーミン元少佐と再会を果たした。


【参考:2005年2月26日読売新聞、1999年5月23日朝日新聞、1991年8月19日朝日新聞】
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# by itsumohappy | 2016-02-21 00:03 | 文学・本 | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 08日

マリインスキー・バレエ「愛の伝説」

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マリインスキー・バレエ「愛の伝説」の感想です。(11月27日/東京文化会館)

【出演】
バヌー/ウリヤーナ・ロパートキナ
シリン/クリスティーナ・シャプラン
フェルハド/アンドレイ・エルマコフ
大臣/ユーリー・スメカロフ

マリインスキー歌劇場管弦楽団/アレクセイ・レプニコフ指揮
振付:ユーリ・グリゴローヴィチ

報道によれば、「愛の伝説」は、日本では37年ぶりの全幕上演とのこと。あまり観る機会がなさそうなので、平日で心配だったけれども直前に購入。開演前に行われたトークには間に合わなかったが、舞台にはぎりぎり間に合ってよかった。初め土曜公演にするつもりだったが、やはりロパートキナの名演を見ることができて何より。

1961年、マリインスキー(キーロフ)劇場で初演されたこの作品は、トルコ出身でソ連に亡命した共産主義者の詩人、ナーズム・ヒクメットの戯曲に基づく。音楽はアゼルバイジャン出身のメリコフが作曲。舞台は中近東の設定のようだが、装置も衣装も簡素・単純で、あえてきらびやかさは避けている印象。というのも、この作品が、よくバレエにあるおとぎ話ではなく、自分の幸福を犠牲にしてでも、苦しむ人民のために尽くす、というお話のためか。そういう共産主義プロパガンダ?風なことが、日本でほとんど公演されなかった理由のひとつかも。

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心情を表す動・静の様々な群舞の構成で、物語が進行する感じ。踊りそのものを楽しむバレエ。他のグリゴローヴィチ作品「スパルタス」のように男性の群舞も多い。ソ連時代のある種の様式美はこのようなものだったのだろう。

ロパートキナは、体が| ̄| 形に裏返しになるようなしなやかさ。怒りめらめらで、ただ座っていてもその気が満ちるような別格の存在感である。
大柄な大臣も堂々とした演技。マリインスキーの新生というシャプランは普通に上手なのだろうが、素人の私にはどの辺りが特別かはよくわからなかった。

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# by itsumohappy | 2015-12-08 13:39 | 演劇 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 26日

シュツットガルト・バレエ「オネーギン」

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シュツットガルト・バレエ「オネーギン」の感想です。(11月21日/東京文化会館)


【出演】
タチヤーナ/アリシア・アマトリアン
オネーギン/フリーデマン・フォーゲル
オリガ/エリサ・バデネス
レンスキー/コンスタンティン・アレン
グレーミン侯爵/ロバート・ロビンソン
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団/ジェームズ・タグル指揮
音楽: ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー  クルト=ハインツ・シュトルツェ編曲
振付:ジョン・クランコ


3年ぶりの来日だが、「オネーギン」の日本公演は、2008年以来とのこと。このバレエ団を有名にした「オネーギン」は、団員にとって神聖な演目だそうだ。

ロシアの国民的詩人・プーシキン作の『エフゲニー・オネーギン』はオペラや映画になり、そのうち私が観たものはどれも心に残った。バレエとなると原作を忠実に反映するのは難しい部分もあり、多少端折らざるをえないが、それでもこのバレエは期待以上に素晴らしく、魂のこもった大変感動的な舞台だった。終幕では、あちこちからすすり泣きが聞こえていたほどだ。

d0007923_2384288.jpgオネーギンを演じたフォーゲルは、これまでレンスキーを主に演じており、日本で「オネーギン」全幕の主演を務めるのは初めてだったそうだ。じっと座ってカードめくりするだけでも、気取り屋の余計者の雰囲気がよく出ていた。レンスキー、グレーミン侯爵も原作のイメージどおり。アマトリアンのタチヤーナも熱演だったが、若干大人すぎか。

ベージュ、白を基調とした衣装で、全体としては地味に見えるかもしれないが、品がよい。超絶技巧の連続技みたいなものはなくとも、群舞のシーンなど舞台を斜めに行き交ったりして見応えがあった。音楽は、チャイコフスキーの楽曲を編曲しているそうで、オペラの「オネーギン」を使っていない。却ってそのほうが自由なイメージになってよいかもしれない。



「オネーギン」が心を打つのは、帝政ロシア期の話であっても、青年期の熱情や夢、或いは絶望、さらには傲慢さ、軽薄さ、老いては分別、諦めなど人々の様々な感情が織りなすドラマであるからだろう。おとぎの国や悪魔・精霊が出てくる、よくあるバレエ作品とは印象が異なる。

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# by itsumohappy | 2015-11-26 23:13 | 演劇 | Trackback | Comments(0)
2015年 11月 23日

北方領土問題(3)冷戦のなかで

1951年9月に締結された講和条約には千島列島の範囲が示されなかったが、同年5月に作成された講和条約の米英共同草案には千島、南樺太のソ連への割譲が定められていた。最終案に千島の範囲・帰属先が示されなかった理由のひとつとして、米国に、ソ連に対する利益を明示することを避ける意図があったことが指摘されている。
講和会議ソ連代表のグロムイコは、ソ連の千島領有は正当であると演説で述べ、講和条約への調印を拒否した。

第2次世界大戦終結後、ベルリン封鎖や朝鮮の分断などに見るように、東西の対立が顕在化するなかで、日本がソ連との間に「北方領土問題」を抱えているほうが米国にとって好都合であったとする説は多い。

一方、講和条約に調印しなかったソ連との平和条約交渉は、1955年6月に開始された。交渉を重ねる中で、最終的に日本は、歯舞、色丹、国後、択捉の四島の返還方針を打ち出したが、歯舞、色丹の返還が最終的な譲歩とするソ連と当然ながら折り合わなかった。交渉中断の合間に、重光外相は、米国のダレス国務長官から「日本が千島列島に対するソ連の主権を認めれば、(講和条約第26条に基づき)アメリカも沖縄を占領し続ける」旨の警告を受けたとされる。

ソ連との交渉は、平和条約を締結せずに国交を回復する形で合意され、1956年、「日ソ共同宣言」が調印された。

以降、現在に至るまで、ソ連/ロシアとの領土問題交渉で、具体的な成果(島)は得られていない。冷戦は終結したが、領土問題は解決の糸口のないまま依然残された形となっている。

****************************************
【参考文献】
○『日本占領の多角的研究』日本国際政治学会(1987.5)
○原貴美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点―アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」―』溪水社(2005)
○和田春樹『北長谷川毅『北方領土問題と日露関係』筑摩書房(2000)方領土問題 歴史と未来』朝日新聞社(1999)
○松本俊一『モスクワにかける虹―日ソ国交回復秘録』朝日新聞社(1966)
○田中孝彦『日ソ国交回復の史的研究』有斐閣(1993)
○久保田正明『クレムリンへの使節―北方領土交渉1955―1983』文芸春秋(1983)
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# by itsumohappy | 2015-11-23 17:32 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)
2015年 07月 26日

北方領土問題(2)対日講和条約の規定と千島の範囲

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対日講和条約の発効(1952年4月)で日本は独立を回復した。同条約が締結された講和会議(1951年9月)にはソ連も含む52カ国が出席したが、講和条約に調印したのは49カ国。ソ連は調印を拒否した共産圏3国のひとつだった。

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対日講和条約の「第2章 領域」第2条(C)は、
「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」と規定。しかし、この放棄したところを日本にかわってどの国が領有するのか規定されなかった。

千島列島・南樺太をロシアが「領有」している根拠はない、という意味で、先の地理院地図の赤丸部分が点線なのだ。そして、同地図の青丸部分の点線は、未画定(或いは領土問題を抱える)の箇所である(もうひとつの領土問題は竹島)。

講和条約では千島列島の範囲も示されなかった。同条約作成に携わったダレス米国務長官顧問は法律家だったのにもかかわらず、なぜそのような曖昧さを残したのでしょう。
(続く)
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# by itsumohappy | 2015-07-26 16:34 | 歴史・領土問題 | Trackback | Comments(0)