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ボリショイ・バレエ「スパルタクス」の感想です。(1月31日/東京文化会館)
![]() 【出演】 スパルタクス:イワン・ワシーリエフ フリーギア:スヴェトラーナ・ルンキナ クラッスス:アレクサンドル・ヴォルチコフ エギナ:エカテリーナ・シプーリナ ボリショイ劇場管弦楽団/指揮 パーヴェル・ソローキン 音楽:アラム・ハチャトゥリアン 6年間の修復を終え、新装なったばかりのボリショイ劇場が引越し公演(1月27日~2月12日)。地震と放射能を心配していたと思うが、よくぞ来日した。都内の初日は、「スパルタクス」。古代ローマの剣奴の反乱(紀元前73-71年)を題材に、ユーリ・グリゴローヴィチが振付したバレエで、1968年初演された。 この演目のパリ公演(2008年)をたまたま録画で見ていたが(スパルタクスを客演したカルロス・アコスタが印象的だった)、実際観られる機会が少なそうなこともあって、先週チケットを購入。平日夜でも劇場の9割近くが埋まっていた。ワシーリエフがミハイロフスキー劇場に移籍したけれども、予定通りのキャスティングで行われた。 この作品は、ダイナミックな音楽にのって力強さでおしまくる勇壮な「男性バレエ」で、衣装も派手ではない。言うなれば、バレエという感じのしないバレエ。炸裂する管弦楽はやはり生の舞台ならでは。 主演のワシーリエフはわりと小柄で、どんなスパルタクスかと思いきや、ゴム鞠のごとくかなりの気合で最初から最後まで飛び跳ね、かつ、スピーディなー切れのよさを披露して喝采を浴びていた。 ![]() シプーリナのエギナも濃いキャラクターのせいか心に残る演技だった。対して、ルンキナのはかなさはややわりを食う感じになった(そういう役柄なので仕方がない)。 半ばでヴォルチコフの着地が失敗し、その後、やや足を引きずったのでどうなることか心配だったが、後半は無事に踊りきった。あと、兵隊さんの数がもう少し多いとより迫力が増しただろう。 前回来日時よりずっと円高のはずだが、チケットの価格帯は変わらない印象である。もう少し何とかならないものだろうか。 ![]() 改装されたボリショイ劇場のメインロビー 12月4日のロシア下院選挙において、票の水増し等の不正行為が行われたことに抗議し、10日・24日にモスクワで大規模デモが行われた。主催者発表で、10日はソ連崩壊後最大規模とされる10万人、24日はそれをさらに上回る12万人が参加した。公正な選挙を求める集会は、全国50都市以上で行われた。政府は大都市で治安部隊を投入し、のべ千人以上を拘束した。
![]() 下院選では、政権与党である統一ロシアは全国得票率49%(前回選挙では63%)、獲得議席(定数450)は77議席減の238議席にとどまった。過半数は維持したものの、憲法を単独で改正できる3分の2を占めるに至らなかった。与党への批判票が野党に流れ、与党得票率はモスクワで46%、サンクトベテルブルクで32%となった。その一方、チェチェンなどでは90%超となるなど、一部地域で強引な集票活動が行われたことで、与党「勝利」につながったと伝えられている。 プーチン首相は、9月24日、政権与党である統一ロシアの党大会で、2012年3月の次期大統領選に立候補を表明している。メドベージェフ大統領とのたすきがけ人事、すなわち大統領への返り咲きは言わば既定路線とされていたが、国民不在、権力者同士の決定に、リベラルな中間層が反発し、与党に背をむけた。 2008年12月の憲法改正により、大統領任期は4年から6年に延長されており、最長12年間大統領職を務めることが可能である。プーチン氏が唱える「主権民主主義」(管理された民主主義)は、2007年の選挙頃までは受け入れられたかもしれないが、インターネット人口が国民の3分の1を超えた現在、汚職の改善や天然資源に依存しない経済への改革を求める中産階級の意識を、政権は認識していないと分析する声がある。 12月15日、プーチン首相は国民との対話で、野党が求める選挙のやり直しや票の再集計には応じないとし、2012年3月の大統領選では、全投票所にライブカメラを設置して投票を監視することを検討すると表明した。 下院選で、与党への反対票により躍進した野党には、大統領選でプーチン氏に対抗できる有力な候補者はおらず、決選投票となってもプーチン氏当選の可能性は大きいとされる。 【2011年9月24日朝日新聞、12月5日・8日日経、11日毎日、15日読売、28日産経新聞より】 ●日露首脳会談の開催
2011年11月12日、APEC首脳会議が行われたホノルルで、野田総理とメドベージェフ大統領が会談を行った。外務省の発表によれば、両首脳は領土問題解決の必要性を再確認し、議論を継続させることで一致。野田総理から、交渉は日露両国間の諸合意に基づき行う必要があることを指摘した、とのことだ。ここで、「諸合意に基づき行う必要性で両国は一致」にもなっていないことが気になる。9月21日、国連総会開催時に行われた日露外相会談の概要を見ると、玄葉外相とラヴロフ外相は、「日露間では立場の違いがある中で、法と正義を重視して、静かな環境で議論を継続していくこと」で一致したとある。北方領土交渉を「静かな環境」で、という表現をよく見かけるが、意味するところがもうひとつ不明である。昨年11月1日、メドベージェフ大統領は、国後島を訪問。ソ連時代を含めロシア国家元首として初めての北方領土訪問であり、ロシアの実効支配をまざまざと見せつけた。領土問題の議論を重ねた上で、解決に向けた次のステップに進む具体的道筋など依然全く見えない状況である。問題解決に向けた交渉は徐々に後退しているようにも感じられる。 ●国後島、地熱発電で全電力供給へ 北方領土のインフラ整備を行う「2007~15年 クリル諸島社会経済発展計画」の一環で、国後島で地熱発電所のタービンが更新・増設され、島全体の電力が地熱で賄われる予定である。計画が達成されれば、日本側が供与したディーゼル発電施設が不要になる可能性もあるとのことだ。 2011年1月31日、国後島を視察したバザルギン地域発展相は、2025年までのクリル発展計画を用意することを打ち出した。特に「クリル諸島連邦目的別プログラム」として、港湾施設、空港整備のほか、漁業発展のため、現在2つの水産加工場に加えて8つの新たな工場を建設する予定である。総額180億ルーブル(約540億円)が計上されると伝えられている。 ●北方四島交流等事業用の新船舶就航へ ビザなし交流など北方四島への交流事業に使用していた船舶が老朽化したため、2007年12月、バリアフリー設備も導入した船(約1200トン)を造る方針が決定された。2011年5月、新船舶の名は公募で「えとぴりか」となり、同年11月11日、命名進水式が広島県江田島市で行われた。「えとぴりか」は、来年5月からの就航が予定されている。 ![]() 【2011年2月1日朝日新聞、11月3日北海道新聞、9月23日「ロシアの声」、外務省HP、内閣府HP等より】 福島第一原発事故をきっかけに、かつて出版されたチェルノブイリ事故関連の書籍が相次いで新装・再出版されている。そのうちの2冊の感想です。
************ 1986年4月26日、ウクライナのチェルノブイリ原発で試験運転中の4号炉が爆発・炎上した。事故から36時間経過した時点で、発電所から3キロ圏内のプリチャピチ市民に避難命令が出された。28日、スウェーデン政府の問い合わせを機にソ連政府は事故を公表。5月5日~6日、原子炉火災が鎮火し、放射性物質の大量放出が止まった。飛散した放射性物質は、520京ベクレル。広島に投下された原子爆弾の200~500倍といわれる。ちなみに福島第一原発事故により今も放出されている量は37京~63京ベクレルである。 5月6日、30キロ圏内の住民に避難命令が出され、約13万人が避難した。 ソ連全域から、軍人や消防士ら作業員約60万人が、事故の詳細も知らされずに動員された。大量の放射能を浴びた作業員は、血液循環疾患をはじめとする様々な健康障害を発し、ベラルーシの専門家によれば、事故から5年間で約3万人、2011年現在まで約10万人が死亡したとされる(国連は、2005年、被爆による死者は約4千人と推定している)。 事故から25年経った現在も、許可が無ければ30キロ圏内に立ち入ることができない。強制移住させられた人々は、精神的苦痛に悩まされ続け、なかには、移住先の生活になじめずに政府の命令を無視して自宅に戻る者もいる。それらの「サマショール」(わがままな人)と呼ばれる人々は現在200人以上という。 2011年4月20日、爆発した原子炉を覆う新シェルターと放射性廃棄物保管施設の建設のため、EUなど約30の支援国や国際機関が、約650億円相当の資金拠出を表明した。 チェルノブイリの浄化プロジェクトが完了するのは2065年の予定である。 【2011年4月14日・20日日経、6月9日読売、11日日経新聞より】 ************ 『チェルノブイリの祈り-未来の物語』 スベトラーナ・アレクシエービッチ著(1998年)。著者は、ベラルーシのジャーナリスト。同国で最初にドキュメンタリーを手がけた著名な作家アレーシ・アダモービッチに師事した。チェルノブイリ事故当時、首都ミンスクに住んでいた。この本は、著者が3年にわたって、原発の従業員、科学者、医者、兵士、移住者、サマショール、地元政治家らにインタビューし、96年より雑誌に発表したものの集大成である。ベラルーシ人にとってチェルノブイリは第3次世界大戦。著者は、この戦争がどう展開し、国が人間にいかに恥知らずな振る舞いをしたか、その記憶を残し、かつ、事実の中から新しい世界観、視点を引き出すために10年の歳月をかけたと語っている。 以下、主な証言の要約である。 ************ <殉職した消防士の妻> プリピャチ市では、事故は「妨害工作」と言われた。夫は、「1600レントゲン」浴びて、放射性物体、人間原子炉と化した。最後は、骨と体が離れてしまい、体はぐらぐら、肺や肝臓のかけらが口から出て、自分の内臓で窒息状態。同僚の消防士もみな2週間後死去した。これから、お金の工面をはじめ、どこに行けばいいのか、なにを信じればいいのか、どの旗のもとに再起すればいいのかわからない。 <事故処理にあたった兵士> 34万人の兵士が生きたロボットとして投入された。原子炉の上で、バケツで黒鉛を引きずった者は「1万レントゲン」浴びた。「勇気とヒロイズムを発揮する」ため多くの命が失われた。アフガンで戦死すればよかった。そこでは死はありふれたことで、理解できることだった。 <映像ジャーナリスト> チェルノブイリの記録映画はない。撮らせてもらえなかった。悲劇を撮影することは禁じられ、撮影されたのはヒロイズムばかり。カメラマンはカメラを叩き壊された。チェルノブイリのことを正直に語るのは勇気が必要なのだ。 <住民たち> 原子炉が光っているのを見た。美しかった。ベランダに出て見物し、遠くから車や自転車で駆けつける人もいた。地上のにおいじゃないにおいがした。その後、人々は義務だと思ってメーデーの行進をしに出かけていった。情報は一切無く、政府は沈黙し、身を守るすべがなかった。 疎開した被災者はのけ者にされた。学校では「ホタル」と言われ、隣に座ると死ぬと避けられた。 <ベラルーシの核エネルギー研究所元所長> ミンスクにヨウ素剤が用意されていたが、倉庫に眠ったまま。誰も彼もが命令を待つだけで自分では何もしようとしなかった。上の怒りを買うことが原子力よりも怖かった。国家が最優先され、人命の価値はゼロに等しい。しかし、指導者連中は、ヨウ素剤を飲んでいた。彼らのために、郊外に専用の管理された農場で野菜や家畜が育てられた。 一刻も早く住民を移住させねばならないとモスクワに訴え出たら反ソ分子として刑事事件が起こされた。チェルノブイリ、これは犯罪史だ。 <同研究所技師> 食料品がむきだしのまま売られ、さらに、汚染されたものとわかっていても混ぜて売られた。もはや食料ではなく放射性廃棄物と知っていながら沈黙した理由は、共産党員だったから。わが国民は最高であると言う信念があり、命令には服従が当然だった。 <党地区委員会元第一書記> 体制の高い理想を信じていた。政治的利益が最優先され、パニックを許すなと命令されていた。住民を通りに出してはならないと言ったらメーデーをつぶしたいのかと言われ政治事件となる。市場への供出割り当て分を達成するため 、セシウム入りの牛乳を工場に運んだ。疎開、移住させられたあとも、ノルマ達成の農作業のために住民が連れてこられた。 ************ ひとつひとつの証言がそれぞれに衝撃的で一様ではない。しかしながら、根本的な構図は、福島の原発事故が引き起こした様相と似通っている。世界観の激変。情報の隠匿。打ち捨てられ、略奪にあった家々や残されたペット。チェルノブイリの汚染地域では、ペットを含め動物は次々と射殺されたということが違っているが。 以前の世界はなくなって苦悩だけが残った。人々は、何のために苦しんでいるのか。 『チェルノブイリ診療記』 菅谷昭著(2011年7月)。1998年に発行されたものの新版。副題「福島原発事故への黙示」。著者は、信州大医学部での職を辞し、甲状腺外科の専門医として、1996年から2001年までベラルーシでNGOと協力しながら医療活動に従事した。チェルノブイリ事故で最も汚染されたベラルーシ・ゴメリ州(1㎡あたり1480キロベクレル(40キュリー)以上)などにおける甲状腺障害の増加を、住民に対する諸検査と合わせて科学的に検証し、甲状腺がんなどの治療にあたった記録である。 ベラルーシの小児甲状腺がんの患者数は、事故前の10年間は7名であったが、事故後の10年間では424名。当初、事故は伏せられていたため、人々は5月1日のメーデーのパレード練習をしたり森で遊びキノコを採って食べたりしていた。この地域の人々が事故を知らされたのは5月2日以降。その間に住民の内部被ばくが進んでしまった。 ベラルーシ一帯は内陸地のため、海藻に含まれるヨードの摂取が不足気味になる。甲状腺は無機ヨードを原料として甲状腺ホルモンを作る器官で、体は、不足しているヨードを例えそれが放射性ヨードであっても取り込んでしまい、放射線の内部照射でがんが誘発される。放射性ヨードの半減期は8日であり、事故直後から十分な無機ヨードを投与されていれば、小児性甲状腺障害は軽減されていた。菅谷氏によると、いまだに汚染地域では異常分娩や子どもの免疫能力の低下問題があるそうだ。 氏は、日本では廃棄されるような古い機材・機器を使うベラルーシの病院で、10年以上も遅れた手術形式を目にして戸惑う。職域分担が厳密に区分けされ、人繰りがつかなければその日の手術が当日急に中止になるといった、ソ連式の融通のきかない官僚的、不合理なシステムに憤る。診療実績(=手術件数)で病院に経費が配分されるため、ベルトコンベヤー式に患者が次々に短時間で手術が行われる。その結果、すぐ再発を招き、度重なる手術で合併症のリスクも負うことになる子どもたちのエピソードが痛ましい。経済状態の悪化が医療現場にもしわ寄せされており、スタッフの生活は苦しく、カジノでアルバイトするほうが稼ぎになる医者もいた。氏は、切れないメスを使えるように切れないナイフで食事して練習した。 「旧態依然の非民主的体制」にぶつかりながらも、氏は「ベラルーシの医療を何とかしよう」といった意気込みで突っ走るようなことはせず、「あせりは禁物」と同僚たちとの信頼関係を築きながら、自ら持つ技術(首のしわに沿ってメスを入れる傷跡が残らない甲状腺摘出手術)が認められるように努めた。手術を手がけた患者は750人。しかし、この本には、氏がベラルーシに伝えた手術に関する記述はない。 現在、松本市長を務める氏は、政府の福島第一原発事故対応について、放射性物質の拡散状況を公表しなかったことなど、初動の経過からは全く危機感を感じることができず、国民の立場でものを考えているとは思えなかったと記し、「大切なのは、事実を伝えること」と訴える。福島の事故が収束しないなか、氏が予感した「第2のチェルノブイリ」説は決して非現実的ではないと感じられる。 アンジェイ・ワイダ(1926~ )監督作品(2007年)。1943年、独ソ戦のさなかにドイツ軍が、スモレンスクの森で約4千名の射殺されたポーランド人将校が埋められているのを発見した事件をテーマにしている。ワイダ監督の父も犠牲者の一人。監督は、1957年、カンヌ映画祭でフランスを訪れた際に読んだ、西側で出版されたカティン事件に関する文献で真相を知り、以来、事件の映画化を構想していた。1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が勃発。17日にはソ連がポーランドに侵攻した。独ソ不可侵条約の秘密議定書(モロトフ・リッベントロップ協定。39年8月)で、独ソは、ポーランドとバルト三国を分割占領することを取り決めていた。映画は、突然のソ連侵攻により、東西からの敵に挟み撃ちされた避難民が右往左往するシーンから始まる。ソ連軍の捕虜となりやがて虐殺されることになるポーランド将校と残された家族たちの運命を、複数の主要人物のストーリーが交錯する形で描いている。 戦後、ソ連の体制に組み込まれた「新生ポーランド」では、カティンの事件はナチスの仕業であるとして、真相の究明は封印された。この映画では、「カティン後」の描写が印象的である。事件を巡って、家族でも新体制に与して生きる者とソ連に背を向ける者とに分かれる。抵抗する者は反ソ活動で逮捕される。演出は淡々と抑えているが、事件のリサーチを重ねて再現したという将校処刑のシーンはおぞましい。また、映画ではさほど説明がないので、多少歴史的な事項をふまえないとわかりにくい部分があるかもしれない。ポーランド人将校の妻子の逃避行を手助けする、家族を失くしたソ連軍人がやや唐突に登場するが、その軍人もまたスターリニズムの犠牲者である、と示唆する場面など。 大戦中、英米はドイツとの戦闘を優先し、カティンの件で、連合国の一員であるソ連を糾弾することをあえて行わなかった。 ポーランド国内で公然とカティン事件の解明を求める声が上がったのは1980年代後半になってからである。88年、ソ連のグラスノスチ政策に伴い、ソ連・ポーランド両国合同の歴史委員会が発足して事件の見直しが進められた。1990年、ゴルバチョフは、事件はソ連の犯行であると公式に認めた。 ソ連により銃殺されたポーランド人将校らは、カティンの犠牲者も含めて約2万2千人と言われる。 2010年4月7日、プーチン首相は、ポーランドのトゥスク首相らポーランド首脳を初めてカティンに招いてカティン事件の追悼式典を開き、ワイダ監督もこれに出席した。この式典に招待されなかった、親米派とされるカチンスキ大統領らが、別に開いたポーランド主催のカティン追悼式典に出席のためスモレンスクに向かう途中、政府高官約90人とともに飛行機事故の犠牲となった出来事(4月10日)は記憶に新しい。 【参考】 2010年9月12日・8月11日・5月7日・4月8日、1988年3月29日朝日新聞ほか ![]() ポンピドー国立芸術文化センター(パリ)所蔵のシャガール(1887ー1985)とゴンチャローワ、ラリオーノフ、カンディンスキーらの作品展の感想です(東京藝術大学大学美術館:開催中~10.11;福岡市美術館:10.23~2011.1.10)。 シャガールの芸術と20世紀はじめに始まったロシア・アヴァンギャルドとの関わりに焦点をあてた企画で、シャガールが影響を受けた「ネオ・プリミティヴィスム」(ロシア・アヴァンギャルド運動初期の動きのひとつとされる)の絵画が合わせて展示されている。 右: 『ロシアとロバとその他のものに』(1911) ![]() ナターリア・ゴンチャローワ『収穫物を運ぶ女たち』(1911) ネオ・プリミティヴィスムは鮮やかな色彩と簡潔な描写が特徴。 1887年、帝政ロシア・ヴィテブスク(現ベラルーシ)のユダヤ人町に生まれたシャガールは、1908年から2年間、ペテルブルクで、バレエ・リュスの舞台芸術を手がけていたレオン・バクストの美術教室に通ったのち、パリで引き続き絵を学んだ。ロシア革命後、ヴィテブスクに戻り、革命政府の支援をえて1919年、美術学校を開くが、教授として招いたマレーヴィチと対立し、学校を辞職。翌年、モスクワで舞台美術の仕事を始めた。その後、パリに移住し、37年にフランス国籍を取得するが、ナチスのパリ占領を機に41年米国に亡命した。 ![]() ドイツ国内にあったシャガール作品は37年、退廃芸術としてナチスにより撤去され、独ソ戦で故郷のヴィテブスクは焼き払われた。渡米してまもなくの44年にはベラ夫人が死去。そのようななかで、シャガールの画風は、キュビズムやフォービズムの影響を受けた抽象的なものから幻想的な表現を主体としたものに変化していった。画面の端には農村生活のモチーフが配され、記憶の民らしく常に思い出の中に生きていたかのようだ。 画家は、戦争や混乱の時代を亡命者として生き抜き、つらいことも多かった現実を直視する表現よりも、脱力したような人物が漂う、現実感のないふわふわの夢の世界を描いた。作品だけを見ていると、愛や夢ばかりでもうひとつパンチがないと感じてしまうが、やはりいろいろな要因が背景にある。故郷に残っている親族を思えば、亡命画家としては反ソ的なものも描けなかった。 ![]() 『日曜日』(1952-54) 女性は再婚したヴァランディーナ夫人。 舞台美術の代表作としては、メトロポリタン・オペラ「魔笛」の衣装デザイン、舞台スケッチが展示されている。 また、会場ではビデオ『シャガール:ロシアとロバとその他のものに』(52分)が上映されており、画家本人の絵画に対する思いなど映像を通してより理解を深めることができる。このなかに出てくるユダヤ人村の様子は映画『屋根の上のヴァイオリン弾き』の光景そのものだった。 展示会の性格上、会場に置いてあるペーパーには作品リストに加えて、サイトに出ている年譜くらいはあったほうがよいと思った。どの展示会でも言えるが、立派な図録だけでなく、コンパクトで安価な小冊子程度のものも作成してほしい。 スターリン時代の強制収容所生活を生き抜いた学者エヴゲーニヤ・ギンズブルグ(1904-1977;右)の回顧録。(中田甫訳;集英社/続編、続々編の3冊構成。現在は絶版のもよう)カザンの大学で教鞭をとっていた著者は、共産党に「全生涯を捧げる決意」をしていたほど忠実な党員であったが、1934年12月のキーロフ暗殺をきっかけに始まった大粛清に巻き込まれ、37年、逮捕された。逮捕理由は、反党的として逮捕された同僚学者の著作や論文の「過ち」を指摘しなかったことだった。逮捕に納得せず、自らを地下テロ組織のメンバーとした「自白調書」へのサインを拒否した著者は、軍事裁判で禁固10年、公民権剥奪5年の判決を受けた。 家族(カザン市ソヴィエト議長の夫・アクショーノフと男児2人)と離れ離れになり、監獄で取調べを受ける日々からこの記録は始まる。収容された者同士が壁を叩く音やオペラのアリアで情報交換を行うなどの獄中生活の様子が詳しい。 教養があり信頼もされていた同僚が、取調官のいいなりのままに密告で他人の命を次々と犠牲にしたり、著者を断罪した取調官もその後逮捕・粛清されたり、といったエピソードが前半は続く。著者は、取調べで「自分だけのことについて真実を述べる。作りごとについては一切サインせず、誰の名も挙げない」という姿勢を貫いた。 判決後、中継監獄を経て、鉄道と船で極寒の地コリマ(「12ヶ月が冬で残りが夏」の地)に移送され、様々な労働に従事した。囚人を牢獄に閉じ込めておくより強制労働させるほうが「効率的」であるという国の方針転換による。 タイガでの作業は零下50度にならないと中止にならない。過酷な環境の中で、著者は何度も生存を脅かされる危機に陥ったが、頑健さと才気で乗り切った。ロシア・インテリゲンチャの精神、即ち、世紀はじめの賢者や詩人の遺産が自らを支えたと記している。 著者は刑期を満了するも、49年再逮捕され、東部シベリア地域に終身移住の判決を受けた。しかし、大陸から呼び寄せた次男(後の作家ワシーリー・アクショーノフ。長男は独ソ戦中にレニングラードで餓死)や囚人時代に知り合ったドイツ人医師との生活を願い、引き続きコリマに住むことを許された。追放処分が解かれたのは、スターリンの死後。18年ぶりに開放され、56年、名誉回復を受けた。 解放後は、回想記の作成に打ち込んだが公の出版はかなわず、国内にはサミズダート(私製版/地下出版)で流れ、やがて欧州、米国でも読まれるようになった。母国で完全な姿で出版されるという願いは、著者の存命中果たされなかったが、ペレストロイカ期の1990年、モスクワで公刊された。 平穏な時代であれば、一生表に出てくることはなかったかもしれない、個人の奥に潜む悪性に関して、著者は以下のように記している。 「・・・(他人を貶めた)人間はいかに良心の呵責にさいなまれるものか・・・苦しみの中で許しを請う人を見れば、「わが過ちなり」がそれぞれの人の心の中に鼓動しているのがわかる」 この本に描かれている生き地獄と、その究極の状況下にして初めてあらわれる、人間のさまざまな本性や生き様はあまりにすさまじく、言葉では説明し難いほどの衝撃を受ける。 最近の報道から北方領土に関する話題を紹介します。
●ビザなし交流をめぐる動き 1992年から毎年実施されている四島交流(ビザなし交流)事業は、本年も5月から開始され、すでに日本側からの訪問は2回実施されている(5月末現在。国後、色丹に各60名程度)。領土返還の環境づくりの事業であるため、交流プログラムでは、現地ロシア人住民と領土問題を議題とする「対話集会」が毎回行われてきた。しかし、ロシア側は、今年度の交流計画策定段階で、対話集会の中止を要請し、日ロの協議の結果、今年は「対話集会」に代わって領土問題を主要なテーマにしない「住民交流会」が開かれることとなった。 対話集会の模様(2007年5月) ![]() これまでにも四島訪問事業でのロシア出入国カードの提出要求などがあったが、今回、ロシア側が強硬な姿勢を見せている背景には、「北方領土問題等の解決の促進のための特別措置に関する法律(北特法)」の改正(09年7月)により北方領土が日本の「固有の領土」と規定されたことのほか、訪問団を受け入れるロシア側住民が事実上同じ人々であり、対話集会を毎回一から始めることに嫌気がさしていることも影響しているらしい。 結局、今年は例年どおりの規模で事業を行うことをロシア側は受け入れ、国後での住民交流会ではロシア人出席者が例年の10数名から100人以上になったそうだ。 第一陣の国後島上陸の際、日本側関係者間の調整不足のためか、チャーター船長が、今回初めてロシア側から提示された入港書類に記入・提出したので、2回目の色丹では、船長の署名が要らないIMO(国際海事機関)の書式による届を日本側で作成し、提出したという。また、ロシア外務省発行の記者証取得を避けるため、同行記者は動画撮影の自粛を当座受け入れた。 チャーター船ロサ・ルゴサ号 入港税については、国後島にあるロシア側の交流窓口が、1年間有効の入港税として約9,700ルーブル(約3万円)支払ったそうだ。日本側から交流事業の経費は一括して四島側に支払われるが、外務省は、入港税として支払うものではないとしている。ロシア国内法の適用をどうにか一見避けた形であるが、今後も同様の問題が続くのではと危惧されている。四島交流事業を維持したい日本のいわば足元を見ているロシアの狙いは、四島交流の枠を使った経済交流の開始であると指摘する声も多い。 北方四島への日本人の渡航に関する枠組については、こちらをご参照下さい。 【2010年2月7日、3月11日、5月14・15・29日北海道、6月6日毎日新聞より】 ●領土交渉に進展なし 2010年6月2日に辞任を表明した鳩山総理は、同日の記者会見で「やり残したことは日ロ関係」と語った。昨年9月の就任時、半年ないし1年で北方領土交渉の進展を図ると表明しており、今年6月以降、メドベージェフ大統領と3回首脳会談が予定されていた。 6月8日、菅総理は就任記者会見で、北方領土問題に対する具体的方針について、「鳩山総理がどういう約束をメドベージェフ大統領とされているのか、あるいはその流れがどうなっているのか、必ずしも詳細に状況をまだ把握しておりません」と答え、これまでの経緯などを十分検討した上で判断すると語った。 再任された岡田外相は、6月9日、ロシアのラブロフ外相との電話会談で、北方領土問題の打開策について協議を継続していくことを確認し、新政権でも日本の対ロ政策に大きな変更はないことを表明。一方、ラブロフ外相は、これまでの日ロ協力関係の発展を期待し、平和条約締結についても、建設的な対話をする用意があると応えた。 対話の姿勢を見せても、北方領土問題に対するロシア側の主張に変化は見られない。ラブロフ外相は、ロシアによる四島の領有は第二次大戦の結果で、日本はそれを認めるべきであり、その上で領土交渉を行うとしても日ソ共同宣言(1956)による歯舞・色丹の返還で決着する(2010年5月19日ロシア下院での発言)、と表明している。 鳩山総理が最後の閣議で、菅氏に渡したメモには「日米、日中、日韓をよろしくお願いします」とあったそうだ。日ロ関係、なかでも北方領土の問題は、最大の懸案ではあるけれども、現在、日本政府が抱えている内政問題や外交交渉のなかで最優先事項には位置づけられていない。今後も当面、日ロともにそれぞれの立場を会談で主張し続けるだけの「領土交渉」になるのだろう。 政府の北方領土問題対策には、外交交渉のほか、内閣府北方対策本部が行う啓発事業があるが、国民の関心を北方領土問題に引きつけ、返還運動を行い続けるのは容易ではなさそうだ。(写真右)前原沖縄及び北方対策担当大臣のアピール 【2010年5月20日毎日、6月5日産経、6月9・10日北海道新聞より】 ●北方四島周辺水域の安全操業の監視を強化 2010年1月29日、日ロの政府間協定に基づき国後島沖で操業していた、羅臼漁協所属のスケトウダラ刺し網漁船2隻が、ロシア国境警備局のヘリコプターから銃撃を受ける事件が起きた。 その後の海上保安庁の調べで、この2隻は、航跡を記録するVMS(衛星通信漁船管理システム)位置データを約4時間半受信していないことが判明し、さらに、同時に操業していた僚船13隻とホッケ刺し網漁船15隻がVMSを遮断していたことが明らかとなった。銃撃を受けた船の船長は、道海面漁業調整規則違反(区域外操業)で罰金刑を受けた。 北方領土周辺海域での「安全操業」は、領土問題に直結する管轄権を棚上げし、双方の信頼に基づいて行われるものとして1998年に始まった。漁業者はロシア側に協力費を支払い、決められたラインの中で操業する。 これまでにもロシア側による銃撃・拿捕事件が起きており、事件の真相はあいまいにされる場合が多かったが、日本漁船拿捕防止の目的で2009年10月、漁協にVMSが導入された。 1月の銃撃事件を受けて、北海道は、VMSの発信器に細工ができないようにし、操業を常時監視するなどの再発防止策をまとめ、5月11日、道議会に報告した。道海面漁業調整規則違反の罰則も強化され、違反操業者に対する出漁禁止の処分日数が増える。この防止策は、2010年10月からホッケ刺し網漁、11年1月からスケトウダラ刺し網漁から導入される予定である。 スケトウダラの価格暴落により、地元では、ルールを守っていては生活できないとの声がある。しかし、この度のVMS切断事件について、領土問題の犠牲となっている漁業者への同情論はなく、非難の声が強いことを道は危惧し、再発防止に毅然とした姿勢で臨むと報道されている。 北方領土周辺海域での日本漁船操業に関するロシアとの協定についてはこちら1・2もご参照下さい。 【2010年5月11日北海道、13日毎日、6月1日日刊水産経済新聞より】
戦後、ソ連やモンゴルに強制抑留された人々に特別給付金を支給する法案(戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法案)の成立が待たれている。同法案は、元抑留者に抑留期間に応じて1人25万円から150万円を給付することを柱とするもので、今年9月に解散予定の独立行政法人「平和祈念事業特別基金」を13年3月末まで存続させて、その基金約200億円を給付金の財源に充てる。法案は、2010年5月21日、参議院で全会一致で可決され、5月中に衆議院でも可決・成立が見込まれていたが、昨今の国会情勢の影響により5月末現在も衆議院で審議中である。
元シベリア抑留者への補償に関して、日ソ共同宣言(1956)で両政府は相互に賠償請求を放棄したため、元抑留者たちは、日本政府に対し、強制労働の未払い賃金の補償と謝罪を求め、法廷で争ってきた。しかし、いずれのケースも敗訴確定または敗訴となっている。全国抑留者補償協議会(全抑協)が、国に未払い賃金の補償を求めた訴訟での最高裁判決(1997.3.13)では「抑留も、国民のひとしく受忍しなければならなかった戦争損害のひとつであり、抑留の補償には立法措置を講ずることが必要である」とされた。全抑協はこの判決を受けたのちは、補償を実現する立法に向けた要請活動を続けてきた。04年以来、元抑留者に給付金を支給する法案は、野党(民主党等)から度々国会に提出されたが、廃案ないし否決が繰り返された。09年の政権交代により、元抑留者に対する国からの給付金支給の実現性が高まったが、政府内には、別の国家補償問題に波及するとの懸念も根強いと言われる。この度の法案が政治決着により成立することが期待されている。 法案には、「特別給付金の支給」のほか、強制抑留の実態調査等(抑留者の埋葬場所、遺骨等の収集、抑留の実態解明その他)に関する基本方針を定めることが盛り込まれている。なお、特別給付金の支給対象は、「法律の施行の日において日本の国籍を有するもの」であり、日本軍に徴用された朝鮮半島出身者など外国籍の元抑留者は対象外である。 【2009年10月15日毎日、2010年1月9日読売、5月14日毎日、5月21日北海道新聞より】 当ブログの関連記事もご参照ください。 【参考】 以下、長いですが、全抑協会長でシベリア立法推進会議代表でもある平塚光雄氏の声を一部紹介します。 ・・・自公政権は、シベリア抑留問題への対応は10年9月(注1)で完全に幕を引くと決めていた。代わりに記念品を配る事業を実施したが、07年に届いた記念品に添付されていたちっぽけな送付状には「先の大戦における御労苦に対し心から慰藉(注2)の念を表します 内閣総理大臣」とあるだけで、当時の安倍晋三首相の名前も日付も記入されておらず、あぜんとした。首相官邸に送付状を返却しに行き、抗議すると、官房副長官も「お怒りは当然」とすぐに送付状を作り直し、あらためて送ってくれた。その時一緒に官邸を訪れた仲間のうち、この2年半で半分の4人がすでに他界した。私自身も今年の正月は病院で迎えた。もはや残された時間は少ない。 小泉構造改革の後遺症と空前の不況で、国の支援を必要とする社会的弱者は他にも多い。私たちだけを特別扱いせよと求めるつもりはないが、遅れるなら遅れると説明し、どうしてもできないのであれば、理由を明らかにして謝罪してほしい。 すでに野党側の了承も得られている今回の法案も、あれだけの過酷な重労働3年に対し、25万円の特別給付金では少なすぎるという気はする。だが、金額の問題ではない。強制労働を国として受け止め、その責任を認めてくれるのであれば、尊厳回復のあかしとして、私たちはそれを受け入れようと決めている。国として、歴史的、政治的にけじめをつけていただきたい。 私たちは国と和解することを望んでいるが、私たちの声がどこまで鳩山首相に届いているのかもわからない。もどかしさと焦りを禁じ得ない。 「領土はなくなることはないが、人のいのちには限りがある」と語って、1956年にソ連との交渉のためモスクワに赴いたのは、首相の祖父の鳩山一郎首相だった。 シベリアで弔いもできないまま多くのいのちを見送ってきた私たちのいのちがあるうちに、抑留問題のけじめをつけていただきたい。 (注1)当初予定されていた平和祈念事業特別基金の解散時期 (注2)いしゃ。慰めいたわること。 出典:(私の視点)シベリア抑留 今こそ国はけじめをつけよ (2010年2月18日 朝日新聞) 【追記】 2010年6月16日、第174回通常国会の最終日に、戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法案は成立し、同法は即日公布・施行された。 ![]() ロシアを代表するアニメーション作家ユーリー・ノルシュテイン(1941-)(右)とその作品の美術監督であるフランチェスカ・ヤールブソワ(1942-)夫妻の展示会の感想です(神奈川県立近代美術館 葉山館・6月27日まで)。 ![]() ノルシュテイン作品の下絵・絵コンテを中心に、作家の世界を紹介する展示で、現代のCGを多用した量産アニメーションとは全く異なる詩的な映像にふれることができる。CMなどをのぞく過去約40年間の作品(共同監督を含む)のほとんど全て(『25日-最初の日』(1968)、『ケルジェネツの戦い』(1971)、『キツネとウサギ』(1973)、『アオサギとツル』(1974年)、『霧の中のハリネズミ』(1975)、『話の話』(1979)、『冬の日-狂句 木枯らしの身は竹斎に似たる哉』(2003)、『外套』(制作中))について展示されている。11時と15時に上映会がある(『ケルジェネツの戦い』を除く)。 ノルシュテインのアニメーションは、絵コンテから作成した切り絵を少しずつずらしながら撮影し動きを作るという手間のかかる手法で作られる。マルチプレーン(多層のガラス面に切り絵を配置して撮影する)で奥行きを出す表現も独特で、手作業の暖かさが伝わってくる。複雑な色づかいの変化が美しい。『キツネとウサギ』からは土気が、『霧の中のハリネズミ』(右)からは冷気が感じられる。 1980年に着手した『外套』は今もって制作中で、会場ではラッシュを見ることができる。主人公アカーキエヴィチの表情やしぐさの表現が驚異的である。『話の話』はやや観念的な作品。個人的なおすすめは『霧の中のハリネズミ』。君がいなければ誰と一緒に星を数える?と切々と訴える小熊の脇で夢から覚めやらぬ様子のハリネズミ。ブルーグレイを基調とした幻想的な世界が展開されている。ノルシュテインは、芭蕉、一茶、北斎などを信奉する日本文化愛好家でもあるそうだ。アニメ作家育成に熱心で、日本でワークショップを開くなど制作指導を行っている。
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